第10話

 振り返れば禳州の森は不気味であった。来た時には地上の楽園にも見えた神秘的で清浄な森は、いまや薄暗い、虚構を張り巡らした恐ろしい檻にしか見えなかった。彼は一刻も早くおぞましい禳州の地を出たくて仕方がなかった。早く草原に戻ってイェシルに会いたいと願う。だが、草原に戻りイェシルに会ったところで、今宵行われた祭りの結果が覆ることはない。

(ユェ、ユェ……。何でこんなことに)

 行くあてのないキジルは宿営所に駆け込むと乱暴に扉を開いた。

(イェシル叔父さんのところに帰りたい)

 彼は己の荷に伏して胸から這い上がる悪寒に必死に耐えていた。ふと、手元に紙切れが触れてキジルはイェシルから届いた手紙を思い出した。

(手紙……)

 それはすっかり読み忘れていたものだった。イェシルからの手紙を読めば少しは安心するだろうか。キジルは震える指先で乱雑に封蝋をきり、蔀戸の下に移動する。月明かりがうっすらと紙面を照らす。

『――キジルへ。この手紙は読んだら必ず燃やしてくれ。誓ってお願いする。また、この手紙が天還之儀と呼ばれる宵の祭りの前に読まれることを願う』

 ただならぬ雰囲気の冒頭にキジルはがっかりした。イェシルならば長旅で疲れたキジルの心身に何らかの労いの言葉をかけてくれると期待していたが、それに反してイェシルの文面は緊張の面持ちを見せている。紙面からは心身の疲労の心配よりも不安や恐怖、そういった感情が滲み出ている。

 キジルはさっと目を通したが、その内容に愕然とした。一度だけでは信じられず、二度目を通した後、すぐさま蝋燭に火を灯す。人に見つからぬよう、急ぎ燃やしてしまわなくてはならぬ。彼は焦った。蝋燭の火が手紙を燃やすのが百劫の長さに感じられる。早く燃え尽きてしまえ。キジルは全てが塵になるのを、息を殺して見つめた。

 手紙には恐ろしいことが書いてあった。イェシルの筆は彼に似つかわしくない、いかにも焦って書いた乱雑な文字で、火急に記したことは明白だった。イェシルの文字には彼の焦りからか、不明瞭な、叔父にしか分からぬ心境描写も多かったが、それでも確かなことは、早急に対処せねばならぬ、ということであった。ここには父が叔父に託したこの天還祭の真実が記されてあった。

『――シャマルは亡くなる前、俺に一筆寄こした。そこには天還祭がいかに恐ろしい儀式であるかが書かれていた。シャマルは自分の命が狙われていることを知っていたようだった。きっとシャマルは真実を知って逃亡したのだが、途中、曄の密偵に殺されたのだと思う。落ち着いていられないと思うが、どうか正常な判断をするように、いいな、キジル。

 お前は信じられないかもしれないが、この天還祭は曄の使者により略奪された者が執り行っている。まずは姫神子、それとその世話役の老人だ。それぞれ違う部族から連れ去られてきて、時間をかけて曄が派遣した神官に洗脳される。世話役の老人はこの儀式で一番の貢物をした部族から輩出され、逃げられんように両脚を切り落とされる。姫神子は二番目の部族のうち、儀式参加者の血縁者より、適齢の幼い少女が選ばれる。血縁者が居ない場合はその最も身近な家族からやはり幼い少女が選ばれる。

 シャマルは当時儀式の二番手の栄誉を賜って天還祭に行ったが、その時の世話役の老人が父のコタズ族の友人にそっくりなことに気付いて調べたらしい。すると、彼は何度か前の儀式で一番手に選ばれて、そのまま行方知れずとなっていたそうだ。そして同じ頃、アルトゥン・コイの男が、子どもが攫われたと言って精神を病んだことが噂になっていた。そのコイの男は金工細工で素晴らしい腕を持っていて界隈では有名だったが、子を失った後に細工師をやめてしまったので、コイの評判ががくんとさがったことで知られていた。シャマルは男が言っていた誘拐された子どもの特徴に、姫神子がそのまま当てはまることに気付いたんだ。だから、自分が二番手に選ばれた今、もしかすると今度はカラ・アットの娘が連れ攫われるのではと恐れていた。おおっぴらに部族に公表すれば、曄からの攻撃を受けかねないと知って、俺にめぼしい娘たちを出来るだけ毎日、遠くに行かせるように指示した。しかし、お前も知っての通り、曄の追随の手からうまく逃れられず、アイたちは戻ってこなかったし、他の部族でも似たような年ごろの子どもが同時期に四人消えている。略奪されたとも姫神子になったとも言い切れないし、俺は実際に見たわけではないが、兄が命を落としてまで俺に伝えた言葉を、きっと真実であろうと信じたい。俺はお前に可能性だけで話をしているが、どうかお前がこれを読んだなら、曄の気付かないうちにどこぞへと逃げて欲しい。お前の命が心配なんだ』

(だから叔父さんは――)

 キジルはイェシルが手柄を譲ってくれと願い出たあの夜の日を思い出した。空の銀砂が美しかった。全てが己を祝福していると信じていた。その中でイェシルだけがこのおぞましい儀式の真実を胸に秘め、起こりうる恐怖からキジルを守ろうとしたのに、己は欲望と名誉のために彼の厚意を無碍にした。

 次はお前が狙われる可能性がある。イェシルはそう言っているのだ。あの眼光の奇妙な老人が元は遊牧の民だと。アルトゥンはキジルのことを一番手だと言っていた。即ち、キジルは次のツゥイェ候補なのだ。曄に捕まれば脚を切り落とされて世話役として監禁されてしまう。

 キジルは蝋燭を消し、燃えかすを下衣の衣嚢に詰め込むと、荷の中から先ほどとは別の、もっと実用的な小刀だけを取り出して外に飛び出た。周囲に人影がないか確認すると、禳州の出口へと向かう。今ならば逃げられる。今しかない。今ならば、まだ皆神秀宮に参集してキジルや雷のことで混乱していて妨害も少ないはずだ。キジルは意を決した。己が逃げることによって誰かが己の代わりに新たな贄として捕まるかも知れぬし、部族に何らかの処罰や報復が科されるかも知れなかった。だが、何十年か後に今のツゥイェと同じように遊牧民の誇りを、人間の誇りを忘れ、獣を屠るように平然とした顔で、それだけを愉楽として少女の胸に刀を突き立てることも、その義務を負わされることも耐え難かった。

 キジルは駆けた。思えば草原を出て以来、久々に己の足で疾走している。ユェの後をついて歩いたおかげで、いまや禳州の出入り口までの道順は暗くとも迷うことはなかった。

(ユェ。ごめん。もっと早く叔父さんからの手紙を読んでいれば……)

 或いはユェを連れて逃げられただろうか。その疑問は容易に肯定できるものではなかったが、失敗する可能性が高くとも、同じ黄泉路を辿るはめになるのであれば、天運に賭けることもできただろう。

(ごめん……。僕だけ逃げて、ごめん)

 禳州の森が途切れて黄土の荒地が見えた。黄土の荒地は広々として遮るものがない。ここを一気に抜けねばならない。弓を射るのは得手でも、弓を避けることまでは得意ではない。見つからぬように一気に駆け抜けるのだ。キジルは空を仰いだ。月が丸々とし、黙したまま地面に光を落としている。彼は月の昇る方向へ行くと決めた。

「待てよ」

「!」

 背後から声を掛けられてキジルは動きを止める。相手が攻撃をしかける意思のないことを認めると、彼はゆっくりと振り返った。

「……アルトゥン」

「逃げるつもりだな」

 アルトゥンの眼光は鋭い。厳しく当たられた記憶が新しいために、責めたてられているようにさえ感じた。

「密告するかい」

 アルトゥンがキジルを追ってきたことは明白だった。彼に限って何もなしにこの場に姿を現すことは考えられなかった。天還祭を恨む彼は己の味方につくとも、曄側の味方につくともよらなかった。彼はキジルの言葉を鼻で笑った。

「俺の言い分が正しいと分かっただろう」

 アルトゥンはそれだけが言いたかったようであった。否、彼にとってそれは至極重要だった。誰も認めようとしなかった彼の憶測、或いは妄想とすら思われていたことが、キジルが是と一言いうだけで変えがたい真実となる。アルトゥンの憶測はイェシルの手紙から察すると真実により近いと考えられる。だが、キジルにはどうでも良いことだ。

「言いたいことがそれだけなら僕はもう行く」

 輝かしい真実はキジルの胸の闇を払えない。むしろその光は彼の裡に湧き出た黒霧をより深く、散らすことができなくなるほどに、その身に刻むだけに過ぎない。キジルが背を向けるとアルトゥンは駆け寄って肩を掴んだ。

「だから待てって!」

「一体何だって言うんだ!」

「これを……」

 語気を強めたキジルに、アルトゥンは懐から深い青色の美しい石を取り出した。石は大きく欠けていて首飾りに加工されている。

「ラズワルド石?」

「俺の首飾りだ。ブルキュットにこの石の切り口と合う石を持った子どもがいる」

「もしかして……」

「俺の妹だ。ミウェという茶毛の五つの子どもだ」

 キジルはアルトゥンから石を受け取った。アルトゥンは全てを言わなかったが、今のキジルにならば理解ができた。アルトゥンは二番手の名誉を賜ったのだ。石を受け取るということはアルトゥンに返事をすることになり、それは大禍の引き金となりえる。

「僕は逃げる。その前に君に一つ聞きたい」

「ああ」

「君は妹の命のせいでブルキュットが滅びてしまったとしてもいいのかい? それでも、妹を助けたい?」

「二言はない。俺は利己的な男だ。部族に恩はあるが、最後の家族であるミウェまでくだらぬ祭りに殺されてたまるものか」

 アルトゥンの答えは早かった。

「……分かった。なら、恨むなら曄と僕を。カラ・アットは恨まないと約束してほしい」

「当然だ。俺はお前を利用するだけだ」

 キジルは今度こそ背を向けて黄土へ向かった。アルトゥンがピィと口笛を吹いた。

「連れて行け! ボランという」

 背後より一匹の黒馬が駆けてきた。アルトゥンの馬にしては瞳の潤んだ優しそうな馬だった。黒いことと瞳の優しいこと以外に特徴のない馬だったが、乗れば速く、逞しかった。砂を駆る足音も密やかな、今宵にもってこいの名馬だった。キジルは礼を言うこともなく、二度と後ろも振り向かなかった。

(ユェに哈蜜瓜を食べさせたかったな……)

 キジルはラズワルド石の首飾りをかけると、ふと、哈蜜瓜の約束を嘘でもいいからとりつけておけばよかったと思った。愚かな考えだったが、どうしてもそれが悔しく思った。そして、彼はひたすらに、だた、月の方角へ向かって一心に駆った。草原へ。


 数ヵ月後、ブルキュット族は帝国・曄の姫神子を隠匿したことで、叛逆罪のかどにより誅され、滅したとの報が草原を駆け抜けた。

 八部族連合は一つの連盟者を失った。曄滅亡の十年前に遡る。

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祝りの牝鹿 にっこ @idaten2

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