車の下のチチ(2975文字:現代ドラマ)

 一之助いちのすけはこの春、小学五年生になってからというもの、毎日が楽しくて仕方がなかった。


 まず、新しく開設された図書クラブに入ると、図書室が活動の場だったので、好きな本が読めて好きな絵が描けた。

 第二に、睦実むつみちゃんと隣の席になった事だ。睦実ちゃんは小学3年生の頃から同じクラスで、一之助は、睦実ちゃんを見ると鼻の奥と胸の奥の辺りがシュワシュワして、なんともいえない幸せな気持ちになるのだ。

 そして、一番楽しく感じるのは、下校の時間だった。

 一之助は授業が終わると、すぐに友達に別れの挨拶を済ませ、ランドセルをガタガタと背中で鳴らしながら学校を飛び出す。

 学校と家の間にある空き地に、使われていない古いトラックがあって、下校の時間に一之助が空き地の前を通ると、ニーニーという声が聞こえる。そしてちょっとそのトラックの下を覗くと、タイヤの影に隠れるようにたくさんの猫がいるのだ。

 かわいいなあ。さわりたいなあ。

 一之助はいつもそう思うのだけれど、近づくと猫はすぐに逃げてしまう。だから一之助はさわりたいのを我慢して、猫が逃げない距離からそっと眺める。

 一之助はその時間がとても楽しくて嬉しかった。


 ある時、いつものように授業が終わるとすぐ、一之助は学校を飛び出した。今日こそは少しでいいから触りたいなあ、猫さん、逃げないでくれないかなあ、と期待に胸を膨らませながら空き地の前へとやってきた。

 ニーニーという声がする。どうやら今日も猫さんは元気なようだ。今日の一之助には秘策があった。給食の残りのパンを紙に包んでランドセルの中に詰めてきていたのだ。

 一之助はパンを取り出しながら、そおっと、そおっと、トラックに近づいて、ゆっくり下を覗いた。


 そこには男の人がいた。

 そしてよく見ると、その男の人は一之助の父親だった。


 一之助はしゃがんで膝を付き、両手でパンを食べやすいサイズにむしり、頭が地面に付くか付かないか、といった姿勢のまま固まってしまった。

 父親も、匍匐前進の体勢で、両手(その手には魚肉ソーセージが握られていた)を猫へと伸ばしたまま、一之助を見て固まっていた。

 猫たちは、魚肉ソーセージとパンの欠片を口にくわえると、ニーニーと元気よく、どこかへ行ってしまった。




 一之助の父は、一之助が小学校に入学したと同時に、家を飛び出していなくなってしまっていた。蒸発と言うらしい。その頃、夜中に隠れながら居間を覗くと、お母さんがシクシクと泣いていたのを一之助はよく覚えている。

 親戚のおじさんやおばさんは、眉を寄せたすごい形相で怒っていたり、まるで灰色の雲を吐き出すように、ため息をついていたり、色んな顔をして一之助の頭を撫でてくれた。

 一之助には難しい事はよく分からなかったけれど、お父さんが悪いことをしたのかな、という事は子供なりにボンヤリと考えていた。

 それから今日に至るまで、一之助の母は少しだけ親戚の力を借りながらも、一人で一之助を育てた。まだ小さい一之助を置いて家を離れる訳にはいかなかったので、夜遅くまで内職をした。貧窮したが、しかし一之助の前では、母は努めて笑顔でいるようにしていた。一之助は、徐々に体の線が細くなっている母を心配もしたし、少々夕御飯のおかずの少なさに不満を覚えたけれど、いつも笑っている母が大好きで、一之助もよく笑った。勉強を頑張って、大きくなったらお母さんを助けようと心に決めていた。

 父の事は一之助にはよく分からなかった。家にいた時は一緒に遊んでくれたし大好きだったけれど、いなくなってからは、母が泣いていたり、親戚のおじ、おばが悪口を言っていたりしたので、心に、粘ついた何かが貼り付いて取れないような、そんな気持ちになっていた。しかしそれでも、やはりどうしても、一之助は、父の事を嫌いになる事はできなかった。


 そんな父が、目の前に突然現れた。トラックの下に。猫と一緒に。

 一之助は、こんな時何を言えばいいのだろうか、と一瞬考えたが、取り敢えず大声で、

「おかえり!」

 と言った。間違ってはいないと思う。

 父は少しあっけにとられた後、少し恥ずかしそうにしながら、

「ただいま」

 と返した。




 もし、猫さんを触ることができたら、今度はお家に連れて帰りたいなあ、と一之助は密かに思っていたのだけれど、連れて帰ったのは父だった。固く父の手を握りしめながら帰った。

 父は少し困った顔をしながらも、大人しく一之助の手に引っ張られていた。

「お母さん! トラックの下でお父さん拾った!」

 一之助はただいまの挨拶も忘れて叫んだ。

 母は居間から玄関に顔を覗かせると、口をポカリと開けて、その姿勢で固った。どうやら一之助の家族は想定外の出来事が起こった時、一時的に体の動きを止めるらしい。他の家もそうなのかな、と一之助が考えを巡らせていると、動き出した母が、今度は涙をポロポロと流した。


 母に部屋に戻っていろと言われて、一之助は大人しく言うことを聞いた。父を連れて帰ったのは間違いだったのだろうか。そんな不安が押し寄せてくる。

 母と父は長い間、とても長い間、話をしていた。一之助の不安は増すばかりだったけれど、夕御飯の時間になって居間に行った時、二人が少し笑みを浮かべながら喋っていたので、すこし、安心した。




 その後、父と母は親戚のおじ、おばの家を一軒一軒廻って、謝ったり怒られたり呆れられたりしたそうだ。会社をクビになった、自分が情けなくなった、家族にどんな顔をすればいいかわからなかった、みたいな事を父は長々と説明してくれたけれど、一之助にはよくわからなかった。しかし、会社をクビになったら家に帰れなくなるというのは大事そうなので覚えておこう、と思った。顔をしわくちゃにしながら話す父を、母は笑ってペシペシと叩いていた。お母さんはやっぱり強くてかっこいいなあ、と一之助は改めて母の事が好きになり、そんな二人を見ていると、胸の中がシュワシュワッとなって、睦実ちゃんと目が合った時のような、幸せな気持ちになった。


 父は前に家にいた時よりも一生懸命働くようになった。夕方から朝までの時間、仕事で出かけている。相変わらず母は夜遅くまで内職をしていて、夕御飯を母と二人で食べるのは変わらなかったが、おかずはちょっぴり増えた。


 一之助は毎日がさらに楽しくなった。

 図書クラブの時間には自分で漫画を描き始めた。猫を守りながら敵と戦うトウチャン仮面がピンチになった時、颯爽とカアチャン仮面が現れてソレを助ける、というヒーロー漫画だ。

 休み時間にもその続きを書いていたら、隣の睦実ちゃんに見られてしまって、けれど、睦実ちゃんはそれを見て面白いね、と褒めてくれた。シュワシュワが吹き出しそうになった。

 授業が終わると、友達と睦実ちゃんに別れの挨拶を済ませて、学校を飛び出す。空き地の前を通りすぎて、まっすぐに自分の家へ。そして、夜仕事に向かう前の父と一緒に空き地に向かう。一緒にトラックの下の猫を見るのだ。

 一之助は、自分が猫を見ると楽しくて嬉しくなるのは、もしや、父のせいではないかと思った。なぜならあの時、父がトラックの下にいたのは僕と同じ理由だったからだ。遺伝だな、と父が納得していたので、今では確信している。


 母が猫アレルギーだったので、猫を家に連れて帰るのは諦めた。しかしもう大丈夫だ。

 一之助の家には父と母がいるので、もう寂しくなかったから。

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