後日談

1月16日 Have a good life.

「10歳の誕生日おめでとう、叶」


 僕とママが、ケーキを挟んで叶の向かいに座る。ママがうれしそうにビデオカメラを回し始めたのを見て、僕はリモコンスイッチで電気を消した。

 電気を消した部屋の中で、叶のぶっきらぼうな顔が、ろうそくの灯りに照らされて揺れる。彼女のために歌われたハッピーバースデーが終わるのを待って、叶は火を吹き消した。

 子供の叶では、どうにも息の量が足りないらしく、歳の数だけ差されたろうそくのうち、はじめの息で消えてくれたのは2本だけだった。

 ふーっ、ふーっ。少ない息で一本ずつ確実に消していく作戦に移行した叶を見て、僕とママが顔を見合わせて笑う。


「学習したなぁ」

「去年は、酸欠になるんじゃないかってくらい必死にフーフー吹いてたもんね」


 全てのろうそくが消えるのを待って、また電気をつける。今日の主役は、むくれていた。


「もう10歳なのに……子供っぽいよ」

「あはは、まぁまぁ。去年は仕事が忙しくて祝ってあげられなかったしさ」

「今年は病院、落ち着いてるのね?」

「いや、去年の搬送数が異常だったんだよ」

「ねぇそれより! はやくケーキ、切ってよ!」

「ふふ。はいはい」


 むくれてはいるが、彼女は欲望に忠実であった。

 ママは、僕にビデオカメラを預けて、空いた手にケーキナイフを持った。

 サッ、サッ、と最小限の動作でケーキを切り分ける妻に、内心で感嘆の息を漏らしながら、僕も、カメラを持ちながらできる仕事をやる。といっても、3人のシャンメリーを注ぐだけだけれど。

 6歳のクリスマスのとき、スーパーで買ってきたシャンメリーの発音栓に叶が大喜びして、誕生日でもあれが飲みたいとリクエストしてくれた。それからずっと、叶の誕生日のテーブルには、クリスマスでもないのにシャンメリーのボトルが二本並ぶ。

 ケーキを食べる準備が整う。最後にフォークを配って、乾杯の儀式に移る。


「えー。叶ももう10歳、成人への折り返し地点だね。そんな記念すべき日に、こうやって家族みんなで……」

「ながい! かんぱーい!」

「乾杯!」

「パパ泣いちゃうよ?」


 挨拶を途中で遮られて、今度は僕がむくれるけれど。


「おいしーい!」


 誕生日ケーキを食べる時だけは、ずっと小さい頃から変わらない笑顔を浮かべる娘を見ていると、すぐにそんなことはどうでもよくなった。


#


「CD一枚なんかでよかったのかなぁ……」

「何が?」

「誕生日プレゼント。10歳という記念すべき誕生日なんだから、もっと後々残るような……」

「本人の希望なんだからいいじゃない。甘すぎです」

「そうかなぁ」


 嬉しそうに誕生日プレゼントのCDを持って自分の部屋へと戻っていった叶を見送ったあと、洗い物をしながら、久しぶりに夫婦の会話をする。


 僕と同じ『雨宮』になる前、彼女の苗字は『寺内』だった。薬剤師志望だった彼女と医大で出会って、軽い気持ちで付き合って、軽い気持ちですぐに別れ……その4年後に勤め先の病院で偶然再会。復縁し、結婚した。

 結婚して半年もしないうちに、お腹の中に叶の命が芽生えた。叶は産休と育休を取れたけれど、大病院で重要な仕事も任されるようになった僕は、叶の出産に立ち会うことはできなかった。それがどうしても悔やまれて、出しゃばり過ぎと咎められるほどに叶の世話を頑張った。

 そんなわけで、医大を出たあと7、8年間くらい激動の日々を過ごしてきた。叶が大きくなってきて、やっと落ち着いてきて、少しだけだけど、夫婦の時間も取れるようになってきている。

 皿洗いから、洗濯物を畳む作業に移行する。キッチンから脱衣所へ歩きながら、僕は妻に笑いかける。


「……ねぇ、一昨年だったっけ」

「何が?」

「一昨年のこの時期だよ。ママが元カレの話をして、僕が拗ねちゃって、ケンカになったじゃん」

「あははは! やだもう、そんなこと思い出さないでよ!」


 叶がインフルエンザにかかって、僕の仕事も忙しくて、ちょっとすれ違いが起きたんだっけ。

 突然、妻が僕に元カレの自慢をしだした。今思えば、妻は、自分に嫉妬してほしかったのかもしれない。僕にとって自分が必要であるということを知らしめ、再認識し、満足したかったのかもしれない。

 現に僕は今、情けないことに、そんな気分に陥っていた。

 仕事が思うようにいかない怖さを、妻に嫉妬してもらうことで、僕が必要だと言ってもらうことで、癒そうとしている。


「だから今年はね、僕の元カノの話をしてやろうと思うんだ。要はね、嫉妬してほしい」

「女々しいなぁパパは」


 冗談めかして、畳んだバスタオルを僕の顔に押し当ててくる。右頬に柔らかな感触を感じながら、僕は家に帰ってからずっと着たままだったスーツの胸ポケットから、手帳を取り出した。

 差し出したそれを、妻が受け取る。


「……そう。この手帳のこと、ずっと聞きたかったんだ。大学の時から大事に持ってたよね」

「うん、元カノからもらったものだし、今まで君には話さないでおこうと思ってたんだけど……今なら、大丈夫だろうと思ってね」

「えー。私だって、嫉妬しちゃうかもしれないけど?」

「言ったろ、嫉妬してほしいんだよ」

「ふふ、今日はいやに可愛いこと言うね。中を見ても?」

「……うん」


 僕に宛てて、彼女が書いてくれたメッセージ。

 それを別の人間に読ませることに、少しの躊躇いもなかったとは言わない。だけど、これは僕がずっと先延ばしにしてきた、夫婦の儀式だと思っている。

 いまの僕を形成したメッセージを、いつも僕を導いてくれるメッセージを、僕という人間を構成する叱咤激励のラストメッセージを。

 生涯の伴侶と決めた女性に、読んでおいてもらいたかった。知っておいてもらいたかった。


 気持ちの悪い自己満足である。


 僕が言い訳がましい理由づけに躍起になっている間に、妻は、メッセージの全てを読んでくれたようだった。

 それから僕は全てを話した。彼女と過ごした、最後の一月半のことを、余すことなく全て。

 全てを聞いたあと、妻は、怒るでも嫉妬するでもなく、結婚式の集合写真より明るい笑顔で泣いた。


「…………嬉しい」

「嬉しい?」

「嬉しいに決まってるじゃない。日岡さんという人と、そんなことがあったのに、あなたは私と結婚してくれた」


 手帳を僕の胸ポケットにしまって、彼女は続ける。


「清算した、って言い方はよくないかもしれないけれど。ここに書かれていたように、あなたは日岡さんへの想いに縛られなかった」

「…………」

「日岡さんがあなたに膵臓をくれたから。

 日岡さんがあなたに手帳を残したから。

 あなたが日岡さんの言葉を守って、自由に生きてくれたからこそ、今の私たちがある。叶が生まれてきてくれている。

 ……それって、すごく嬉しいじゃない」


 僕に言葉はなかった。

 言葉として出てくるべきものは、全て涙に変わって、不細工に歪んだ顔を伝って流れ落ちていったから。



 日岡さんは、あれから十数年が経った今でも、死んでなどいなかった。

 膵臓を受け継いだ藤野さんは、なんと立派な女優になった。21歳で朝ドラの主役に抜擢されたあとも、幅広い役柄を演じ、バラエティにも出演して、その元気を世界に振りまいている。

 そして、日岡さんが僕に託してくれたものは、いま。



「ママ、お風呂湧いたよー」

「えっ! 叶!?」

「し、CD聴いてたんじゃないのか!?」

「なんで2人とも泣いてるのー!?」

「ちょっと、走っちゃダメだって叶……こらっ! あーもう、タオル全部たたみ直しじゃないの!」


 日岡さんの想いは、巡り巡って、僕たち家族を結びつけてくれている。


「あーあ、せっかく畳んだのにぐちゃぐちゃ」

「パパとママの顔の方がぐちゃぐちゃだよ」

「叶!」

「あははは」



 日岡さん。

 君の命日に生まれた叶のことを、君の生まれ変わりだなんて思っていた時期もあったけれど、どうやら違うみたいだね。

 ご覧の通り、叶は、君に似ても似つかない高度なジョークセンスを持ってるみたいだから。


 今度、家族みんなで君の墓参りに行くよ。

 だから、そのときは……。

 「来てくれてありがとう、叶ちゃん」と言って、出迎えてくれないかな。


 それとも、もうどこかの誰かとして生まれ変わって、お墓にはいないのかな。僕にとってはそれが一番嬉しいんだけどね。


 もし、そうなら……よい人生を。

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