第8話

 こつこつと蔀戸を礫が叩いた。起床時であれば取り立てるまでもない音であったが、まどろみの深淵から引きずりあげられたとなって、キジルは少々不快に感じた。頭から布を被ってみるものの、音の存在に気付いた後ではどうしても無視することが出来なかった。酋長は毎晩のように鼾をかいていたが、今夜も同様であった。酋長の耳障りな鼾声から逃れて無心で入眠するまでには時間がかかるというのに、今夜は二度もその作業をしなくてはならない。しかも夜が明ければ天還之儀である。天還祭の要となる、国を挙げての重要な儀式とユェが舞う中で舟を漕ぐわけにはいかない。

 キジルは床からそろっと抜け出すと、物音を立てぬように宿泊所の外に出た。キネズミや鳥が礫を落としているのであれば、追い払ってやろうと考えていたが、玄関から蔀戸の方へ視線をやると、白い衣がふわりと裾を靡かせた。

(亡霊……!)

 彼はぎくりとして身構えた。だが、よく目を凝らしてみると、それは白絹を纏ったユェであった。

「キジル、眠っておったかの」

 ユェはとろんとして潤った瞳をしている。キジルは拍子抜けして。警戒心を解いた。

「ユェだったのか」

「これか? 一か八か、気付かないでも良しと思うてな」

 ユェはそれぞれの手に白い石を二三持って、内一つを中空に放り投げた。

「起こしてしまったようじゃの」

「うん、起きたよ。にしても、こんな夜中にどうしたんだい? 朝まで勤めだと言ってたじゃないか」

「ああ、今しがた勤めが終わったのでな、キジルに会いとうなったからちょいと隙を見つけて抜け出してきたのじゃ」

「女の子が夜に、しかも一人で男の寝所に出向くなんて感心しないよ」

「ここはキジルの家ではあるまい。禳州は妾が家、妾が庭じゃぞ」

「それでも――」

「良い。明け方には祭りの最後の準備をせねばならぬ。時間が口惜しい。な、キジル、そなたもそう思わぬか?」

 ユェは拗ねた表情でキジルの小言を遮った。キジルも慌てて諌めたものの、同じく時間が惜しいと思うことに変りはなかった。正直に認めると、ユェはすぐ傍の岩に座り、キジルを手で拱いた。

 岩に座ったユェは白絹の所為もあって、神の岩に降りて来た天女のようでもあったし、夜を遊び場とする亡霊のようでもあった。白い手足がぼうっと暗闇に発光しているようだ。よく見れば、所々着乱れていて、子どもの割りに妙な色気があった。キジルは大きく開いた襟ぐりから覗くユェの浮いた鎖骨と白い肌を見まいと、隣に座るも視線を地に落とした。ふと、目の端にユェの長裙の裾に黒色の滲みが付着しているのを捉えた。

(泥でも跳ねたのかな)

 キジルは点々と続く滲みを追ってユェの長裙を上へ上へと遡る。すると、滲みは彼女の太腿の辺りでぷつりと途切れていた。嫌な妄想が頭をよぎった。

――あいつは傍付きの足なしジジイの慰みものになるのを待つだけの女だ

(まさか。泥だろ)

 どうしてもアルトゥンの言葉が頭を離れなかった。何度胸の裡で否定しても、変えがたい事実と断じられた不文律のように、アルトゥンの言葉はキジルの胸にも腹にもずっしりと圧し掛かる。鋭利で鈍い見えない楔が彼を縫い付けた。

「どうした、キジル。やはり眠かったか」

「いや……」

「ならばどうした」

「ユェの足元に血がついているように見えて」

 キジルは泥ではなく、血と指摘した。泥だと言ってはぐらかされぬ為に敢えて血と言ったのだ。

「ああ、これか」

 ユェは長裙の汚れにとっくに気付いていた。太腿の汚れを摩って取り立てて大したことでもないように、

「妾の血じゃ。ツゥイェとの“クラの儀式”でついたのじゃろう」

「クラの儀式?」

 アルトゥンの戯言が真実であるはずないとキジルは信じようとしていた。だが、同時に否定しきられぬ自分が心の大きな場所を占めており、惨めで女々しい追求を止めることが出来ない。

「神子が祭りに臨むに当たって清らかで穢れがないか神官どもが調べるのじゃ。神人検めの儀とも言うてな。詳しいことは秘儀ゆえ、キジルにも教えることは出来ぬがの。きっとその時に流れた血であろ。少々手荒で痛いこともあったが今は見ての通り、平気じゃ!」

 ユェは両手で拳を作ると朗らかに笑った。キジルは思い切って彼女の顔まで頭を上げた。暗闇でもきらきらと輝きを失わぬ瞳は、空元気で無理に笑顔を作っているわけでもないようだった。キジルは儀式の詳細を知らないため、完全に納得したわけでもなかったが、彼女の顔を見れば偽りでないことは一目瞭然であった。最も、万が一無謬の彼女があさましい行為の餌食となろうが、彼女自身が行為について理解しているとは考えられなかった。それでもキジルは、彼女の言葉を文面どおり、そのまま信用しようと決めた。

「それより何か話そうぞ! 儀式が終わればもっと話せるやも知れぬが、折角の貴重な時間じゃ。ほれ、キジル、何ぞそなたについて話せ」

 ユェは袖の裾を引っぱり、せっついってきた。完全に目が冴えてしまったキジルは、神官たちにユェとの逢瀬が見つからないかと心中穏やかでなかったが、ままよと頷いた。天還祭が終わればユェとそう易々会うことは出来まい。今夜が祭りを抜かせば今生の別れとなるかもしれない。キジルの暮らす草原と禳州はあまりにも遠く、各々の暮らしぶりはあまりにもかけ離れている。

 キジルはユェに草原の暮らしを、部族の話をしようと決めた。きっとユェが草原に来ることはないだろう。だから草原の美しいところを教えようと考えた。彼女は禳州が全てで、神子の役目を終えてもきっと禳州か凰都に住むことになろう。草原は伽話の世界でしかなかろう。

「どんな話がいいかな。なら、まず僕らの部族のカラ・アットっていうのはね……」

 キジルは黒い馬の名を冠する己の部族の創世神話、歴史、姻戚を子どもが楽しみに聞く故事のように話し、カラ・アットの遊牧する場所の名跡や名産を話した。ユェはこの頃合の少女特有の幻想じみた想像力を働かせてうっとりとして聞いた。

「草原、妾も行ってみたいのう……」

 ユェは瞳を潤ませた。

「そうだキジル、そなたの名の由来が聞きたいのう」

 そして話はキジルの身の上にまで及んだ。

「僕の名前?」

「そうじゃ。何か由あっての名であろ? 我が名は天上の“月”を意味するぞ」

「月、か! 妹のアイの名前も月という意味だよ」

 キジルはあっ、と言って大げさに反応した。月を冠する名は古今東西で女性の象徴としてありふれたものであったが、ユェが偶然にも妹と同じ意味の名であることが嬉しかった。ごく狭い間柄での、一種秘密めいた共有感覚が嬉しかった。

「妹御と同じか! ふふっ、それは光栄じゃ。キジル兄様」

「からかわないでくれよ」

 キジルの喜び様にユェも妹を演じて見せた。

「それで、そなたの名は?」

「僕の名は“赤”だよ。生まれた時に瞳が他のどの子どもよりも赤かったんだって。あ、髪もかな」

「ほおう、赤いかの?」

「うーん、どうだろ。僕はとりたてて赤いとは思わないけど」

「ふふっ、でも妾よりは断然赤いの」

 ユェはキジルの髪の端を掌にのせる。暗がりでは赤でも茶でも黒にしか見えぬが、彼女の目には燃え盛るような赤に映っているような素振りだった。

「そうか、同じか……」

 ユェは愛おしそうにキジルの髪を撫でた。空が藍色に明るみ、もうじき夜が明けようとしていた。

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