第4話

 ユェの示した方向に進み――彼女を取り逃した神官たちに案内してもらったこともあり――キジルは何とか宿泊所に帰ることができた。酋長の注意も虚しく、結局は迷ってしまったが、ユェに出会ったことで気分は高揚していた。想像と一回転異なる姫神子のようすにキジルはとびっきりの宝を見つけたような気分だった。

「酋長、姫神子に会いました。名はユェというそうです」

 酋長は晩餐の精進料理を口に運びながら、ほうと目を丸くして見せた。肉を除き、大豆や寒天で肉を模して作られた食事は、想像していた味気のない料理と違って意外にも美味でだ。

 蔀戸の外からは点々と灯火みあかしが見え、神官たちの祈祷の声が聞こえてくる。これは祭りの期間中、昼夜絶え間なく続くのだそうだ。

「で、どんな姿の占い老婆だった?」

 彼も姫神子には興味津々で、どんなにすごい呪術の使い手なのかと心躍らせているようだった。彼の姫神子の心象と、ユェに出会うまでのキジルの姫神子の心象は一致していたであろうと思われた。キジルは少しばかり事実を知っている優越に浸りながら、それがですね、と答えた。

「ほんの子どもだったんですよ。僕よりも一つ二つばかり年下に見えました。そう、アイが生きていればあのくらいになっていたかもしれない」

「そんなに若いのかね。それで、どんな容姿だね」

「それが、キュミュシュ爺のおとぎ話に出てくるような天女みたいでした」

 酋長は天女と聞くと料理を口に運ぶ手を止めて古老の話を思い出した。

「黒い絹の髪、黒曜石の瞳、月の雫のような白い光を体に纏い、自在に衣の裾をたなびかせて空を飛ぶ、花と仙桃の香りを放つ熟れる前の処女、か」

 酋長が古老の言葉を反芻している間、キジルは妹のアイに思いを馳せていた。

 母と妹はある日忽然と姿を消した。それは父が天還祭に招待され、帰路、客死した翌年の春のできごとで、キジルにしてみれば父を失った矢先に立て続けに家族全員を失ったのだった。二人は宿営地からやや離れた湿地帯へ木の実を採りに出かけていた。だが、夕刻になっても戻っては来ず、部族をあげて捜索に出た。懸命の捜索にもかかわらず二人の足取りは不明だった。湿地で足跡が消えていたこと、馬は木にくくりつけられたままだったこと、沼に母の髪飾りが浮いていたことから、二人は底なし沼に足をとられたのだろうと結論づけられた。付近に宿営している間中、遺体はあがらず、ついに宿営地を移る日に酋長から捜索の打ち切りを言い渡された。キジルは酷く困惑し、衝撃を受けた。当時は自分もいつ後を追おうかと、穹廬の片隅でじっと塞ぎ込んで、酷く荒れていた。毎日訪れるイェシルを追い返したりもしたが、結果、彼の手厚い保護によって今に至るわけだ。

 妹のことを思い出したのは久方ぶりだった。意図的に避けていたつもりはなかったが、無意識に遠ざけて心に鍵をかけていたともいいきれなかった。自然に思い出せたのはユェに出会ったからかもしれない。妹の記憶はキジル自身が幼かったせいもあり、非常に曖昧だが、兄の贔屓目でも可愛らしかったことを記憶している。アイは機嫌が良い時、決まってキジルにこう言った。

「あたし、大きくなったらきっとお兄ちゃんのお嫁さんになるわ。絶対よ」

 春の花を摘みながら、満面の笑みを浮かべて、

「だからよそからお嫁さんをもらっちゃ嫌だからね!」

 と花束で顔を隠すのだった。

(……アイ)

 キジルは食事を終えて横になってもまだ妹のことを思い出していた。

「ねっ、キジルお兄ちゃん」

 歳こそ二つも離れなかった妹だが、背の低い彼女はいつも大きな眼を上目遣いにしてキジルを見た。

(可愛かったな、アイ……。何で兄ちゃんを置いていったんだよ)

 キジルはうとうととまどろみながら妹の愛らしい表情やちょっとした仕草を思い返していた。もうずっと昔のことだから、瞼の裏に浮かぶ妹は殆どキジルの空想といっても過言ではなかった。くるくると草原を動き回るアイが、キジルのまどろみの中で次第にユェに姿を変えた。

(あれ、何でだろう)

 キジルは眠りと現のあわいの中で、己の名を呼ぶアイともユェとも似つく一人の少女を、広い草原の中追いかけるのであった。



――倶利伽羅くりから刀、倶利伽羅刀……。

 ユェは己の寝所の枕元に祀られている古神宝の直刀に心の中で話しかけた。倶利伽羅龍と七ツ星が刀身に彫刻されていることから、彼女は倶利伽羅刀と呼んだが、神官たちからは正式に祝いの直刀と呼ばれていた。毎夜、日中のできごとをこの刀に報告するのが彼女の日課だった。古神宝といえど、刀が奇跡の力を具現させてユェに答えることはない。ただ、そこに在るだけだ。それでも彼女が話しかけるのは、ひとえに、この刀にしか本心を打ち明けられないからであった。他の者は総じて彼女を姫神子として扱い、本心はさておき、敬う格好を見せる。姫神子の御力に与ろう、或いは、背後にある曄の権力に結びつこうと媚へつらう。祝いの直刀だけが彼女を何者としても見ない。ただ、そこに在るだけ。

(今日おもしろい者に出会ったぞ。風のにおいがするのじゃ)

 ユェは薄掛けを口元まで引っぱり、くすくすと笑った。

(草のにおいもするのじゃ)

 ユェが喜びを感じたのは久方ぶりのことだった。新しいものを見て、触れて、彼女は知りたいと願った。閉塞した空間に、戒めの多い息苦しい日常。ユェの毎日は息継ぎを禁じられた水槽の中の魚のようだった。そこに吹いた新たな風。それがキジル。

(キジル、そなたはどんな人間かの)

 彼女は心から知りたい。そう願った。

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