紙背の眼(2863文字:ホラー)

 六百枚に及ぶ長編小説をやっとの事で書き上げて上梓したのが二週間前の事で、私は魂が抜け出てしまったような有り様でここ最近を暮らしていた。

 我が家のポストに差出人の書いていない手紙が届いていた。封を開けてみると小さな文字でびっしりと埋められた便箋が入っていて私はちょっと頬を引き攣らせたが、書き出しを少しばかり読んでみると、それはこれでもかといわんばかりに熱情のこもった私へのファンレターであった。


 ◆


 ○○先生、はじめまして。ワタクシO県にて図書室の司書をやっています▲▲と申す者ですが、先日、先生が出版なされた「炊飯器の恋とイワシの頭」を読ませて頂きまして、ワタクシいてもたってもいられなくなってしまいました。抑えきれない情動に駆られて、突然このような不躾な手紙を差し上げるに至った事をまず謝罪させて下さい。

 ○○先生、貴方の書かれました「炊飯器の恋とイワシの頭」は魂が震える程素晴らしい作品でございました。ワタクシはこれまで生きてきた中でこんなにも感情を揺さぶられた事はただの一度もありませんでした。先生は白い湯気を上げながら日々を泥濘に浸かるように過ごす、炊飯器の淡い恋心をいともたやすく七ページにも及ぶほど丁寧に描写されておりまして、ワタクシ目からピチピチとツクシトビウオが泳ぎ飛び出してきそうな程感動してしまいまして、すっかり先生に敬服いたしました。特に下巻一七六ページにある、ゴミ箱から飛び出して危地に赴こうとするイワシの頭に対し炊飯器が追いすがりながら「しゃもじ……しゃもじ」と連呼する場面では先生の秘めておられる生への執着心といいますか母性への希望といいますものがワタクシの下腹部の奥あたりにある何かに突き刺さりまして、ワタクシお恥ずかしながら広大な海を泳ぐ羽目になってしまいました。

 作品の中で先生は恋敵ともいうべきカーディガンのボタンを、物語の序盤(厳密に言えば上巻六ページの、豪華客船のデッキから飛び出してくるカタクチイワシが突堤にあるビットに頭をぶつけてそれをウミネコが笑って口からオタマジャクシを吐き出す場面)でさりげなく伏線として登場させておりますが、ワタクシそれに気づいた時ハッとしてしまいまして、もしやこれは先生の恋愛体験から来る心情の隠喩なのではないかと思いまして、ワタクシそれに共感できたものですから、もしかしたら先生と私の恋愛観は似ているのかもしれないと少し、大勢の読者に対しての優越感に似た感情を持ってしまいました。さらに上巻二三九ページの、イワシの頭があまり親密でもない東都新聞夕刊社会欄に対し、糸のほつれたタオルケットをさりげなく手渡す場面もワタクシ共感致しまして、ワタクシが想像するには、これは先生の幼少期の体験から来る劣等感が先生も気づかぬ内に筆に乗ってしまった一種のアクシデントに近い心情の吐露なのではないかと、そう愚考しました次第でございます。

 ワタクシ本を読むのは得意でございまして、たくさんの本を読む内に文字ではなく、文字と文字の間や行間といったいわゆる「紙背」を見る事によって作者様の心情を読み取る術を習得しました。ですので私の感じた先生への共感もまた、そういった行間の隙間を見て感じ取った事なのでございます。これにはワタクシ並々ならぬ自信を持っておりまして、例えば上巻三五六ページの東都新聞夕刊社会欄とカーディガンのボタンが掴み合って喧嘩をする場面。カーディガンのボタンが「この売女め! お前のテレビ欄とスポーツ欄を切り取ってそれで紙飛行機を作って空の旅をしてやろうか!」と凄んだ後、「……ボタン風情が粋がっておいでですこと」と東都新聞夕刊社会欄が返すんですが、ワタクシこの「……」の部分に意味があるとはっきりわかるのでございます。この場面はきっと先生の実体験をふんだんに盛り込んでちょっと皮肉を利かせた話しなんだと思うんですがこの「……」から伺えるのは先生の後悔と懺悔の念でございます。わかりますとも。わかりますとも。先生はある女性とのお付き合いの中でこういった喧嘩をされた時ひどい言葉を投げかけてしまい自分で自分を傷つけてしまわれたのでしょう。ワタクシにも似たような経験がございます。僭越ながら申し上げさせてもらえば全く気にする必要のない事です。きっと言われた彼女も既に記憶の彼方へ置き去りにしてしまっている事でしょう。他にも下巻二一二ページ、イワシの頭が炊飯器と初めての遠出で観覧車に乗る場面。イワシの頭が炊飯器の蓋の中へソフトクリームを落として謝る時に先生はそこで一行を空けてセリフ「生臭くても……良いだろ」、そしてまた行間を空けるといった表現をなさいました。ここにワタクシ思春期の甘酸っぱさと大人の妖艶さを混ぜあわせた幸福感を感じる事が出来ました。間違いなく先生は学生時分に彼女と観覧車に乗った事がおありでしょう。しかも結果として振られた事まで私には分かります。

 こんな風に私は先生が書くセリフ、描写、行間どれもに共感を覚え、感動し、胸を突き動かされる気持ちになってしまったのです。本当に先生には畏敬の念を抱いております。

 ところで、先生とワタクシは似たもの同士であると再度認識しましたものですから余計に親近感を膨らませながらも読み進めていますと、下巻一〇四ページで出て来る電柱が受付の邪魔をしているタバコ屋とそこに住む三毛猫の描写に、おや、と感じるものがありました。それと下巻二一八ページの、側溝にカビの生えた野球ボールが浮いて木片に引っかかっている、緩やかな坂道の描写にもオヤオヤ、と感じるものがありました。ワタクシ急いで東都の詳細な地図を買ってきましてつぶさに見てみますとその描写に合いそうなタバコ屋と坂道を発見しまして嬉しさのあまり小躍りしました。先生は聖地巡礼と言う言葉をご存知でしょうか。映像作品でも文芸作品でも良いのですがその舞台となっている土地に赴きまして作品の世界を肌で感じる事をそう呼ぶのでございますが、ワタクシ、それが大の好物ですので先生の作品の中にお邪魔する事ができる、という思いから、そうして地図を見て小躍りしたのでございます。「炊飯器の恋とイワシの頭」は思春期から二十五年続く壮大な純愛物語でございますからもしかしたら先生の生家もこのタバコ屋と坂道の近くにあるのじゃないかしらん、現在もそこに住んでいるのじゃないかしらん、と推理しております。上巻五三ページの前時代から続く楠の森や続く五四ページの電線が縦横無尽に走っている住宅街というのも推理の助けになるやもしれません。もしこの推理が当たりまして運良く先生のお家を発見出来ましたら、勝手なお願いでは御座いますが持参しますサイン色紙に先生のお名前を頂戴したいと思っております。

 その際には、どうぞ、よろしくお取り計らい下さいますよう、お願い申し上げます。

 寒い日が続いておりますのでどうぞご自愛下さいませ。


 ◆


 私は恐ろしくなってそのファンレターを破り捨てると、戸締まりを確認してから布団にくるまって震えた。

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