生意気な猫(4247文字:現代ドラマ)

 我が家の猫を紹介する。

 我が家にやって来た時、彼は饅頭や餅、ビーズクッション、ゴムボールといった柔らかくて丸い物で形容されるにふさわしい肥満体型をしていたのだけれど、家に来てからは適当な食事制限にも関わらずスッキリとした標準体型と成り果せた。しかし過去の失態は、なかなか消し去る事など出来ようはずもなく、腰回り、後ろ足の付け根辺りの皮がボッテリとたるんで、纏わりついていて、歩いている時は暖簾みたく体のしたにぶら下がっているし、座ってる時は狸のふぐりみたく足の間に広げていた。身体を広げて寝ている時などはムササビが飛んでいる有り様に見えた。邪魔にならないものなのかと時折グニグニと揉んだり伸ばしたりしてみるのだけれど勝手に触るなと言わんばかりに引っ掻いてきてその後愛おしそうにジャリジャリとその部分を舐めている。

 黒が多い藤猫で眉間の辺りに短い縦縞が規則正しく並んでいる。西洋兜の目元を覆う、シャコシャコと上げたり下げたりできるアレの名前を知らないのだけれど、ソレに似ているといったら分かってもらえるだろうか。コレがあるからか分からないけれど凛々しい顔に見える。しかし黄色の目はクリンと丸みがあって子供っぽさを残している。すでに年齢は結構なものだけれど、どこか子供じみて見えるのはきっとこの目のせいだろう。ふいに顔を見やると「え?」という感じでこっちに顔を向ける。その時の顔が少しひょうきんに感じるのもきっとこの目のせいだろう。

 鼻息は常にうるさい。フー、フーという音の中にたまにプーが混じる事があって、おや鼻づまり?風邪かな?とか考える。しかし彼にとってそれは普通の事のようだ。長年一緒にいて元気にしているのだからそういう事なのだろう。今日も元気にフーフープーとしている。眠る時などは布団の中にある私の股の間によく来るけれどそこまでの移動ルートが私の顔の上から始まり腹の上を通っての到着なので、私は眠りに落ちた頃に「フー…フー…」という音と共に顔をよぎり胸をまさぐられ股間を押され股を広げられる、というスリリングな展開を毎日のように味わっている。

 左の上の犬歯が妙に発達していて口を閉じていてもチョコリと出ている。右の上の犬歯は無い。いつのまにか折ってしまったのだ。その発達した左犬歯のすぐ上の、人間でいうところの唇にあたる皮を、歯に引っ掛けてニヒルな笑いを演出するのが彼の癖だ。私にちょっかいを出してくる時などは大抵この口になってニヤリとしている。股を広げてお尻周りを毛づくろいした後にも、こちらをみてこの口でニヤリとしている。どうにも要領を得ないのが猫の特徴だとは分かっているけれどそれにしたって不可解で不愉快だ。

 いつも私の布団マットで爪をバリバリと、やる。爪を研ぐ板を置いているにも関わらずだ。バリバリをしようとしたらすかさず爪研ぎの前に持っていく、という作業を根気よく続けていたらやっとその板で爪を研いでくれた。そしてその足で私の所に来て布団マットでバリバリした。

 爪切りは極端に嫌がる。私も失敗が怖いので極力やりたくはなかったのだけれど、さすがに私の手の甲や手首や時に顔までもが歴戦の勇士の如き幾筋もの傷を作った時は我慢が出来なくなった。起きてる時は必ず逃げられるので寝た時が好機と、ソロリと近づいて一つをパチン。……グサリ。手を抑えても彼には発達した左犬歯があるのだ。

 我が家の猫はナーオン、と鳴く。音の響きが日本語というよりは英語に近く、中国語というよりはイタリア語に近い。けれどイタリア語かと言われれば日本語かなあと思うこともある。猫は生涯で一度だけ人間の言葉を喋るのだと、どこかの誰かが言った。私はそれを密かに楽しみにしている。けれどもし喋った言葉が「ザギンデシースー、ギロッポン、ナーオンダイテ、モウケツカッチン」とかだったら、私は彼を許せるだろうか。

 はしゃぎ時(我が家では猫が走り回っている時をはしゃぎ時と言う)はよく噛む。頭を撫でても前足で引きつけて噛む。横を通り過ぎる時に踵を噛む。腹に頭をグリグリとなすりつけると顔を引っ掻いてから手を噛む。布団の隙間から指をチロチロと振ってみせると飛び込み、噛む。背中を撫でてもすかさず寝転がって噛む。寝転んだ彼は前足で「かかってこいよ、オラー」と挑発しながら、どの角度から伸ばされた手でも、必ず噛む。私はその姿に、一九七六年六月二六日のモハメド・アリ戦で見せた、猪木の姿を幻視する。

 猫は高い所から落ちても身軽に着地するという情報が、嘘か本当かわからない。そもそも我が家の猫はジャンプ力がなくて高い所に登れない。一度、抱き上げた私の腕の中から飛び降りたかと思ったら地面に頭をぶつけながらそのまま前転した。手をついて転がるあの前転だ。これを身軽に着地というのだろうか。猫なら側方伸身宙返り一回ひねり、とかそういう事ではないのだろうか。それにその「身軽に着地」をした時の彼の表情もひどかった。明らかに動揺していた。そこでこそ、ニヒルにニヤリではないのだろうか。

 夏の地獄と言えば、もちろんノミ地獄だ。一度発生するともう手がつけられない。完全準備をして迎え撃たなければいけない。もう、真夏に手袋、靴下、長袖の冬ごもりスタイルはしたくない。ノミの痒さで睡眠を妨げられるのはもういやだ。そんな決意を持って、私は夏の彼に挑んで行く。彼を待ち受ける未来は「風呂地獄」だ。


 我が家の猫は、尿路結石という病を患っている。事は悲痛な叫びで露見したのだ。繰り返される彼の叫びは、私の心を、まるで湖底の死霊が助けを求めて絡みつくように、地獄の魍魎が一本のクモの糸にすがり付くように、ギュウ、ギュウと、締め付けた。トイレからなかなか出てこなくなった。出てきてもすぐトイレに戻った。必死でジャリジャリと股を舐めた。そしてナーオンと鳴いた。

 私は無知だった。私は油断していた。私には慢心があった。私の怠慢だった。

 病院に連れて行き、先生から「ああ、石を作りやすい子なんですねえ」と、まるで騒ぎを起こす幼少の子供を仕方がないなあと眺めている母親のような顔で言った。私の心境は、脳梗塞で倒れた親を運び込んだ病院で、医師と対面し今後の相談をする、のにも似た状態だったのだが、この先生は膝を擦りむいた少年にお薬付けてイタイノイタイノトンデケーと言わんばかりの調子だった。先生に勧められるがまま、彼の食事を変えた。その日から彼と私の食費バランスが、逆転した。

 彼は偏食家で、慣れるまで決まったもの以外はあまり口にしない。そもそも彼の体型が肉饅頭から狸のふぐりに変化したのもこれが原因だったのだけれど、療法食はすんなりと食べだした。どちらかと言えばゴキゲンといってもいい食べっぷりだ。私が幼少期にちょっとした病気で入院した時もこんな感じだった気がする。気を使って両親が何でも好きな物を買ってくれたので、私は病人であるにも関わらず、ゴキゲンだった。私はそう考えると少し癪に触ったので彼が食べている横から手を入れてひとつまみして食ってやった。とてもとても不味かった。


 私は彼の死を恐れている。

 思えば私の原風景にはいつも猫の「死」があった。懐かしい子供の頃の記憶だ。ある時は、土の地面が多い町で大きな手を握りながら母親を見上げる記憶。私たちは買い物帰りで、何かを歌いながら歩いている。道路の真ん中で地面にへばりついている黒いソレを見つける。母親が私の目を遮る。母親は泣いてるような怒っているような、不思議な顔をしている。私は当時ソレが何なのか分からなかったけれど、母親のその不思議な顔が恐ろしくて、泣いた。ある時は、父親が拾ってきた黒い子猫の記憶。ダンボール箱の中に布を敷いて、その真中で苦しみ喘いでいる。毛が斑模様に抜けていて、絶えず小刻みに震えている。私は鼻にツンとしたものを感じながらソレを見ている。子猫は震え続け、震え続け、震え続け、止まった。ある時はいつの間にか私の目の前に現れていた野良猫の記憶。気がつけば我が家のベランダで寝ていた。近づくと媚びるように顔を擦り付けてきて餌を求める。餌を食べ終わると急にそっぽを向き、ベランダで寝ながら外を睥睨している。野良猫は現れた時と同様にいつの間にか消えていた。数日後に、近所の草葉の影で固まっていた野良猫を見つけた時に、猫は死期が近づくとフラリとどこかに行くんだってと、どこかの誰かが教えてくれた。


 私は彼の死を恐れている。

 私の勝手な願いではあるのだけれど、それが叶わないとは知っているのだけれど、私は彼に、私が生きている間ずっと何年も何十年も生き続けて欲しいと願っている。震えないで欲しい。固まらないで欲しい。勝手に消えないで欲しい。

 まだ時折、悲痛な叫びが聞こえる。猫は生涯で一度だけ人間の言葉を喋るのだとどこかの誰かが言った。けれどもし喋った言葉が「イタイヨ」だったら、私は私を許せるだろうか。


 我が家の猫は、私が顔を近づけると欠伸をする。まるで狙っているかのように欠伸をする。私がさて構ってやろうかとウキウキしている時でも、生活の中でイライラが募っている時でも、ボーっと感傷に浸っている時でも、相変わらず彼はとても臭い欠伸をする。眼を半分閉じている彼を見ながらその匂いを嗅ぐと、なんだか一切合切がどうでもよくなって、笑いがこみ上げてくる。


 さてここまで我が家の猫を紹介してきたのだけれど、目標の十枚に届いたのでそろそろ終わりにしたいと思う。私は過去に読書感想文で「鶴の恩返し」の感想を原稿用紙に十枚書け、という難題をクリアした事があったので今回も楽勝だと高を括っていたのだけれど、甘い考えだったと言わざるを得ない。目の前に彼を持ってきて、穴のあく程、いや、もしわたしの目が光っていたなら、そして目の前に虫眼鏡があったなら、その視線でプスプスと煙を出しかねない程ジックリと彼を見たのだけれど、彼はフーフープーとしながら「え?」という表情で私を見続けていて、私は気が抜けて良い描写が思い浮かばなくなった。どこかの有名な作家さんが描写をより深く突き詰めていけば原稿用紙数十枚なんて軽く越えてしまう、みたいな事を言っていた気がするのをふと思い出して書き出してみたものの、ふと読み返してみればこれは描写じゃなくて小ネタ集といった類のものなんじゃないかという結果になってしまった。精進したいと思う。


 結局、私が隣で寝ている彼を見て思うのは、ただ一言。

 生意気な猫。

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