祝りの牝鹿
にっこ
第1話
キジルが白い牝鹿を狩ったのは、彼が成人した十五の年だった。
天還祭が近づくと、カラ・アットの男たちは鹿狩りをした。狩りは男たちが部族でどれほど弓の腕前を持つかを大勢の者に見せつけるものであり、ある種の競技でもあった。参加するには一族の成人である資格が必要で、キジルは漸くそれを手に入れたばかりであった。
成人してすぐに、しかも一番手で狩りを成功させたことは、キジルの亡き父も成し得なかった快挙だった。同時に、それは彼の幼い頃からの夢であった。父は部族で英雄と称えられた狩りの名手であったが、その業績を凌いだことに、育ての親である叔父のイェシルをはじめ、皆がキジルの神懸かった弓の腕前を褒めたてた。というのも、多くの鹿を仕留めただけに留まらず、四肢が真っ白に輝く牝鹿を手に入れられたからだ。
カラ・アットの縄張りでは稀にこのような白色の鹿が現れた。そういった鹿は決まって牝であった。殆どの鹿は茶色の毛に白の斑点の混じったごくありふれたものだったが、白い鹿は違う。まるで光に包まれているかのごとく、否、それ自体が光を放っているかのように神々しいのだった。斑点は薄いきなりに見えたが、人によっては黄金だと言った。
カラ・アットは天還祭に際して四十五匹の鹿と八匹の選りすぐりの駿馬、それに幾つかの軟玉を帝国・
ところで、天還祭でこの白色の牝鹿を捧げることは非常に重要な意味があるだけでなく、栄誉であった。これは彼ら部族だけでなく、周辺の遊牧民族たちも同様に考えていた。
――白の牝鹿が現れる時、神は天に還り、また天からおりたもう。
遊牧民にはそういった伝承が広く知れ渡っていた。白鹿は神の御使いであり、神の妻であり、また神そのものであった。
酋長は
「これで今度の天還祭はどうにか貢物が揃った。それもキジルのおかげだな」
酋長は日に焼けた肌をくしゃりと皺寄せて笑った。彼は夏にもかかわらず、まだ成人したばかりの少年のために貴重な肉類――冬に備えて家畜を肥えさせるために夏の肉は貴重だった――を振舞わせた。
女たちの織った強い美しい生命樹が描かれた赤色の絨毯を、皮のこんがりと焼けた羊やじわりと肉汁を出す饅頭が飾り、哈蜜瓜、西瓜、葡萄が瑞々しい緑色を涼しげにして器の上で金字塔を築いていた。
「このような宴を催して頂きまして有難うございます」
キジルはまだ幼さの残る目を溌剌と輝かせ、酋長に頭を垂れた。
「この度の祭りには私とお前で行くことになる。しばらく故郷の料理にはありつけないから、今のうちにたんと食べておきなさい」
「はい、どんな祭りか今から楽しみです!」
キジルの胸は躍っていた。目の前の宴が自分のために張られている嬉しさでも笑みがこぼれたが、天還祭に行けることはそれとは比べものにならない。若いキジルが部族の代表として曄での祭りに参加できるのは、これ以上なく光栄なことだった。これで先に死んでしまった父や行方不明の――恐らく死んでしまったであろう――母と妹に顔向けできるというものだった。
キジルの父は天還祭の復路、帝国の国境を出る前に客死した。よって、キジルにとってこの旅は父の足跡を辿る旅にもなる。父が最後に見た地、代表として参加した祭りを彼はいつか見てみたいと願っていた。それに古老に聞いて頭に描き続けてきた帝国――この世の富を一所に集めたような国に賓客として迎えられるのは夢のようだった。過去にも未来にも人生でこのような幸運の光を浴びることはきっとまたとないだろう。
キジルは片手に羊の腸詰を持ったまま、労いの言葉をかけにくる男たちに次々と
宴が始まった時間にはまだ藍色だった草原は墨色に染まり、天地が溶けて一体となったようだった。人の灯りに代わって天が青白い灯りを星々に点していたが、キジルにはその光が降り注ぐ天の祝福のように思えた。
「イェシル叔父さん!」
キジルは穹廬から少し離れた暗がりに立つイェシルに声を掛ける。イェシルは小太りの体を落ち着きなく動かし、ひどくそわそわとしていた。キジルと視線を交わしたかと思うと、次は視線を外して地面を見る。その繰り返しが何度か続いて、キジルはどうしたのかと疑問符を浮かべた。
元々、イェシルという男は何かにつけて優秀だったキジルの父、即ち彼の兄・シャマルと比較されてきた。容姿は中年を過ぎる前から小太りで背は矮く、鼻梁が低いのに鼻頭だけは目立つほど大きい。筋肉を絞っていて鼻筋の高い兄とはぱっちりとした目以外に似ても似つかなかった。鈍くさく冴えない、いかにもぱっとしない存在で、致命的なのが狩りだった。イェシルは弓が不得手で一人で一匹の鹿もまともに仕留められたことがなかった。部族の男たちは彼を半人前の臆病者だと軽視していた。
部族の男手としては軽視されているイェシルだが、一方で人格者として部族の女子どもや老人の信頼を勝ち得ていた。彼は温厚で面倒見がよく、キジルの父が亡くなってすぐに無条件でキジルを引き取り、男手一人で育て上げてきた。キジルの父が残した幾許かの財産に彼は殆ど手をつけず、どうしても大金が必要になる場合――例えば先だって行われた成人の儀の晴れ着など――に限り、キジルのためだけに使われてきた。
また、特技もあった。イェシルは弓矢の腕こそ成人前の少年にすら負けるが、鹿の鳴きまねはどんな牝鹿でも罠にかかるほど上手かった。キジルの今日の狩りも叔父の協力なしには成し遂げられなかっただろう。そういうわけで、今も相変わらず臆病な表情をしたイェシルを、だが、キジルは感謝し、尊敬していた。
「叔父さんのおかげで天還祭に行くことができるよ、有難う」
キジルはイェシルをぎゅっと抱きしめた。イェシルもそれに答えるように手を背中にまわした。
「僕、天還祭に行くのがずっと夢だったんだ! 父さんと同じ祭りに行けるんだ!」
「そのことなんだがキジル……」
「どうしたの? 叔父さん」
「こんなことをお前に頼むのは情けないと思うんだが、今回の狩りの成果は実は俺のものだったことにしてはくれないか」
「え?」
「一緒に狩りをしていたから、興奮してつい自分の成果だと言ってしまったことにして欲しいんだ」
イェシルは無邪気に喜ぶキジルを離し、後ろめたそうな表情をした。
叔父はいつも他の人をたてる。だから傍から見ると、名誉に執着がないように見える。だが、生まれてこのかた英雄めいた兄の傍にいながら、常に比較され、一度も脚光を浴びなかった彼が、羨ましいと思わなかったはずがない。キジルは仮に己が叔父の立場にあれば、父を羨ましく思い、時には疎むであろうと思った。イェシルの助けなしにはキジルは今まで生きながらえてこなかっただろうし、狩りの手段すら知りえなかったかもしれない。弓矢で仕留めたのはキジルだったが、そこに至るまでの手助けをしたは他でもないイェシルだ。この機会は恩返しにはまたとない好機であることはキジルにもよく分かっていたが、キジルは申し出を断った。若者が誰しも抱く好奇心や名誉欲が彼の胸の裡にも燦々と輝きを放っていたのだ。
「ごめん、叔父さん! 今回は僕に行かせて欲しいんだ。叔父さんにはとても感謝してる。けど、どうしても父さんの見た祭りをこの目で見てみたいんだ。父さんと同じ成果を収められたことを
キジルは両手のひらを組んで頼み込んだ。暗がりに見えたイェシルの落胆の表情にキジルは申し訳なさでいっぱいになったが、イェシルはそれ以上要求しなかった。
「そうか、なら仕方ない。シャマルよ、これも運命か」
イェシルはぎらぎらと輝く夜空を見上げてキジルの亡き父の名を口にした。
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