恋かどうかはわからないけど

新樫 樹

恋かどうかはわからないけど

「せっかくだからさ、あの三人連れてスキー行かね?」

 なにがせっかくなのかわからないが、康介がわくわくした顔で言い始めて、あっという間に話がまとまったようだった。

 三学期が始まってすぐに三つ子だという女子が転校してきた。時期外れの転校生のうえに三つ子というだけでも話題性満点だったが、それが東京からで、しかも美人とくれば、田舎の男子中学生なんて簡単に色めきだつ。

「高広も行くだろ」

「俺はいいよ」

 立とうとすると、待て待てと慌てて康介が制服のすそを掴んだ。

「なぁ、付き合えよ。向こう着いたら、好きに滑っていいからさ」

 だったら、べつに一緒でなくてもいいじゃないかと言おうとしたが、なんだか懸命に誘ってくる康介に悪いような気がしてきて、わかったよ、と息を吐いた。



 三つ子も誘いに乗って、今週末に康介の兄貴の引率でスキーに行くことが決定し、出発時間を何時にするかと電話が来たのはその日の夜のことだった。

「スキー、行くの?」

 電話を切ったとたんに母さんに言われて、はっとした。

 ここでこんな話をしていた自分に、馬鹿ヤロウと内心毒づく。

 母さんにスキーに行くと面と向かって言うのは、初めてだ。

「……そう。康介と、良太郎と、健一と、俺と。あとは女の子が三人」

「女の子? 誰?」

「転校生。三つ子だってさ」

「三つ子って、あの、東京から来たっていう子?」

「もう知ってるのかよ」

「やだ、ちょっと。雪に慣れていない子連れて、怪我なんかさせないでよ」

「大丈夫だよ。引率は康介の兄貴だから」

「壮介くんが? なら安心かしら」

 でも……なんてブツブツ言っている。

「あいつらは三つ子が気になるらしいから、放っておいたりしないだろうし。逆にいいとこ見せたくて構いすぎて引かれんじゃねぇか」

 ぷっと母さんが笑った。

「あんたたちもそんな年頃になったのねぇ」

 言いながら、俺の顔をまじまじと見る。

 心臓は、ドキドキと不自然に鳴り続けている。

「なんだよ」

「高広はどうなの。気になる子いないの?」

「いない」

 なんだつまんない、と本当につまらなそうな顔をする。

「……いた方がいいのかよ」

「いいに決まってるじゃないの。可愛くて性格のいい子、連れてきてほしいわぁ」

 冗談なんだか本気なんだかわからない。

 もうテレビに目を向けて、あははなんて笑ってる。

 スキーのことを、母さんは平気な顔で自然に聞いていた。すっかり過去のことだと言わんばかりに。なんの心配もしていないと言わんばかりに。

 黙ってリビングを出た。

 小骨が喉に引っかかったような、嫌な感じがした。

「なんかあった?」

 自分の部屋に向かう途中で、風呂上がりの姉貴が髪を拭きながらリビングに来るのと鉢合わせた。

「なんでもねぇよ」

 姉貴は髪を拭く手を止めないままじっと俺を見て、ふぅっと息をつく。

「ますます父さんに似てきたね」

「……」

「……ねぇ、あんたが彼女つくらないのって」

「さっさと髪乾かせ。風邪ひくぞ」

 姉貴の言葉は最後まで聞かなかった。



 ゲレンデに出てすぐに、三つ子はきれいきれいとはしゃぎだした。

「きみらってスキー経験者?」

 苦笑しながら壮介さんがたずねる。

「はい。あんまりうまくはないですけど」

「そっか。じゃあこいつらに任せても大丈夫だな。こいつら、スキーだけはうまいから、離れずに一緒に滑って。それから、絶対にコースから出るなよ。ここのスキー場は安全でも、コース外れて山に入ったら死ぬことだってあるんだからな」

 最後のところではっとしたように、壮介さんがちらりと俺を見た。

「俺、上行きますね」

 昨日からの小骨がまだ引っかかっている。

 そのせいかもしれない。早くこの場を離れたかった。

「相良くんは一緒に滑らないの?」

 結実が声をかけてくる。

「高広はいいの。こいつうますぎて嫌味だから」

 代わりに答えた康介に、なんだよそれ、と苦い顔で言っておいてそのままリフトに向かった。

 父さんは、ボランティアでスキー場の救助隊に所属していた。

 俺はそのころまだ幼稚園児で、父さんが死んだときのことはよく覚えていない。

 どこかのスキー場で、コースの外に出て戻れなくなった人を救助するときに事故が起きて、その人をかばって父さんは死んだ。父さんを命の恩人だと、その人は今でも何かにつけて手紙や贈り物を寄越すけれど、届いたときはいつも母さんの機嫌は悪くなる。

 俺は父さんのことは、ほとんど姉貴から聞いていた。母さんに聞いたとしても、笑顔で答えてくれるかもしれない。この間の電話のときの母さんのように。でも、あの人から何かが届くたびに機嫌が悪くなるのは、まだ許すことができないからじゃないかと思う。俺だって……。

 ふうっと息を吐いたら、真っ白い煙になって後ろに流れた。

 キンと澄んだ空気と、肺にしみこむ雪の匂い。容赦ない自然を、俺は見渡す。

 きれいと三つ子は言ったけれど、俺はこの雪景色をただきれいと思ったことはない。いつも恐ろしいと思う気持ちが付いて回る。

 そして、人を求める気持ちには、そのすぐそばに失う恐怖が佇んでいる。

『ねぇ、あんたが彼女つくらないのって』

 姉貴の声がした。

 気付いているんだろう。姉貴は。俺が誰かを特別にできない理由を。

 大事なものを、誰かに託すのは怖い。

 その誰かが消え去らない保証などどこにもないのだ。



 何本目かを滑り終えたとき、壮介さんが青い顔で駆け寄ってきた。

「お前、結実ちゃんに会わなかったか」

「会ってないと思いますけど……どうしたんですか?」

「いなくなったんだ。どこにもいない」

 喉の奥で言葉が全部詰まる。

「だいぶ探したんだ。あとはもう上しか残ってない。他のやつらは先にレストランに行かせた」

 なにも言わずにリフトに向かった。

 壮介さんはわかったのだろう。

「他の大人を呼んで、俺も追いかける。無茶はするなよ」

 背中から声がした。

 リフトから目を凝らすものの、派手なピンクのウェアは人の群れの中には見当たらない。

 舌打ちして顔を上げたとき。

 中ほどのフェンスの隙間から、数本の筋が流れ出ているのを見つけた。

 心臓が跳ねる。

 着くが早いかその場所に向かった。フェンスの向こうに人影は見えない。

 すぐに自分も出ようとして、一瞬、動けなくなった。

 すがるように辺りを見回したけれど、壮介さんたちが来る気配はない。

 数秒なのか、数分なのか。俺は止まっていた自分の足を無理やり進めた。

 ザッと漕ぎ出して、注意深く滑り降りていく。

 木々の間隔が比較的狭いこの山では、雪崩が起きたという話を聞いたことはない。ただ、木の間をぬって滑り降りるには相当の技術が必要で、そういう事故はいくつか聞いたことはある。

 そんなふうに冷静に考える頭のすぐそばで、怖い怖いと喚き散らす俺がいる。

 人が死ぬのも、自分が死ぬのも嫌だと。

 簡単にひとは死なないと誰かが言ったけれど、嘘だ。父さんは帰ってこなかった。ほんのたやすい救助のはずだったのに。

 ひどく乱れる呼吸を整えようと雪を蹴って止まったとき。

「……結実……ちゃん?」

 少し向こうに、ピンクのウェアが見えた。

 木の根元にうずくまっている。

 弾かれたように向きを変えて滑り降りると、音に気付いたのか顔が上がってこちらを向いた。

「相良くん……」

「よかった無事で。早く帰ろう」

 呪いの言葉でも吐き散らしたい思いを力まかせに抑えて、手袋を外した手を差し出す。

「ほっといてくれたらよかったのに」

「……え?」

「わたしのことなんて、ほっといてくれたらよかった」

 黙ってしまった俺を、食い掛かりそうな形相で睨んでくる。

「いいから……帰るぞ」

「嫌よ。ほっといて」

 ぐっと腕を引き上げると、痛いと小さな声がした。

 かまわず立たせて、上と下を見る。来た道を戻った方が早そうだった。

「放してよっ」

 パシッと手を払われて、ため息をつく。

「壮介さんが言っていただろう。死ぬことだってあるって」

「……だからよ」

「え?」

「だから、ここに来たの。もういいの。ほっといて」

 死にたいというのだろうか。

 死にたくてコースから出たと。

 胸のど真ん中をいきなり突かれたような気がした。

 カッと頭の中が白く焼けた。強い日差しに視力を奪われたときとよく似ていた。

「きゃっ」

 気付いたときには、彼女は再び雪の中にうずくまっていて、頬を押さえて真っ赤な顔で俺を見上げていた。手が、じんじんしている。

「なにすんのよ!」

 思いきり叩いてしまったのはすぐにわかった。

 けれど、謝る気など毛頭なかった。

「死にたいなら、勝手に死ね。ただこんなふうに死ぬのは許さない」

「なんであんたに許されなきゃならないの」

 すくっと立ち上がると、結実は再び進もうとした。

「どこ行く」

「うるさい。どこでもいいでしょ」

「馬鹿かお前は。いい加減にしろ」

 言いながら、俺は何をしているんだろうといまさら思う。

「……こんな死に方されたら、残された方は地獄なんだよ」

 さっと、彼女の顔つきが変わった。

 じっと俺を見つめてくる。

「相良くん、死のうとしたことあるの?」

 やがて、ひどく真面目な声が言う。

「……ねぇよ。ただ、死なれたことはある」

「……え?」

「俺の父さんは、見ず知らずのひとを助けて、雪山で死んだ」

 はっとしたように目が見開かれて、ぎゅっと唇が結ばれる。

 視線がゆるゆると俺から滑り落ちた。

「なんかあるんだろうけど、今はとにかく帰ろう」

 今度は嫌とは言わなかった。でも、動かない。

「ちょっとだけ、待って」

「お前なぁ……」

「……ねぇ。わたしが死のうとしたこと、誰にも言わないでくれる?お願い」

「当たり前だろ。言わねぇよ」

 ありがとうと、小さな口が小さく言った。

「幼稚園のころ、お母さんが事故で亡くなったの」

「え?」

 突然、さらりと、なんの前触れもなく結実が話し出した。

「車が突っ込んできて。お母さんはちょうど幼稚園の門から飛び出そうとしていたわたしを、かばったの。わたしがちゃんとお母さんや愛実や菜実と一緒にいたら、お母さんは死ななかった」

 助けられた人も、地獄だよね。

 ぽろっと、長いまつげに縁どられた目から、雫が落ちた。

 たくさんの手紙。贈り物たち。

 色あせた写真で笑う父さん。母さん。姉貴。

 冬の強風が巻き上げる粉雪のように、様々なものが俺を駆け巡る。

 ホワイトアウトした頭の中に、静かに結実の声が響いた。

「わたし、許されて、いいのかな」

 それは俺への言葉ではないのだろう。

 けれど、俺はずっとずっと許しを請うてきたあの人が、目の前にいるような気がしていた。癒されることのない傷に苛まれ続け、本当に許しを請いたい相手はもういない……。

「……許してもらいたきゃ、しっかり生きろよ。苦しみながら、それでも立派に生きて見せろよ。俺が、見届けてやる」

 くしゃりと結実の顔が歪んだ。

 声もなく、ただぽろぽろと涙が落ち続ける。

 やがてゆらりと揺らいだ小柄な体が、俺の胸にぶつかるように寄り添ってきた。

 上から俺たちを呼ぶ声がしたのは、そのときだった。

 壮介さんが数人の救助隊を背に、安堵の笑みを浮かべているのが見えた。



「わたし、相良くんの彼女になりたい」

 昼のカレーを食べながら結実が爆弾発言をし、俺はマンガみたいに水をふいた。

「見届けてくれるんでしょ?」

 こそっと言ってにこっと笑う。涙の跡はすっかり消えていた。

 その笑顔が、どうしてだか胸に焼き付く。

 まだ、恋かどうかは、わからないけど。

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