第7話

――倶利伽羅刀、倶利伽羅刀……。

 ユェは朱色の寝台で薄絹に身を包みながらぼんやりと横たわっていた。昼間に遊び、夜に勤めたせいで疲労し、半ば眠りかけていた。神官たちが次の儀式に向け準備をする間の、束の間の休息で、彼女は寝台の枕元に祀られた祝いの直刀に念じた。

(どうか儀式が終わっても、キジルを白き鹿の恩恵で満たしてくれ)

 刀は、当然ながら何も答えることはなかった。

(お願いじゃ)

蝋燭に照り付けられた刀身も、半眼のユェの瞳には映らなかった。

 うつらうつらと舟を漕ぎながら、ユェは夢を見ていた。乳白色の川に一人で舟に乗っている夢だ。不思議なことに晴れているのか曇っているのか、それとも霞んでいるのか分からない。ただ雨が降っていないことは確かで、空色は翡翠色をしていた。川中には若々しいナギの木が生い茂った浮島が点々と存在している。彼女が櫂を操ると、現実ではあり得ぬことだが、瞬く間に舟が流れていく。流れは恐ろしいものでも嫌なものでもなかったが、ただ、彼女から周囲を遊覧する機会を奪っていった。

(もう少し、もう少し……)

 彼女は櫂を操る手を止めるが、舟はもう止まることはなかった。

(ああ、もう少し居りたいというのに)

 どうにもならない事態をみて、ユェは諦めて腰を下ろした。こうなれば、舟を漕ぐなどもうどうでも良い、見られる光景の全てをこのまなこに焼き付けてやろう。そう決めた。瞬間、浮島の茂みから白いものがひゅんと隣の島に跳躍した。

(あれは何!)

 ユェは身を乗り出した。しかし、白い何かは島の茂みに隠れて見えない。ただ、ユェの方を窺っているようだったので、彼女は更に身を乗り出した。舟がぐらりと傾いた。

「な、何?」

 ゆらゆらと不安定に傾く体に、ユェははっとして目を開いた。目の前にはツゥイェと神官たち数名が居る。隣にも女官がおり、彼女の肩を揺さぶっていた。

「姫神子様、どうぞ、クラの儀式の準備が整いましてございます」

 ツゥイェの小さな瞳が微笑みを称えていた。ユェは我に返って辺りを眺めたが、朱色の寝台の上で倶利伽羅の彫られた刀が相も変わらず銀の静かな光を纏っていた。そうだ、寝ていたのだ、と彼女が気付くまでにあまり時間はかからなかった。

「御苦労、参ろうぞ」

 気持ちを切り替えたユェは、気高く、何事にも動じぬ様子で返事をすると、すっくと立ち上がって背筋を正した。紅の羽織を着て、姫神子の務めを果さんが為、銀砂の散らばる漆黒の夜闇に出かけていった。



 夏虫が羽音を立てながら先を歩く神官たちの灯火にまとわりついた。火の周りを飛びまわっては羽を焼き、夜闇に姿をすっと消していく。

 ユェは台座に乗ったツゥイェの後ろを輿で運ばれていた。外を移動する手段は殆どが輿だ。輿の揺れは疲れる。ユェは輿が好きではない。輿では地面を踏みしめられぬ。踏めぬのでは土や草を足の裏で感じることが出来ない。彼女はそれがたまらなく嫌であった。だから勤めのない時間にはうんと裸足で大地を踏みしめた。祭りとはその源を辿れば生命のために祈り、行われるものなのに、その生命を感じられない輿での移動は気が進まなかった。

(クラの儀式は命が誕生することを表す大事な儀式なのに……)

 ユェは肘掛で頬杖をつきながら外を眺めた。暗い。全てが闇に沈む暗さだ。虫の羽音もついぞ聞こえなくなった。それでも、己を運ぶ人間、潜む虫たち、生い茂る木々は幻ではなく、確かに存在している。命はそこかしこに芽吹いている。ユェは瞑目しながら彼女の知る全ての命に思いを馳せていた。

 突然輿が止まった。

「姫神子様」

「許す」

「申し上げます。クラの祭壇に到着しました」

 ユェに口を利くのを許された神官の一人が恭しく手を差し伸べるが、彼女はそれを取らずに独りで輿を降りた。土のしっとりとした感触は沓の厚い底に阻まれて感じられない。

「こちらへ」

 ツゥイェは台座に乗せられたままだった。彼は手に小さな松明を持ち、神官に指示を出しながらユェを先導する。ツゥイェの手に持った灯りが祭壇を照らすと、そこには青々としたケヤキの巨木があった。祭壇とはこのケヤキの神木そのものであった。注連縄は掛けられてはいない。橙の光に照らし出され、幹の皮をぬらぬらと輝かせているそれはまるで龍の鱗のようで、ユェは書物でしか知りえぬ獣の体に思いを馳せた。天へ駆け上がるケヤキの龍の体はきっと蛇の体のように硬質でひんやり冷たいのだろうと想像力を働かせ、幹にそっと触れるも、指先からは目立った温度は感じられなかった。その代わり、心の臓が脈打つような振動がどくんと手に返ってきた。

 ユェがケヤキの神木の根に掘られた階段を数段下りると、小さな小屋ほどの広さを持った自然の木洞が広がっていた。闇が深く、灯りなしには立ち位置すら曖昧に感じられて不安を煽る場所だ。その奥に土の重々しい扉があり、ツゥイェが指示を出すと神官が三人がかりで引き開けた。

「ささ、こちらへ」

 ツゥイェは小さな台座に移り乗り、彼を運ぶ人数は半分の二人となった。

「お足元にお気を付けください」

 扉の奥には更に階段が続いていた。台座のツゥイェは神官に運ばれながら台の上を前後に滑るようにして揺れている。台から落ちずに器用なこと、とユェはツゥイェの体勢がいかに均衡であるか、いかに神官たちの運搬技術が巧みであるか感心する。それも束の間、今度は長い廊下に出る。闇はいよいよユェの世界を支配して、もはや後戻りが出来ない深みまで来てしまった。この禳州はユェが幼い頃から育った場所で、あらゆるところを探検しつくしたとばかり思っていたのに、このケヤキの地下道のことは全く知りもしなかった。ただ、神秘的な力を持つ大きな古木があるとしか考えたことがなかった。

「姫神子、しばしお待ちくだされ」

 廊下を少し進んだところでユェはツゥイェに静止された。彼女は是、と答えると暫く灯りが照らす土壁を凝視した。夜目が利かず、どうにも辺りの様子を把握することが出来なかったが、次の瞬間、彼女――正確には彼女たち――を囲むようにしてうっすらと蝋燭の火が点った。

「まあ……!」

 ユェは弱々しい蝋燭の光を辿って周囲を一望する。廊下だとばかり思っていた場所は三歩(さんぶ)ほどの大きさの部屋になっており、中央に大きな台が設けられている。人間が三人は並べるような台に白い絹が敷かれ、さながら広々とした床のようだったが、台それ自体はこの場に自然発生した岩であった。それをこの祭壇を掘るときに正方形に整形したのだろう。

「姫神子様」

 ツゥイェは台の真前で辺りをきょろきょろと眺めるユェに声を掛けた。

「姫神子様はこちらで横におなりください」

「分かった。横になれば良いのじゃな」

「はい。それと事前に儀式についてご説明を。この儀式は再生の儀式でございます」

「それくらい妾も知っておるぞ」

 ユェは台の中央で半身を起こして言ったが、ツゥイェは、念のためにもう一度おさらいをするのです、と続ける。

「このクラの儀式はいかなるときも、天還之儀の秘儀伝承よりも口を堅く閉ざさねばなりません」

「承知しておる」

「秘儀ゆえ」

「秘儀ゆえな」

「いかにも」

「ならば以上で宜しいか」

「いいえ、もうひとつ」

 早く始めよとせっかちに命ずるユェに、ツゥイェは普段と変らぬおっとりした口調で続ける。

「何じゃ」

「このクラの儀式は姫神子様の姫神子たる証を正さなければなりませぬ。儀式自体は我らにお任せください。暗闇に惑わされ恐れを抱くこともございましょうが、どうか姫神子様に於かれましては天の帝の加護がございますことをお忘れなきよう」

「妾は姫神子じゃ。天の帝に証明することなど容易よ」

「それはたのもしゅうございますな」

 ツゥイェは細い眼を吊り上げてほほっと笑った。本心から笑っているようで、ユェは生まれて初めてこの老人の腹の底からの笑いを見た気がした。

「儀式が終わりましたら、姫神子様は奥の扉の先にございます水路を辿って水源を拝み、その後に地上に出られますよう。もう一度地上に己の力で出る、それが再び生れ落ちることとなります」

 ユェは往路とは反対の壁を見る。小さな木製の扉が土壁にひっそりとついている。この先に水路があるのか、と彼女は意外に思った。この先もずっと暗闇と土壁が続いていくと考えていたのだ。

(儀式の最中に水の音を辿ってみようか)

「その後はどうする」

「それで朝までご休憩でございます。ご自身の寝所にお戻りください」

「あいわかったぞ」

「それでははじめましょう」

 ユェが相槌を打つと神官たちがツゥイェを台座から降ろし、彼女の居る台に置いた。ツゥイェは器用に膝から上の足を用いてユェに近づいて来る。同時に神官たちは壁面の蝋燭に向かい、それを懐から取り出した金属の帽子のようなもので消し去った。

――闇が支配した。

 香が焚きこめられ、花の蜜に似た粘着質な甘い香りが部屋に充満した。

 ユェは体のあらゆるところを触り検められた。誰かが覆いかぶさって重く感じることも、くすぐったく感じることも少しの痛みを伴うこともあったが、心は水路に向いていた。早く水路を通って生まれ出でたい。土臭い地下ではなく、耳心地の良い水源の音を聞きたい。そう考えながら彼女は花瞼を閉じた。

(水の音、聞こえようか)

 さらさらと微かに水の流れが聞こえてくる気がする。爽やかな心地にさせる水音と香の甘ったるい香りがユェの意識を深みへと誘った。

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