キミガモリ
七町藍路
第1話
森が妙にざわめく夏の夕暮れだった。
楓は畳の上で寝返りを打った。ポニーテールがはらりと畳の上に広がった。開け放たれたままの縁側から風鈴を鳴らす風が入ってくる。そのたびに、蚊取線香の匂いが楓の鼻をくすぐった。頭のほうで充電しているスマートフォンを手探りで掴むと、待ち受け画面のデジタル時計は五時半すぎを表示していた。楓は溜息を吐いた。スマートフォンが手から滑り落ちて、ストラップがジャラッと音を立てた。
「……また圏外」
これだから田舎は嫌なのだ。電波状況が悪く、圏外とアンテナ一本を繰り返す。友達とまともに連絡も取り合えない。同級生たちは今頃、高校生活最初の夏休みを満喫しているだろう。可愛い水着で海やプールに行って、買い物をして、美味しいものを食べて、テーマパークに行って、浴衣で花火大会、集まって勉強会。夏休みを楽しんでいる友達を想像すると、楓は無性に腹が立った。
――何が嬉しくて、こんな田舎で夏休みを終えなきゃいけないのよ。
新学期が始まって、同級生たちの共通の話題について行けないことを考えれば、苛立ちが増し、風が運んでくるヒグラシの鳴き声さえも煩わしく感じた。
父親の実家に親戚一同が集まるのは、夏休みの恒例行事だった。楓も毎年欠かさずに、両親と弟の草介の家族四人で山奥にある祖父母の家に来ていた。楓たち岩月家だけでなく、村のすべての家に、あちこちから一族が集結する。それはお盆の後に行われる、村の祭事のためだった。この時期だけは静かな村が活気づき、家々の前や庭、広い空地には県外ナンバーの車がたくさん停まっていた。都会で暮らす楓には、田舎の良さも祭事の重要性もまだ分からない。田舎で過ごす夏休みはとても単調で退屈な日々だった。近くに住んでいる母方の祖父母の家にはよく遊びに行くのだが、父方のほうは車で半日以上もかかるので、訪れるのは夏休みのこの時期だけだった。楓と草介は先に祖父母の家に預けられ、両親は仕事が休みになってから合流するのが毎年のことだった。
ポーン……。畑の真ん中にぽつんと設置されたスピーカーから、のんびりとした口調の村内放送が流れ始めた。山にこだまして、声が重なる。
「美瀬村のみなさん。淵坂の県道は午後六時に閉鎖されます。明朝五時まで通行止めが続きます。繰り返します……」
ビセ。美しい瀬と書いて、ビセと読む美瀬村は、四方を山に囲まれた小さな村だ。放送にあった県道は、村と外を結ぶ唯一の道だから、村を行き来するみんなが通る。村を北東から南西へと流れる美瀬川に沿ってくねくねと走る県道は、山や森を縫うように作られているため木々に光を遮られて昼間でも薄暗く、いつも湿っている。ガードレールの向こう側は崖だ。
カーブを繰り返しながら県道を走ると、隣の町まで車でも一時間近くかかる。県道は村の南西にある淵坂地区から村に入り、東へと続き、淵坂の隣の仲塚地区で終わる。そこから先は舗装されているものの、歩道や街灯のない道が村の奥へと続いている。仲塚地区は村の中央に位置し、役場や病院、小中学校がある。仲塚からさらに東へ進むと東麓地区、北へ進むと神下地区に着く。村はこの四つの地区に分けられている。楓の祖父母の家は神下にある古い日本家屋だ。主に農業で生計を立ててきたため、母屋のほかに農作業用の小屋や蔵もあるが、今ではほとんど使われていない。家の敷地を囲む塀は生垣だが、それも整然と植えられているわけではなく、隙間だらけだった。おかげで畑との境界が曖昧な庭は、村の子供たちや獣の抜け道になっていた。
楓は顔に掛かった髪を手で払った。微かに蚊取線香の匂いがした。
神下という地名は、すぐそこまで迫る山の上にある神社に由来している。石の大きな鳥居が楓の祖父母の家からも山の麓に見える。神社の下にあるから、神下。地名なんてそんなものだ。楓は寝返りを打った。大人たちは今頃、神社で祭りの準備に追われているのだろう。
ポーン……。また外から放送が聞こえてくる。
「美瀬村の良い子の皆さん。今夜は影祭です。七時までには家に帰りましょう。日が昇るまで、家の外に出てはいけません。繰り返します……」
美瀬村では一日のうちに二種類の祭りを行う。朝から昼過ぎまでの山祭は、よくある自然信仰の祭りで、春夏秋冬をイメージした四つの神輿が村を巡り、繁栄や豊作を祈願して神社に奉納される。神社から神下を通り抜け、仲塚まで続く参道沿いには屋台が出て、それなりに賑わうのだ。しかし、昼を過ぎると慌ただしく片づけを始め、三時には祭りの余韻さえなくなっている。次の祭りの準備が待っているからだ。日が沈んでから始まる祭りが、美瀬村にとって重要な祭りらしい。
影祭。それは、とても静かで奇妙な祭りだった。十八歳に満たない子供は、影祭に参加するどころか、祭りの準備や後片付けを手伝うことも禁止されている。子供たちは太陽が沈んでから昇るまで、家の外に出ることさえ許されない。楓は影祭を窓から見たことしかなかったが、幼いころからずっと、薄らと気味の悪いものを感じていた。楓は目を閉じて、影祭の光景を瞼の裏に思い浮かべた。
神社のほうから暗闇の中を人の列が山を下りてくる。人々はお面や毛皮を身にまとって様々な獣に扮し、ぼんやりとした明かりの提灯を掲げてゆっくりと村を練り歩いて行く。その獣の列の中央に、一人だけ真っ白な格好をした人がいる。目も口もない、のっぺらぼうの白いお面に、修験者のような白い装束、昔話の山姥を思わせるような白い長髪。村人はそれを「ヤマガミ様」と呼んでいた。ヤマガミ様の一行は仲塚のほうへと歩いて行き、夜更けになると戻ってくる。その時にはヤマガミ様のお面が白いのっぺらぼうから赤を基調とした紋様で装飾されていて、楓は歌舞伎の隈取を思い出した。ヤマガミ様が提灯の明かりに照らされると、少し離れた家の窓から見ていても、裂けた口とそこから覗く牙がはっきりと分かった。行列は大人くらいある黒い人形のようなものを担いで、神社のほうへと消えていく。行きも帰りも、ただ黙々と歩き続けていた。掛け声も歓声もない。笛や太鼓もない。何度見ても、楓はその独特な雰囲気に慣れることはなかった。神下の竹林も、仲塚の古い柳の木も、淵坂の淀んだ深い川辺も、東麓の墓地も、薄気味悪い場所は村のあちこちにあるのだが、影祭はそれらとは違う空気感があった。何をしているのか、何のためなのか、祭りの目的が子供には明かされていないことが、影祭の怖さだった。
そもそも、閉鎖的な村全体に漂う言いようのない粘り気が、楓は嫌いだった。吹き抜ける風の一つ一つに、見えない何かの囁き声が混ざっている。湿気とは別のじめじめとした空気。それでいて村人は親切な人ばかりで、都会から帰省してきた家族を差別することなく平等に接してくれる。だからこそ、得体の知れない不気味さが浮き出てくるのだ。
――田舎なんて、どこも同じようなものよ。
楓は自分にそう言い聞かせてみたが、早く帰りたいという気持ちが消えることはない。村のことが嫌いなわけではないが、いつも不安になる。落ち着かない。村を覆う空気に押し潰されてしまいそうになる時があった。何かあるのに、何があるのか分からない。時々、そんな感覚に襲われる。「そこにあるのに理由が分からないもの」というのは、楓にとって不気味なものだった。詳細の分からない村の祭事もそのひとつだったし、何よりも村の片隅にひっそりと存在する「モリ」と呼ばれる場所の存在が楓の心をざわつかせていた。楓は髪の束を指に巻きつかせながら、天井の木目を見つめた。
「決してモリに入ってはいけないよ。神隠しに遭うからね」
幼いころから両親や祖父母に繰り返し言い聞かされてきた言葉を楓は呟いてみた。神隠しなんて、今時、信じている子供なんていないのに。楓はそう思っているが、そんな言葉が信じられていた頃から続いている仕来りなのだと考えると、モリは一層不気味な場所に感じられた。
山の麓の石鳥居を抜けて神社の参道を進んで行くと、山道の途中に三叉路がある。そこを左に行けばしばらくすると神社の石段が見えてくる。右の道を進むと、やがて道が注連縄で閉ざされる。その先が「モリ」だ。鬱蒼とした森の奥へと山道は続いているが、モリがどのような場所なのかは見えない。言いつけを破って忍び込んだことのある村の子供たちに尋ねてみると、山道はやがて開けた場所に出て、そこには古い屋敷があるのだと教えてくれた。それも、日本家屋と洋館があるのだと言う。二つの建物が何なのかを知っている子供はいない。見えない境界線があるらしい。神隠しを恐れているのではなくて、そこに横たわっている風習をまとった何かの気配を、子供ながらに感じ取っているのだ。建物も含めた、注連縄の先の一帯をモリと呼んでいるのだと子供たちは言っていた。
大人たちにモリのことを尋ねると、首を振った。
「あれはワシらの土地じゃない、モリの人たちの土地だ。だから勝手に入ると罰が当たる」
楓の祖父はそう言っていた。祖母も、親戚のおじさんたちも、同じようなことを言った。モリの人たちが何者なのか教えてはくれなかった。村の出身ではない母は苦笑して言った。
「知りたいと思ってもね、知っちゃいけないこともあるのよ。知らなければよかったと思うこともある。大人になれば、そんな物事の対処法が分かってくるの」
母はこう続けた。
「みんな好奇心を持っている。好奇心は、とっても大事。でも使い方を間違えちゃいけないの。だから子供はまだ駄目なのよ。はやく好奇心のやり過ごし方を覚えなきゃね」
好奇心のやり過ごし方を知らない子供たちは、モリに忍び込むことをある種の度胸試しとして捉えていたが、そこから一歩先へ踏み込むことはなかった。分かっているのだ。この先は駄目だ、と。
楓はもう一度寝返りを打ってから起き上がった。ぼさぼさになった髪を手で整えてポニーテールを結び直す。淡いピンクのTシャツとデニムの短パンはオシャレとは言えないが、田舎で過ごす分には一向に構わない。意気込んで流行りの可愛い服を着ても、誰も共感はしてくれないし、すぐに虫や土埃で汚れてしまう。蚊取線香の匂いも付く。農作業を手伝うときはもちろんジャージで、高校や中学時代の体操服を着て過ごす日もあった。楓は畳の目の跡が残る腕をポリポリと掻いた。古い柱時計を見ると、五時五十分だった。草介はまだ帰らないのだろうか。
弟の草介は中学二年生の遊び盛りの育ち盛りだ。親戚一同が集まっても、岩月家には楓たち姉弟のほかに十八歳未満の子供がいない。草介は同年代の村の子供たちや帰省した子供たちと遊んでいた。畦道を走り回ったり、川で釣りをしたり、山へ虫捕りに出かけたりと、草介は都会では過ごせないような夏休みを満喫しているらしい。今日も草介は山祭を楽しんだあと遊びに出かけていた。楓は伸びをしながら玄関に向かい、誰かのぶかぶかのサンダルを履いて外に出た。六時近くなっても、まだ暑い。少し傾いている太陽は強い輝きを放ったままだ。黄色く色づき始めた田んぼも、葉っぱが生い茂っている畑も、村を囲む山も、いつもと変わらない景色だ。ただ、今日は少し風が強い。時折、山が唸るような音を立てている。子供たちの姿はどこにも見えない。トンボが飛んでいるだけだった。どこまで遊びに行ったのだろうか。楓は首を傾げながら家の中に戻った。廊下を裸足でペタペタと歩くと、足の裏が冷たくて心地良い。たとえ日が沈んでも、村のどこかの家でお世話になるだろう。そういうところは田舎の良いところだ。楓はあまり心配せずに和室へ戻った。相変わらずスマートフォンの電波は圏外のままだった。
ガサガサと庭の生垣が揺れた。楓は顔を上げて庭を見た。風、動物、それとも子供?
「お嬢、お嬢」
生垣のほうから囁く声が聞こえてきた。楓は縁側まで行き、声の主を探した。楓のことをお嬢なんて呼ぶのは村のガキ大将の純太とその取り巻きくらいだ。都会のお嬢さんという意味らしい。楓以外にも都会から帰省してくる女の子はいるが、なぜか楓だけがそう呼ばれている。思った通り、ツバキとサツキの間から、純太が顔を出した。
「お嬢、大変じゃ」
純太はいつもの威勢の良さは面影もなく、焦りが見て取れた。どうしたの、と楓は縁側から下駄を履いて庭に出た。大きな下駄がカランと鳴る。
「草介がモリに入ったまま出てこん」
「アンタたち、モリに入ったの?」
楓が呆れたように言うと、純太は泣きそうな顔をした。純太は草介よりも一つ年下の中学一年生だが、いつも子供たちの輪の中心にいる。村の子供も、帰省してきた子供も、純太と遊ぶのが好きだ。純太は活発で足が速く、虫を捕るのが上手なので、小学生たちからも慕われているし、うまく子供たちをまとめるので、年上からも一目置かれる存在だ。
「度胸試しをしとったんじゃ。モリにどれだけ長く居られるかって」
「建物にも入ったの?」
「だって、注連縄をくぐるだけじゃ、度胸試しにもならん。みんなで一人ずつ順番に入って、数を数えて出てくるんじゃ。草介の順番になって、アイツも入っていたけど、いつまで待っても戻ってこんのじゃ。名前を呼んでも返事すらねぇし。なあ、お嬢、これが神隠しってやつか?」
「そんなものあるわけないでしょ」
そう言うと楓は縁側に戻った。下駄がカランコロンと音を立てて地面に転がった。
「私が探しに行くから、アンタは先に帰ってなさい」
「でも」
「いい? モリに入ったことは誰にも言わないで。私がモリに行くことも。私だって怒られるのは嫌なんだから」
でも、と純太は繰り返した。楓は溜息を吐いた。仕方がない。
「着替えて懐中電灯を持ってくるから、玄関で待ってなさい。罰としてモリまで案内すること。いいわね?」
楓の言葉に純太は何度も頷いた。別に、探しに行かなくても大丈夫、と楓は思う。草介だってもう中学生なのだから、心配しなくてもすぐに帰ってくるだろう。けれども、日が暮れるまでに帰ってこなかったらどうしようという不安も楓の心の中にはある。影祭の夜に言いつけを破って夜になってから外に出て、それで何が起こるのかは分からなかったが、暗黙の了解が重くのしかかってくる。ルールを破りたくはない。悪戯で済まされることではないのだと子供たちは感じている。楓もそうだった。高校一年生は、この村の子供の中では三番目に大きな学年だ。私がしっかりしなきゃ、という使命感や責任感が楓にはあった。楓は家の中に戻り、納戸から懐中電灯を取り出した。急いで長袖の体操服に着替える。モリまでの山道は虫が多く、足元が悪い。木の枝が飛び出しているところもある。玄関でスニーカーを履くと、楓は玄関を開けた。元気のない純太が待っていた。
楓が歩き始めると、純太は後ろをトボトボと付いてきた。純太のサンダルが時折キュッキュッと鳴った。
村は人の気配がなく、静まり返っていた。蝉の鳴き声がとても遠くに感じられる。まるで世界に楓と純太だけが取り残されたようだった。山に近付くにつれて、風のざわめきが大きくなった。二人は誰にも会わなかった。
三叉路で楓は立ち止まった。左へ進めば大人たちが祭りの準備をしている神社だ。そして右が、モリ。汚れた注連縄の向こうに深い森へと入っていく道が続いている。楓は注連縄をくぐった。純太も楓に続く。注連縄を越えただけで、空気が変わったように感じる。風が冷たい。さやさやと梢が揺れる。
「これに懲りたら、もうモリで度胸試しをするのはやめてよね。やるなら東麓の墓地で肝試しでもすればいいわ」
楓がそう言うと、純太は力なく頷いた。舗装がボロボロになり雑草や落ち葉で滑りやすくなった道を楓は踏みしめるように歩いた。薄暗い山道を五分ほど歩くと、視界が開けた。そこには噂の通り、二軒の古い屋敷があった。ススキのような高い枯草が周りを囲んでいる。片方は二階建ての日本家屋で、もう片方は三階建ての洋館だ。どちらもひどく朽ちていたが、どこか威厳があった。ツタが絡まり、瓦は落ち、窓は割れて壁には穴が開いている。けれども、田舎の山奥にあるのが不自然なほど立派な建物だった。保存状態が良ければ、県の文化財に指定されていたかもしれない。楓はしばらくの間、建物を見上げていた。
「お嬢」
純太が不安そうに楓の服の裾を引っ張った。我に返った楓は枯草を掻き分けて屋敷に近付いていく。振り向くと、純太は枯草の向こうで立ち止まっていた。
「どこから入ったの?」
「和風のほうじゃ。向かって左側の壁に穴がある。でもお嬢には狭いかもしれん」
人の侵入を拒むような枯草の海を抜けて、楓は屋敷の左側に出た。純太が言う通り、壁に穴が開いている。しかし、小学生ならまだしも、高校生の楓には小さすぎる穴だ。草介もギリギリだったはずだ。来年の夏にはもう通り抜けられなくなっているだろう。風が枯草をざわざわと揺らして吹き抜ける。楓は枯草の向こう側に立ったまま動かない純太に声をかけた。
「ここでいいわ。あとは自分でどうにかする。アンタは先に帰りなさい」
「でも」
「私だって日が沈むまでには帰るつもりよ。万が一、草介が見つからなくても、ここだって廃墟だけど一応は家でしょ? 最悪の場合はここで夜明けを待つことにする」
楓は屋敷を見上げた。とても人が住めるような状態ではないが、なぜか怖くはなかった。なぜ村の大人たちはモリに入ってはいけないと言うのだろうか。どうしてこの屋敷を隠しているのだろうか。こんな立派なものを隠すのだから、それだけの理由があるのだろう。その理由を知りたいと楓は思ったが、今は好奇心に任せて行動している場合ではない。影祭が始まるまでに草介を見つけて家に帰らなければ。
「お嬢、怖くないんか?」
「どう見ても廃墟なんだから、幽霊なんかより、ここに誰かが住んでいるほうが怖いわ。ほら、早く帰りなさいよ」
「床が抜けとる場所もあるから、気を付けてな」
「大丈夫、懐中電灯があるから」
楓は懐中電灯のスイッチをつけて純太に向けた。純太は眩しそうに目を瞑ったあと、来た道を走って行った。楓は純太の姿が見えなくなってから、深呼吸をした。夏の濃い匂いを胸いっぱいに吸い込む。楓はまた屋敷を見上げた。夕暮れの中に建つ屋敷はひっそりと黙ったまま楓を見下ろしていた。楓は壁の穴の中を懐中電灯で照らした。廊下のような場所が見える。床に積もった埃の上に、足跡がいくつか残っていた。楓は中に入れる穴を探して屋敷の外を一周してみることにした。
日本家屋はコの字に建てられていて、穴があるのはコの下の部分の左側だった。枯草を掻き分けながら時計回りにぐるりと歩いてみたが、楓が入れそうな場所はない。壁に大きな穴が開いていても、建具や瓦礫が邪魔で通れない。雨戸は固く閉ざされて開きそうになく、壊れて入れそうな窓は二階に見えていたが、届きそうにもなかった。柱をのぼるにも、腐っていたり、ぐらぐらと揺れていたりと、頼りにならない。コの字の右側には洋館に繋がる渡り廊下があった。渡り廊下は高い柵に囲まれて乗り越えられそうにない。楓は洋館のほうへ歩いて行った。洋館はL字型だった。洋館の窓からも中には入れそうになかった。
「こっちは別館ね」
楓はそう呟いた。洋館のほうには渡り廊下以外に扉がなかったからだ。楓は草を掻き分けて本館だと思われる日本家屋に戻ってきた。思っていたよりも大きな建物だった。楓の額にはじんわりと汗が滲んでいた。コの字の底辺にあたるところに、瓦礫や折れた木材で塞がれているが、玄関だったらしい場所がある。玄関の傍には「美森山荘」と読める木製の看板が落ちていた。ここは旅館だったのかもしれないが、楓はそんな話を聞いたことがなかった。村にある宿泊施設は仲塚の役場の近くにある民宿二軒だけだ。その二軒の民宿も、この時期以外は営業していない。こんな大きな旅館が建てられるほどの観光資源は村にはない。そもそも観光マップなんてこの村にはない。謎だらけだ。楓は流れてきた汗を手の甲で拭った。
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