青葉の風吹く頃には

久保田弥代

青葉の風吹く頃には

 坂道。地肌き出しの山道を、私は歩いて登っていく。沈み始めた初夏の太陽は、山の向こう側。こずえふたをされたこの道は、ひんやりとかげっていた。

 思った以上にしんどくてうつむいていたけれど、ついに感じた光の気配に顔を上げる。風の匂いに潮が混じる。木々が途切れ坂が開け、茜色の光が広がった。

 うわぁ、と思わず声が出た。

 強く吹いた風が、火照った肌を冷やす。汗を吸ったセミロングが重くなびく。

 ちょっとした広場の向こうで、世界がきらめいていた。

 落ちゆく夕日が、空を赤く、海を光そのものに輝かせていた。夕暮れは、こんなにも焼けるものなんだ。視線を落とせば、足下の山裾から始まった町が、密度を高めながら海岸へと続く。まるで打ち寄せる波みたいに。

 緑の匂い、磯の香り。風の涼気。生き物たちが時折たてる音や、途切れない遠い波。

 東京から出ず大学生になってしまった私には、山も海も、刺激であふれている。

 観光客向けではない、頼りない柵があるだけの広場。でもこの町で一番、風景を楽しめる場所だと教えてもらった。本来は、山で働く人たちが休憩所にしている場所だとか。

 あの人は、こうも言っていた。

『そこで景色を眺めていると、時間が止まって欲しいと感じるんですよ』

 時間を止めたい――それこそ、私が風景を写真に収める動機だ。

 サマーカーディガンを脱ぎ、バッグからミラーレスの一眼カメラを取り出す。私も今、この美しい時を止めたい。

 この旅はうまくいく。そう予感させてくれる風景だった。

 カメラが汚れないよう、顔の汗を拭き取ってから、外付けファインダーを覗く。空を広く入れる構図に構えて、露出は少しマイナス補正。空の色は、明るさを抑える方が私好みの深い色になる。

 何回も、何十回もシャッターを切っていく。求める光と色が映える構図を探して身体ごとカメラを動かし、私は夢中で撮り続けた。

 いつしか空は不穏な赤銅しゃくどう色に移り変わり、町の景色に、街灯の光が加わっていた。

 いけない。少し撮って引き返すつもりだったのに……あ、でもこの雰囲気もいいな。もう少しだけ撮ろう……

 一歩下がって深呼吸。そこで私は、ようやく、広場に他の人が来ていたことに気付いた。驚いて声を上げ、手の中のカメラを小さくお手玉してしまう。

「あ、ごめんなさい」その人は言った。「驚かせてしまって……葛原くずはらです、今朝の」

 ツナギ姿の男性は、私にこの場所を教えてくれた葛原さんだった。海と山に挟まれたこの町で、数年前から林業に従事していると聞いた。それまでは東京で大学生だったとも。

 今朝、宿で出会ったばかりの人。

「あの、その、いえ」

 心臓が飛び跳ねて、うまいこと言葉が出てこない。まさか今ここで、また会えるとは思っていなかったから、心の準備が出来ておらず、なおさら。

「すみません、こちらこそ、いついらしたのか気付いてなくって……」

 おろおろとタオルで汗を拭いたり、手で髪の毛を撫でつけたり。

「いやいいんです。僕もこの時間の景色が好きですから、気に入ってくれたのかなと思って嬉しかったですよ」

 はい、好きになりました、おんなじですね――って言ってみたい。でも言えない。鼓動が、邪魔で。

 葛原さんの物腰は柔らかく、眼鏡をかけた風情は理知的で、私の中では、林業という仕事のイメージと結びつかなかった。

「民宿にまきを届けに行ったら、女将さんから、相馬そうまさんを迎えに行ってと頼まれまして」

「それで来てくださったんですか」

 しかも優しい。動悸のせいで、あとは御礼を口にするのが精一杯。

「それにしても」と葛原さん。「写真を撮るって、けっこう大変ですね。あんなに動き回ったり、背伸びしたりしゃがんだり捻ったりして……」

 いやああ色々見られてたあああ。もう涼しくなっているのに顔が火照る。

「あ、あのですね、写真は『あと一歩の踏み込み』が大事って、サークルの先輩に教わって、それで身体ごと構図を探すようになって、ですね」

 その動きがぴょこぴょこおかしいって、サークル内のあだ名が“ぴょこたん”になってることは、絶対口にしない。

「サークルですか、仲間がいると楽しそうだ。僕は一人でやってるからうらやましい」

「えっ、葛原さんも、そのぅ……写真を?」

 だとしたら嬉しい。

「僕は、恥ずかしながら……下手の横好きで、俳句をやってまして……一人でひねくり回すだけですけど」

「素敵じゃないですか!」

 驚き混じりで、少し大きな声を出してしまった。はしたなくならないよう、次はトーンを抑えめにする。

「そっかー、だから朝のお話の時も、言葉が綺麗だったんですね」

 文化系の趣味が共通していることが、嬉しかった。葛原さんは首の後ろに手を回し、「いやそんな」と照れた。

「えっと、実は俳句の世界では、写真は俳句にとても近い文化だって言われてるんです」

「へえ、……どうしてなんでしょう」

「俳句は、詠み手の心情は入れず、見えるものを言葉に写し取ることが基本なんです」

「あ」ピンと来た。「風景を切り取って、残すってことですか」

 だとしたら、まさしく写真だ。

 葛原さんが嬉しそうな笑みを浮かべる。釣られて私まで笑ってしまう。気持ちが、ふわっと膨らんだ気がした。

「写真と俳句、どちらも、一瞬の風景を残すもの……ですよね。今朝、撮影旅行だと聞いた時、もしかしたら僕が好きな風景を、相馬さんも気に入るんじゃないかと、ここをお勧めしたんですよ」

 じゃあ、葛原さんもここからの景色で、俳句を作ったかもしれない。どんなことを感じたろう。私と同じだったり、するのだろうか。

「葛原さんは、どんな俳句を作ってらっしゃるんですか?」

「いや! それは、その。無理です」

「えーっ、まだなんにも言ってませんよう」

「本当に、一人でやってるだけなんで……他人に見せられるようなものじゃ……」

「それじゃ、私の写真も見せますから、交換ってことでどうですか」

「あ、そろそろ帰らないと。だいぶ暗くなってきたから、足下も危ないし」

 見てみたかったな、葛原さんの作品。

 少し離れた林道りんどうから、葛原さんの軽トラックで送ってもらった。山道の反対側に林道があったなんて聞いてないよ。でも勾配がゆるい代わりにつづら折りで距離があるから、歩くのは余計しんどかったろう。

 葛原さんを見送った後、どこかうわついた気分で二階の客室に戻ると、置き去りだったスマートフォンがLEDを光らせていた。撮影を邪魔されるのが嫌で置いていったのは、正解だったようだ。

 待機画面に、『義之よしゆき』からの、『既読もつかねーってどういうこと?』と不機嫌そうなメッセージ通知。三件の着信も彼からだ。

 溜息をつき、しばし考え込む。

 電話をサイレントにして、旅行鞄に放り込んだ。

 一人きりの撮影旅行だと何度も伝えた。彼だって同じ撮影サークルだ。写真は自分の世界に没入するものだって、分かってるはずじゃないか。彼は人物、私は風景、被写体は違えど、営みは同じはずなのに。

 私たちがうまくいっていたのは、初めの二、三カ月くらいだった。

 今となっては、“恋人”という言葉がひどく遠い。

 同じものを見ている――と思った。分かち合っていると信じていた。それは私の思い込みだったみたいだ。

 動きもしない風景を撮ってたって、腕は上がらないし、何より面白くない。

 そんな風に言われるなんて。

 違うよ義之。

 景色は生きてるよ。時間は止まらないんだ。風景だって止まらず動き続けるの。

 私は、それを止めたい。一枚の写真に、美しい一瞬を切り取って、大事にしたい。写真は、私の宝箱なんだ。

 それが私の写真なの。

 だから、私に蓋をしないで。

 私を、あなたが、決めないで。

 そう、言ってきたつもりだったんだけどな。

 この撮影旅行に出た理由を、否が応にも思い出させられてしまう。

 私は時間が欲しかった。誰にも邪魔をされず、自分の写真に没頭できる時間。

 今までと、これからを、考える時間が。

「この旅は、うまくいく……と、思ったんだけどな」

 葛原さんのことを思い出してしまっていた。

 私と同じ、一瞬を切り取ろうとしている人。

 ――それがどんな風景なのか、見てみたかったな。

 汗の上に涙を塗り重ねそうだったので、それ以上、考えることはやめた。

 名物だという薪で炊いたお風呂、地元食材盛りだくさんの夕食。私の一日が徐々に閉じてゆく。女将さんは、葛原さんに特定の恋人ナシという余計な話題を持ち出してきた。




 ――日を重ね、夏はさかんになっていく。木漏れ日が私をまだらにいろどる。たまに木陰に身を寄せて、薄闇に休みつつ、私は山道を登っていく。

 昨日は海の方をまわって、小さな港を中心に撮影した。明日はもう、次の宿泊地へ移動だ。

 あの風景をもう一度、今度は明るい中で見てみたくて、私はまた広場を目指している。

 一昨日より風が強く、葉擦はずれの音が大きい。

 風があると木や葉が大きく動き、写真は撮りづらいのだが、気温からすれば、これは癒やしの涼風すずかぜだ。

 山道では、梢が頭上を蓋してくれるおかげで、直射日光は避けられている。広場に出たら、解放感が得られる代わりに、容赦なく暑くなるだろう。すぐに蓋の下に戻りたくなるかもしれない。

 ゆるやかな梢なら、私だって拒絶はしない。むしろ守られる安心感すらある。けれど、もっと密で、もっと束縛する、ヒイラギのように刺々しい蓋だったら――逃げるしかない。

 光の気配が強まってくる。

 ひらけた時の解放感と、襲い来る暑さ、最初に感じるのはどっちだろう。

 視界が開け――私の動きが止まった。

 広場の柵に腰掛けるようにして、ツナギ姿の男性がいた。一昨日、私が撮影した辺りだ。

 葛原さんだった。

 手帳らしきものにじっと目を落としている。考え込んでいた葛原さんは、ペンをさっと動かして、溜息をつくように微笑んだ。

 思い切って私は、広場に飛び込んだ。

 顔を上げた葛原さんが、「えっ」と声を上げ、手帳を閉じた。私は早足に近付いていく。向き合うと、柵に腰を下ろした葛原さんと、私の目線が、だいたい同じ高さだった。

「こんにちは葛原さん。今日は私の方が驚かせちゃいましたね」

「いや驚きましたよ……まさか、もう一度会えるなんて。今日も撮影だったんですか?」

「はい、昼の光で撮りたくて……葛原さんはお仕事ですか?」

「ええ、今は休憩で」

 そう言いながら、葛原さんはバツが悪そうに手帳をしまおうとする。それに追いすがって、並んで腰を下ろしながら私は言う。

「その手帳、もしかして俳句ですか? すごく楽しそうでしたよ」

「え、見られてましたか。うわー、恥ずかしいな」

「シャッターチャンスをものにした時のカメラマンみたいな表情でした」

 私も、楽しくなってきていた。きっと葛原さんも、あの笑顔になった時、宝物を見つけたんじゃないか。

「私、見たいなー。葛原さんの俳句……」

 本当に見てみたい。葛原さんが、風景を、世界を、どんな風に切り取るのかを、知りたかった。

「いや、うーん、そんな」とまごまごする様子は年上に見えなくて、なんだか可愛らしい。

「風が……気持ちよかったんですよ」

「今日は風が強いみたいですね」

「斜面を見下ろした時、風がひときわ強く吹き上がってきて。月並みだけど、風って自由な感じがしていいですよね」

 ついに葛原さんは手帳を取り出し、あるページを開いて見せてくれた。書き損じが並ぶ中、四角く囲った句がひとつ。


 青葉風あおばかぜ 山飛び越えて天の先


 文字から風が吹いた――気がした。

「風が、そのまま天へ昇っていく気がして。初め『天の果て』って書いたけど、果てがあると、蓋されてるみたいで嫌だなと思って……風はもっと自由でいて欲しいから、それで考えて考えて、『先』にしたんですよ。その時『やった』って手応えが……あっ! ごめんなさい、普段、こんなこと話す相手がいないから調子に乗っちゃっ……え、相馬さん、どうしました?」

 ずるいや、こんなの。

 風だなんて。

 目に見えないものを、切り取ってしまえるなんて。

 風は自由でいて欲しいだなんて。

 ずるいじゃないか。

青葉あおば――って」

 涙をこらえ、必死に、言葉を紡ぐ。

「あ、青葉風。これは夏の季語で、風に鮮やかな緑の香りが乗っているような、そんな意味なんだけど……えと、あの、相馬さん、ほんと、大丈夫かな?」

「私、……青葉なんです」

「え?」

「私の名前……相馬、青葉って、いうんです」

 ――ごめん、義之。

 もう、私は終わってた。一昨日の夜、何も連絡を返さなかった時には、もう私は終わってたよ。

 もう蓋をされていたくない。

 私は、私のままでいたいの。

 戻ったら、お別れを言うよ。ごめんね。

 青葉風。

 私は自由になるよ。

「見えない風って」もう一度、声を振り絞る。「写真に撮れるでしょうか」

 カメラを使うわけでもない葛原さんに訊いた。無理なことは分かっていても、訊かずにいられなかった。

「僕に写真のことは、分からないけど」

 葛原さんは言葉を区切ると、しっかり芯の通った声で続けた。

「撮る、と思い続ければ、いつかは」

 そうだ、撮ろう。

 今は無理でも、青葉の香る自由な風を、いつかは。




 東京へ戻った私は、ひとつの悶着もんちゃく代償だいしょうとして、頭上の蓋を取り払った。サークルには顔を出しづらくなったけれど、それでも良かった。疲労したが、解放感もあった。

 当面、写真を撮る気力も湧きそうにないけれど、カメラを持ち歩くことはやめていない。

 夏の終わりの昼下がり。

 私は大学近くの大きな公園へりょうを求めた。ここは近くにオフィス街もあるため、学生から近隣住民、ビジネスマンまで、多種多様な人が憩いの場にしている。静かでありつつも、人が多くて賑やかさを感じる不思議な場所だ。

 木陰を抜けて広場に出た時、強まる光に思わず手をかざし、天を見た。

 視界の端で何かが動いた。

 陽光を受けてプリズムのようにきらめくそれは、大きなシャボン玉だった。

 誰かが公園のどこかで、遊んでいるのだろう。それが壊れて消えた時、私は、あっと小さく声を上げていた。他に飛んでいないか探しながら、大急ぎでバッグからカメラを取り出す。撮る。撮りたい。久しぶりに感じる欲求、衝動。

 運良く、もう一つシャボン玉が。青い空で、見えない風に揺られながら。

 私はそれを撮った。

 青葉の風を受けて飛ぶ、虹色の玉を。

 シャボン玉が弾けた空を見上げながら、私はあの山の広場を思い出していた。同じ空だけど、少し違う色味。あの町の空は、もう少しだけ深かったように思う。

 葛原さん。

 あなただったら、今の光景を切り取って残したいと、思ってくれるでしょうか?

 鼓動が少し速くなった。

 私はきっと、またあの町へ行く。

 あの人に会って話がしたい。切り取った一瞬のこと。今まで出会った宝物のこと。私の写真は、風を撮れているでしょうか? あなたはどんな風景が好きですか? あなたなら、シャボン玉をどんな俳句に詠みますか?

 私も、あの人と同じ一瞬を切り取ってみたい。

 そう思った時、風に乗ったシャボン玉が、私に言葉を運んできた。


 青葉風 虹をまるめて飛ばそうか


 ああ、私はきっと、今――微笑んでいる。





  ―了―


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