鮭茶漬け(2955文字:現代ホラー)

 沈みかけの太陽。カラスの鳴き声――。

 赤く染まる街に一瞥をくれながら、アキオは錆びた鉄の門扉をキイと閉めた。

 シッカリと錠を掛けると、持っていたスコップを塀に立てかけて、酷く汚れてしまった作業服をぎくしゃくと脱ぎながら玄関の扉を開いた。

「おかえり。ウゲエ……」

 妻のミカが奥からパタパタと駆けてきて出迎えてくれたが、目の前に立つと、アキオの様子を見て顔を顰めた。

「もうダメだねえ。その服。新しいの用意しなきゃ……」

 そう言うなり、指の先でつまむようにしてアキオから作業服を受け取ると、まるでクレーンゲームのように腕を持ち上げ、どこにも接触しないように、慎重に台所へと足を向けた。きっとそのままゴミ箱に捨てるつもりなのだろう。

 ミカがゆっくりとアキオに背を向けながら、食事をどうするか尋ねてきた。

 アキオはササッと食べられるもので良いと答えながら、タオルで顔や体を念入りに拭った。帰る前に一度汚れを落としたにも関わらずタオルは二度と使いたくなくなる程に色を変えている。

 ケッと悪態をつきたくなるくらい身体中がベタベタとして、その不愉快な感触に顔が強張る。

 しかし、「あいよー!」と威勢よく答えた妻がロボットのように腕を持ち上げて、とろくさく動いているのを見て、なんだかそのチグハグさが可笑しくて、ストンと頬が緩んだ。


 緊張から開放されたからか、先程まで酷使していた腕や足がギシギシと引きつって重たい。ぎこちなく体をゆっくりと動かして、ミカの後を追うようにリビングへと向かった。なんだ、俺もロボットみたいじゃないか……。アキオは苦笑いを浮かべた。

 短い廊下を進み、突き当りのリビングへと辿り着くと、まるでひと旅終えて人心地ついたかのように大きく息を吐いた。

 部屋の入口、左脇に据えられた木製の棚の上には何枚か写真が飾ってあり、笑顔でアキオを出迎えていた。

 十畳程のスペースの真ん中に膝丈のガラステーブルがあって、それを灰色のソファが取り囲んでいる。右に眼を向けると、リビングとひと繋がりになったオープンキッチンでミカが忙しなくキッチン棚を開けたり閉めたりしていた。「あれえ」とか「無いなあ」と言った声が聞こえる。何かを探しているらしい。


 アキオはズボンのベルトを緩めてからソファの一つにドサリと体を沈ませた。窓際に大きな薄型テレビがあるが電源は付いていない。ミカが出す生活音、それだけがリビングに響いていた。

 眠たい訳ではなかったが自然と瞼が落ちてくる。

 まるで日常が戻ってきたような――。そんな錯覚を覚え、その感覚に身を任せるようにして過去の思い出を次々と瞼の裏に浮かべた。

 アキオはふと、自分の顔に笑みが溢れてしまっている事に気付いた。


 その時、リビングの南側にある、小さな庭につながる扉の向こうから何かの割れる音がした。

 ほんの些細な、カシャンと薄いガラスの割れる音。ビクリと体が震え、慌てて身を起こす。キッチンを見れば、動きを止めて怯えた表情をしているミカと目が合った。

「大丈夫。大丈夫だから」

 ミカを安心させるように、自分に言い聞かせるように、アキオは囁いた。

 しばらくジッと体の動きを止めて外の様子に聞き耳を立ててみたが、それ以降、外から物音は聞こえなかった。


 アキオがフウと息を吐いてからまたソファに体を沈ませると、ミカも動きを再開させた。コンロのスイッチがカチリと鳴る。

「ねえ、それで……。昼間、なにか見つけた?」

 気を取り直して、といった調子で、ミカが首を伸ばして頭の上にあるキッチン棚の中を覗き込みながら、アキオの仕事の進捗を尋ねてきた。

「いや、さっぱりだ。この辺じゃもう見つからないのかもしれない」

「そう。それじゃまた移動ね。この家、気に入っていたんだけどなあ」

「ああ。俺も気に入っていたけど仕方ない」

 アキオはそう言って名残惜しむようにリビング全体を見渡した。

 棚や小物、壁に掛けられた絵画、その一つ一つが趣味の良いデザインをしている。この家に忍び込んだのは偶然だったが、ミカもアキオもだったと思っている。

 食料はかなり貯め込んであったし、背よりも少し高いくらいの塀で囲まれている為、家の中で動いていても外からは気づかれにくい。それに自家発電設備まで取り付けられていて、無駄遣いしなければそれなりに文明の利器を使う事だってできた。

 姿の見えない住人はもう二度とこの場所に戻ってこない事は分かっていた。ミカとアキオは喜々としてここを一時の住処として利用する事にした。

 他人の家ではあったが、二週間も経つ頃にはまるで我が家であるかのように、家の匂いや触れた感覚にしっくりと馴染んでいた。


 なにか使える物は一処にまとめて、すぐ持ち出せるようにしよう。そう考え、部屋中のあれこれに目を配っていると、ミカが食事の乗った盆をそっとガラステーブルの上に置いた。白米の上にお茶漬けの素をふりかけてお湯を掛けただけの簡単なものだったが、疲れた体にはそれが今一番求めている最上の食事であるかのように思えた。

「ありがとう」

「キッチン棚の奥にね、一袋だけ落ちていたの。鮭味はそれで最後」

「そうか」

 特にこれといって、お茶漬けに好きも嫌いも持ち込んだ事などなかったが、最後と言われればそれなりに、淡い緑の汁に浮かぶピンクの欠片が名残惜しく思えた。

 水や米、缶詰の食品といったものは優先的に探し求め、蓄えてある。しかしお茶漬けの素は、ハナから探す候補にすら入っていなかった。今あるのは、前の住人が買い揃えていたからだ。それももう、無くなってしまった。

 アキオは箸でピンクの欠片だけを一つつまみ上げると、別れを告げるようにそっと目を向けてから、それを口に放り込んだ。鮭と言われれば鮭だし、違う魚だと言われればそんな気もしてくる。しょっぱさとホロホロとした食感が口内に広がった。

「ねえ」

 ミカが顔の見える位置に座ってテーブルに肩肘をつけながらぼんやりと尋ねてきた。

「今度行く所には、人、いるかなあ?」

「そりゃ、いるだろ……。どれだけ処理しても減った気がしない。むしろ多くなってるな。今日だってウヨウヨと歩いていたんだ。服がダメになるくらい潰してはきたけど」

「アレの事じゃないわよ。アレはもう、人じゃないんだから……。生き残ってる人の事」

 アキオはそう言われ、「ああ……」と返答に窮した。

 生き残りがいるかどうか分からなかったし、アレをいまだに人と認識している自分にハッと気付き、そしてその認識をミカに知られた事にいたたまれなくなったからだ。

 ――お前は、アレを人と認識した上で、毎日頭を潰しているのか。

 誰かの責める声が聞こえた気がした。


「生き残ってるさ……。必ず」

 無理矢理絞り出すように、アキオはそう口にした。

「……そうね。私たちが生きているんだもの。意外とたくさん、いるかもね」

 ミカはアキオの表情を見て取ったのか、気分を変えるように、急に明るい調子でそう答えた。顔には笑みまで浮かべている。

 その笑顔を見て、アキオもフッと表情を和らげた。


 まるでドロドロと沼に沈もうとしている体をなんとか引っ張り上げようとするように、まるで崩れそうな積み木を必死で支えて形を保つかのように。二人でいられる幸せに寄りすがる。


 アキオは湯気のたつ鮭茶漬けを口に流し込み、慈しむようにゆっくりと咀嚼した。

 

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