第6話
何者かに尾行されていることに気付いたのは、帰路も半ばになってからであった。いつから尾行されていたのかは見当がつかなかった。キジルは初め、ユェを心配した神官の誰かが彼の後を着けているのだと考えていたが、そうではないらしい。ユェが去った後も、その何者かは一定の距離を保ってキジルの後を着けて来るので、キジルは不気味に思った。
空は依然として高かったので、キジルが勇気を持って振り返りさえすれば、その正体は陽の元に晒されるはずである。ユェの居ない今となっては、万が一何者かが襲ってきたとしても、傷付くのは己の身のみだ。彼は意を決してくるりを身を翻した。
「君!」
呼びかけに姿を現したのはブルキュット族の少年だった。つい先程、そそくさと逃げ去ったあの少年だ。彼は相変わらず容貌とは正反対に、亡霊のような青い顔に怯えの色を浮かべており、口を噤んだまま藪の中に佇んでいる。
「どうして後をつけたりなんかするんだい?」
キジルはだんまりを貫く少年に訊ねた。不気味に抱いていた不安も正体を見てしまえば霧散したが、どうして逃げるように消えていった彼が己を尾行していたのか些か妙に感じた。尾行せずともキジルは彼と語らってみたいと考えている。それに対し、捉まるまいと心に決めたのは彼ではないか。
少年は悪霊に憑かれた人間のように茫然とした歩みでキジルに近寄った。
「カラ・アットの一番手、お前はよくもあの姫神子と一緒に居ることが出来るな」
彼は酷く忌々しげで、言葉の表面にも不快感が顕わになっていた。宿敵を思って苦虫を噛み潰すような表情のまま、少年はキジルとほんの一間程しか離れぬまでに近付いた。
「ユェのこと? 彼女はいい子だよ。君が思っているのとは違う」
少年がユェを快く思っていないのは一目瞭然だった。その由までは分からずとも、キジルは大切な人に嫌悪を抱いては欲しくなかった。
「姫神子がどこから来たのか知らないのか」
すると少年は唐突に問うた。彼の口の端に笑みが宿る。キジルは不快が過ぎると、気持ちとは裏腹に笑みを宿す人種が居ることを知っている。彼もその一人のようだった。それよりも、彼の言葉には含みがあった。彼はキジルの知らぬ何事かを確信を持って知っているようだった。こ馬鹿にした言い草よりも、彼の知っている“何事か”にキジルは警戒した。ユェを疑ってはならぬ。少年の言葉の裏を勘繰ってはならぬ。むやみに証拠のないことを信用してはならぬ。とキジルの頭の中で警鐘が鳴った。しかし、同時に胸の鼓動が激しくなった。秘められた隠し事を、瘡蓋に爪をあてるように、剥いでしまいたい。キジルは欲求を胸の裡に蓋しながら、少年の挑発に乗るまいと抑え付けた。
「どういうことだ。ユェはここで生まれたんだろう?」
「なら母親は? 父は? 兄弟は?」
「家族は居ないといっていたよ。その言葉に嘘はないと思う」
ユェを信じたく思い、キジルは彼女の話したことを素直に口にした。
「家族は居ない、な。あんた暢気だな。人間が誰の胎も借りずに独りでに出てこられるわけないだろう?」
少年はせせら笑った。彼は、キジルが彼女のことをもっと知りたく願っていることを察知しているようだった。彼は含みを持たせるが、本当に知っていることは安易に口には出さない。そうすることでキジルの苛立ちを煽ろうとしていた。
「何が言いたい」
「あんたは姫神子がどこかの家族から奪われてきたって考えたことないのか?」
「奪われた……?」
「分からないならいいさ」
キジルには見当がつかなかった。彼の言わんとすることと、己の思考に乖離が見られた。内陸の民が海の民に大洋のあれこれを話されているかのように、とんと見当がつかなかったのだ。家族から奪われたって? 一体どこでどう奪うのか、帝国の祭事にそのような略奪が行われるのか、まさか。キジルには妄想話にしか聞こえなかった。
「いずれ穢れる神子だ。いや、周囲の欲望の眼差しによって既に穢れているといっても過言じゃないな」
だが、最後の一言は遂に気長のキジルの怒りに火を点けた。
「訂正してもらおう、ユェは穢れてなどいない!」
「はっ、どうかな。あいつは傍付きの足なしジジイの慰みものになるのを待つだけの女だ」
「でたらめを!」
「でたらめだと思うなら調べてみるがいい。あの爺は姫神子を取って食らうのだけを生甲斐に今まで祭事に尽くしてきたんだからな! 俺たちが姫神子に穢れをうつす? 馬鹿な、姫神子自体が穢れを寄せ付けるんだ! この祭事自体が穢れた思想で作り上げられたまがいものだ!」
少年の背後には憎しみが見えた。キジルには量りようのない、深く暗い夜に似た曇天のように重苦しい憎しみだ。黒い憎しみが少年の胸の裡を腐食して清浄なる心を怒りの錆で埋め尽くしている。彼は鮮烈な怒りを放ちながら、ぼろぼろと錆を零している。故に心が侵食されて痛んでいる。
彼の黒く重い憎悪を、キジルは受け止めることは出来なかった。何故彼がこうまでも天還祭を嫌うようになったのか、ついに本人の口から説明されぬままだ。しかし、一つ確かなことは、彼の儀式の知識は――例え偏ったものだとしても――キジルよりも酋長よりも、恐らく八部族の誰よりも詳しいということである。
「アルトゥンだな」
宿営所で酋長は、困ったものだ、と溜息を吐いた。キジルは夕餉の精進料理を緩慢に口へ運びながら、件の少年の話を酋長にしていた。
アルトゥン。ブルキュットの少年で、見た目こそキジルよりも一つ二つ幼く見えるが、実際は一つ年上である。此度はブルキュット族の朝貢である海東青の逸品を育てたとして、天還祭に招待された。海東青は白鳥や雁を狩ることが出来る小型の雄鷹で、曄の皇帝は代々この雄鷹を愛してきた。過去に海東青を巡って流血の争いを繰り広げたこともあるほどで、よって、祭り毎に貢がれるこの鷹こそ曄国にとっては八部族からの最大の贈り物である。
キジルの父が過去に白い鹿を射たように、アルトゥンの家族も歴代この朝貢を育てるのに貢献してきた名匠であった。
「彼は自身に起きた不幸をどうも天還祭のせいにしている節があってな」
「どういうことです?」
「アルトゥンは幼い頃に二度、親しい人を略奪されているんだ」
アルトゥンが失ったのは彼の実母と従姉だった。
当時は東方の大部族の長が暗殺された時期で、非常に大きな纏まった部族が各々の主張によって細分化を繰り返していた。彼らは曄の傘下に加わる者と己の独立した権利を主張する者らで混乱しており、中には八部族の領域を荒らす無法者の一団もあった。八部族は連盟して東方を警戒していたが、殊にブルキュットは金になる海東青のために、しばしば新たな独立部族とは名ばかりの無法者たちに侵略されることがあった。
その襲撃がこともあろうに、天還祭の最中を狙って行われた。部族の男たちは老人を除いてことごとく曄へ見物に出かけていた。遊牧の部族は曄の女性と違い弓馬の扱いに長けており、幼いアルトゥンの母親も例に漏れなかったが、仲間を庇って負傷したのが切欠で東方部族に略奪されてしまった。男たちが故郷に戻った頃には、ブルキュットの人口は三分の二に減ってしまっていた。
また、アルトゥンが七つになる直前のこと、今上帝が践祚された。それに伴い年号を改元、本来九年に一度の天還祭が新帝のもと、臨時で執り行われる運びとなった。先の祭りの襲撃を受けて、此度は代表を立て、天還祭に参加することとなった。あのような憂き目に再び遭わぬためと八部族が皇帝に願ったのが許されたのだった。今度の天還祭はこのまま何事もなく終わると皆が安堵していたが、旅団が帰路につき、一両日中に故郷の土を踏むであろうその時に事件は起きた。曄の使者が旅団帰郷の知らせを伝言した夜、アルトゥンの従姉が姿を消した。薬効のある花を摘みに宿営所近くの草むらに入ったっきり帰ってこないのだ。彼女はアルトゥンよりも六つ年長だったが、将来は酋長の血縁に近いアルトゥンに嫁すことが決まっていた。アルトゥンは子どもながらに懸命に捜索を願い、聞き届けられて近隣の部族の助力も得て探したが、ある時はたと捜索の手が止んだ。それから彼がどう言おうと大人はぴくりとも動こうとしなかった。
「アルトゥンは母親の時は曄が故意に男どもが居らぬことを東方部族に密告したと考えているし、従姉の捜索が中断されたのも曄が圧力をかけてきたのだと考えておる」
「でもそれは単なる推測じゃないのですか。天還祭とは関係ない」
「そう、恐らく関係ないだろう。従姉については死んだことをアルトゥンに知らせなかったとも考えられるしな。しかしな、どちらも天還祭の時期と被っておるのは事実だ。だから疎ましく思うんだろう。“おねしょと寝冷えは西瓜のしわざ”というやつだよ」
「……西瓜」
キジルが苦い顔をすると、酋長は咳払いをして、
「例えの話だ。そんな顔するな。どちらも直前に食べた西瓜のしわざに違いないと決めつけてしまうことだ。まあ、あまり気にしないことだ」
キジルは殆ど納得していたが、どうにも腑に落ちない点があった。アルトゥンが天還祭の最中に大切な人間を失くし、それを恨んでいることは分かるが、それらは彼にとって両方とも天還祭のしわざなのだ。決して東方部族や無法者、或いは曄の陰謀のせいではない。恨みの矛先は一貫して天還祭に向いており、曄をはじめとする他に矛先が向けられることはない。幼い彼が訳を知らずして祭りのしわざにするのは想像に難くないが、この誤解を成人した今も頑なに、まるで彼自身を戒める縄のように解こうとしないのは愚かではないか。とキジルは考えたが、強情そうな瞳の光を思い返し、人の禍根はそう簡単に溶解するものでもないかもしれぬと改めたのだった。
「……そうだ!」
酋長は無言のキジルを慰めると、思い出したように自身の荷を探る。その中からまだくたびれていない紙の束をキジルに差し出した。
「イェシルからの文が今日届いてな。お前に渡しておこう」
「イェシル叔父さんから? 有難うございます」
キジルは薄い紙の束を受け取り、膝の上に置いた。手紙だ。
「本当に心配性の男だな。お前が可愛くて仕方ない」
酋長が笑うのに合わせてキジルも愛想笑いをした。イェシルのことだからきっと酋長の言う通り健康はどうか、道中危険はないかという手紙だろう。明日が終われば帰路に着くというのに、本当に心配性だ。成人してもイェシルにとっては可愛い甥であり、人生においては経験の浅い若輩なのだ。
キジルは叔父を脳裏に浮かべて心がほんのり温まる思いがしたが、今は手紙を読む気にはなれなかった。
(ごめん、叔父さん。明日、読もう……)
キジルは封蝋を指でなぞると、己の少ない荷の中に手紙を入れ、再びアルトゥンの言葉と彼の心境に思いを馳せた。この夜はそのことでいっぱいだった。
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