異種格闘技(4623文字:格闘)

 河川敷、普段ならば野球の練習をする子供たちが、白球を追いかけ、走り回り、笑顔を振りまいているのだろうその場所で、今、一組の男女が向かい合っている。


 動きやすさを追求したのか、体にピタリと貼りつくような、濃紺の生地でできた全身スーツを着た長い黒髪の女は、恥ずかしげもなく、その豊満な、美の女神を思わせる程に均整のとれた体の曲線を晒しながら、足を肩幅よりも大きく広げ右半身を前にする形で、膝を軽く折り曲げ、威嚇するように相手との間に両手をかざしている。

 その目は豹が捕食する時のような鋭さを宿して、男を見据えていた。


 対する男は薄く汚れた空手胴着を着ていて、その身は何百年と生きる楠の巨樹を思わせ、顔は憤怒をその身にひめた吽形像のような凄まじい形相をしている。常人の三倍はあるようにみえる腕を、右は腋を締めるように縮め、左は相手へと伸ばして、右半身を隠すような形で四股を踏むように体を沈ませている。


 二人の間には、木の葉一つ、水滴の一粒ですら許さない張り詰めた空気が漂っていて、誰の眼にも、ああ、これから死闘が行われるぞ、という事が明らかな事実として映っていた。




 それを遠巻きに眺めている集団がいる。二人が対峙するその空間をけっして邪魔する事のないよう、ヒソヒソと談議をしながら固唾を飲んで見守っているその集団の中に、蜂巻三太はちまきさんたの姿もあった。


 三太は緊迫した雰囲気の中、緊張と不安で、息を吸うのを忘れてしまったかのように口をパクパクと喘がせながら二人の様子を凝視していた。手には汗が滲んで、意識せず握りしめていた拳の間から垂れていた。

「どちらが勝つかな」

「いやあこれだけはわからんなあ」

「ここじゃ表情がわかりにくいぜ。もうちょっと近寄れねえかな」

 といった声が三太の後ろから聞こえてきた。何十人といる集団はその誰もが、ささやく声に興奮、期待の色を覗かせていて、当事者である二人とはまた違った、異様な空気を作り出していた。


「町内会主催、誰が喧嘩一番強いか決定戦」の決勝戦が今、始まろうとしていた。




「町内会主催、誰が喧嘩一番強いか決定戦」とは、武器を所持する事を禁止する以外はほとんどルールが存在しない、なんでもありの異種格闘技大会だ。

 そこにはモラルなど、無い。

 ただ純粋に力を示す。それだけの事を徹底的に追求した、いわば野生の獣がその身で、爪で、牙で、世界の序列を決めるような、本能と本能がぶつかり合う大会なのだ。


 その決勝に立ったのは、七草薫子ななくさかおるこ蜂巻二郎丸はちまきじろうまる


 七草薫子は二年前に旦那と別れ、実家に出戻った二児の母で二十八歳。駅前に新しく建造された商業ビルにあるフィットネスクラブのインストラクターをしている。引き締まった体と柔軟な関節から繰り出される足技は、ある時は会員の脂肪燃焼を加速させ、ある時は上司のセクハラを軽やかに躱す。変幻自在の軽業師だ。


 鉢巻二郎丸は駅前商店街にある電器屋の二代目店主で三十六歳。五十八型薄型テレビを一人で運ぶその両腕は、鍛えに鍛えぬかれていて、さらに、販売、取り付け、修理を苦もなくこなす確かな技術と知識が備わっている。質実剛健を体で表した偉丈夫だ。三太の父親でもある。


 ◇


 その試合は音もなく始まった。


 七草の体が一瞬ブレるように下に沈んだかと思うと、低い姿勢のまま二メートルの距離を一気に縮める。

 滑りこむように体を倒し、しなった右足で二郎丸の左膝を刈り取る。


 二郎丸も動いた。

 腰を落とした姿勢から、重心を敢えて左足に乗せてグッと地面に押し込むように踏み固めると、七草の足が触れるか触れないかの間際、上から釘を打ち付けるように、握った右拳を迫る足の根元、太ももへ振り下ろした。


 七草の右足はバチンという音をたてて二郎丸の左膝に接触したが、まるで大樹の根を叩いたような感触がしただけでその姿勢を揺らす事さえできない。代わりとばかりに上から落ちてくる拳を、まだ蹴りの勢いを残した体を流れに逆らわないように回転させながら瞬時に足を縮めて躱す。

 転がるように間合いから抜け出すと、また二メートル程の距離で向かい合った。


 ◇


 三太は突然始まったこの初撃の応酬に「あ!」という言葉を上げるのが精一杯で、ほとんど目で追えなかった。一瞬の出来事だった。

「ほう……」

 と、物知り顔を浮かべた爺さんが三太の隣で唸った。

「坊主よ、今の攻防に含まれた妙がお主にわかるか?」

 爺さんに話しかけられた三太は、誰だろ、この爺さん、と戸惑いながらも、解説は望むところだったので黙って拝聴した。

「薫子ちゃんは先手で、不利な体勢になる事を厭わない滑り込み蹴りを選んだ。相手の体格、特に上半身から漂う、気迫に押された為か、それとも次策への伏線なのか計り知る事はできないが、相手を転ばす事を主目的にした攻撃を行った訳じゃ。つまり拳撃を得意とする相手の土俵では戦わないぞ、という意思表示な訳じゃな」

 三太は分かったような分からないような、不思議な感覚を味わいながらも取り敢えずコクコクと頷いた。それより爺さんの正体の方が気になって仕方がなかった。

「対するジロちゃん(二郎丸)は、なんとこの攻撃を読んでおった。足を踏ん張って攻撃に耐える。一歩間違えれば重心の乗った足をすくい上げられて倒れてしまう所なのだが、体格差で、つまり力で、真っ向から受ければ姿勢は揺るがない事を知っておったのじゃ。だからこそ瞬時に拳を相手に振り下ろす事が可能となった――」

 三太は話こそよく分からなかったが父親が褒められている事だけは薄々と感じて嬉しかった。爺さんの話はまだ続いていたが、対峙する二人に動きが見えたのでそれどころではなくなった。


 一見、二人は向かい合ったまま動いていないようにも見える。

 しかし二郎丸の様子が変だった。顔が茹で上がったタコのように赤く染まっていたのだ。顔はギリギリと奥歯を噛み砕く勢いで、今にもこめかみに浮いた血管がはちきれんばかり、といった有り様だ。

「まずいな……。遠距離口撃だ。なんて言ってるかは聞こえないけど」

 先程から二郎丸へ声援を送っていた、三太の後ろにいる誰かが呟いた。

 三太はハッとして、背中が一気に冷たくなった。遠距離口撃をされると、父親に勝ち目は無い。父親は寡黙なのだ。朴訥なのだ。ストイックなのだ。悪口を相手に言う、その考えすら頭に浮かばない修験者なのだ。

 相手は女性だ。ただでさえ口答えしない父が、女性の毒舌に勝てる理由が無い。

 これは、確かにまずい。しかし待てよ……、父親は確かに無口で無愛想だけれど、他人に悪口を言われるような悪人ではない。むしろ町の人間からは好意を持たれている筈だ。それなのに相手の七草薫子は、二年前に帰ってきたばかりなのに、どうして顔を真赤にさせられる程の毒舌口撃を父に向ける事が出来るのだろう。三太はそう考えながら、ふと七草薫子を応援する集団の中へと目を向けた。

「しまった……」

 三太は思わず唸った。その集団の中に、母の顔を見つけたのだ。母は口をニヤリと歪めながら、対峙する二人を剣呑な眼付きで眺めていた。


 三太は父の失敗を悟った。父はよりにもよって今朝、母の怒りをかったのだ。「第三次おにぎり事変」を起こしてしまったのだ。


 それは不幸な事故ともいえるのだが、父は、弁当の為にと握って置いてあったおにぎりを、朝起きてきた勢いのままひょいとつまみ食いしてしまったのだ。一個じゃない。三個もだ! そのおにぎりは、今日大会に参加する父親の為のものではなく、自分と母が見学する為のお昼ご飯になるものだった。父の分のお弁当や、ましてや朝ごはんだって、ちゃんと別に用意してあったのに。

 といっても、そんな些細な事が一度あっただけですぐに怒る母ではない。それには理由がある。

 何度もだ!過去に何度も父はおにぎりをつまみ食いしてしまっていたのだ!

 母の怒りが爆発するのを見たのは、三太が生まれてから三度目。すべてこのおにぎりによるものだった。だから戒めの意味を込めて「おにぎり事変」と名付けている。

 その三回目がよりにもよって今朝起こった。

 それに……。考えてみれば母はここ最近、シェイプアップに励んでいなかったか? と三太は思い出した。駅前に良い所があるのよ、とはしゃいでいなかったか? 先生の腕が良いのかしらあ、ほら見て、ウエストが五センチも――、と嬉しい悲鳴を上げていなかったか?

 そう。母と七草薫子は知り合いだったのだ! それはつまり、父の弱みを、母からグチグチと聞いて知っているのではないか。あの七草薫子は――!


 三太は心配で揺らぐ瞳を父へと向けた。

 父の顔は赤鬼のようになっていて、その怒りは最高潮に達しようとしていた。


 ◇


 二郎丸が動いた。いや、七草に動かされたのだろう。その口撃によって。

 一歩、二歩とステップを踏むように前進する。上体は揺らしているがけっして重心はブレさせない。

 おもむろに左の拳を突き出す。七草がそれに注意を向けた瞬間、体で隠すようにしていた右足を彼女の右太腿の内側へ叩き込む。これまで拳撃のみで戦っていたところへの意想外の蹴撃は、藁を巻いた竹を蹴った時のような感触をもたらした。確かな手応えを感じ、勢いに乗って前へ詰める。


 七草は左足の力だけで後ろへ軽く跳ねる。思いがけず受けた二郎丸の蹴りは七草の右足を少しばかり痺れさせた。だがそれだけだった。

 目の前に迫る鬼の形相を――下から見上げる。しゃがんだのだ。しゃがみながら両手を地面に付き体にひねりを加えると、勢い良く地面を両足で蹴った。両手は付いたまま尻が浮き、伸ばした両足が二郎丸の顔面へ迫る。虚を突いた倒立蹴りだ。


 二郎丸は顔に重たい衝撃を受け、首が後ろへと押し伸ばされた。瞬間、鬼の顔が呆けたように緩む。腰からストンと落ちるように力が抜けて、膝を地面に付く――瞬間、グッと足の指に力を入れて、ネジを回すように捻る。クルリ。背面を一度七草へと向けて、無理やり伸ばした右足を地を這うように、弧を描くように、七草の倒立状態にある両腕へ――。


 ◇


「オオッ!」

 三太の隣のじいさんが今度は感嘆の声を上げた。

「見たか今のを! 二郎丸は怒りに任せて殴りにかかったように見せたがあれはフェイントじゃ。切り札の蹴りをここで見せおった! さすが電器屋の息子。大きく膨らんだ両腕が目立つが真に強いのは町中を駆けまわるその足腰じゃ。蹴りが得意な事をわしは密かに感づいておったぞ。しかし、薫子ちゃんもすごい!まさかあそこで下腹スッキリ逆立ちエクササイズをねじり込んでくるとは! さすがインストラクターの申し子といわれるだけはある。しかし、しかし。二郎丸の打たれ強さを見誤っておったの。完全に蹴りは顎をとらえておったが、二郎丸は年中クレーマーの対応で口の筋肉と精神力を鍛えておったから耐えられた。そして最後の反撃を許すハメになったのじゃ」


 三太は爺さんの解説を聞いていなかった。父の姿を目に焼き付けていた。父は拳を高く掲げて仏頂面の中に少しだけ満足気な様子を足して、こちらを見ていた。その傍らには地面に寝転びながら降参のポーズをとっている七草の姿がある。

「父ちゃん、すっげえ!」

 三太は興奮していた。父が勝った。父が勝った。その嬉しさと興奮が一度に押し寄せてきてそれ以外なにも考えられない。

 母が何やらバツが悪そうな顔で父を見ていたが、そんな事はどうでも良かった。

「僕も大きくなったら父ちゃんみたいに強い電器屋さんになりたいなあ」

 そんな夢と憧れを抱いて、ただ父の姿を見ていた。

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