第2話
次の月にキジルは大勢に見送られてカラ・アットの宿営地を発った。イェシルは旅先で食べなさいと
キジルは馬車から旅景を眺め、干葡萄を口に運ぶ。たった数日しか経っていないのに、エメラルドの葡萄の舌の上に転がる濃い甘みと微かな酸味が、叔父と暮らした穹廬を思い出させた。
あたりはすっかり草原から石造りの都市に変わっていた。見慣れた穹廬はなく、灰色や赤茶色の石を積み上げて造った家々がまばらに建っていた。
(帝国ってどんなところだろ)
キジルは次々に変わる風景に心を弾ませた。子どもの時に部族の古老の話に聞いた曄の都・
凰都に至るまでに通過してきた城郭に囲まれた町ですら、キジルには想像もつかないほど先進的で、“文明”というのはこういったものを指すのかと、見たこともない食べ物や道具を見ては感動した。
草原、盆地、高地。どちらにしても青々と草の生い茂る原野か、家畜の食い散らかした後のステップ或いは不毛の荒野が広闊と続く風景しか知らないキジルにとっては、都市の物の多さは混沌として見えたが、それは言い換えれば豊富ということであった。遊牧の民は遊牧の過程で余分な荷物は持ってはいけない。カラ・アット族は女もともに遊牧するが、他の部族では女を連れて行けないこともある。だから、キジルには生命維持という意味での生きること以外に、不要なものを持ち、飾ることが出来るというのは一種の余裕だと感じられた。同行の酋長は、混沌とした街並みを二つばかし過ぎた時点で嘆息し、
「年寄りには目が疲れるわ」
と両目頭を指で押さえた。遮るものの少ない草原で長い生を過ごしている酋長にとって街の混雑は実に息の詰まるものだろう。だが、若いキジルにとっては見るもの全てが新鮮で楽しくて、疲れたといっても、遊びくたびれたようなものだった。このように素晴らしい地方の都市よりももっと大きな凰都という都市は一体どのような場所だろう。キジルは期待に胸を膨らませた。
馬車に揺られながらうとうととしていると、酋長がキジルを揺すり起こした。
「キジル、凰都に着いたぞ」
キジルが目を覚ましたのは丁度王都をぐるりと囲む外壁の
「すごい……!」
キジルは感嘆の息を漏らした。だが、凰都には思い描いたほどの混沌はなかった。先に見物した都市と比べて街並みとは随分と整っていて、猥雑さはなく、むしろ上品に落ち着いている。建造物や石畳ひとつとっても、規模が他の街と違い大きく、施工が丁寧に思えた。中央を走る朱雀大道は整然と並べられた巨大な大理石や赤煉瓦で美しく舗装され、道に沿って植えられた街路樹とともに、ぐんとまっすぐに伸びている。朱雀大道の先に赤と黄の屋根瓦を頂いた大きな建物が砂塵で霞んで見え、キジルはそれが王の宮殿だと直感した。
「このまま王宮近くの迎賓館に行くそうだ」
酋長が遠くの赤と黄の屋根を指した。
「王宮へは行かないんですか」
「残念ながら王宮にはそう簡単に入れんよ。それに、天還祭は凰都で執り行われるのではないからな」
「凰都ではないんですか?! 僕はてっきりここでするのだと思っていたのに」
「何だ、イェシルなら知ってるはずなのに聞かなかったか? 祭りは郊外の禳州(じょうしゅう)で行うんだよ」
「禳州……?」
「祭りのための神聖な土地さ」
それはキジルが今まで耳にしたことのない土地の名だった。古老の話にも出てこなかったし、イェシルからも聞いたことがなかった。キジルはイェシルが祭りに行きたいのは、この首都を見たいからだと思っていた。それとも、イェシルは件の禳州を見たかったのだろうか。どちらにせよ、キジルは王都への憧れもあったし、この華やかな都で執り行われる豪華絢爛な祭りを夢に描いていたので、少なからず落胆した。
迎賓館に到着して、館に施された彫刻装飾の美しさに息を呑むや、更にがっかりした。龍と鳳凰が生き生きと柱や天井を舞い、眷属たちが館を火の手から守ろうと木鼻から祝福を捧げている。きっと郊外の禳州では首都・凰都ほどの絢爛さはないだろう。それはキジルだけでなく他の皆々にも容易に予測された。
だが、迎賓館の食事は若いキジルを元気付けるには十分なものだった。こんがりと焼きあがった羊、豚、鳥の切り口から上る白い湯気とたっぷりの肉汁を見るだけで涎が出てきたし、キジルが普段口にする
凰都の晩餐はカラ・アットでの食事よりも海の幸が豊かだ。草原と違って海が近いことに由来するのだろう。草原でも海や川の幸は手に入るが、こんなにも豊富な種類はなかなかお目にかかれない。
曄の、特に凰都風の味付けは何とも言い難い繊細さで、キジルはこれまでにこんな味が舌の上を転がることを経験したことがなかった。都人というのは、まさか毎夜このような料理を口にしているのだろうかと往路の豊な街並みを思い返して疑った。
食事の席にはキジルたちだけでなく、他の部族の者たちも同席した。
晩餐も佳境に入った頃、突然、衛兵が銅鑼を鳴らした。それまでざわざわとそこかしこに聞こえていた話し声が途絶え、全員の視線は入り口近くの銅鑼一点に注がれる。
「
衛兵の声とともに沓の踵を高らかと鳴らして、傍付きの者を引き連れた一人の青年が晩餐の席に現れた。
「酋長、あのひとは?」
「曄で今一番の出世頭だ」
酋長は将軍の登場に起立して、小声でキジルに言った。日に焼けた褐色肌に引き締まった肉体をしており、精悍でどの女も好みそうな甘さがある。鷹のような鋭い目つきは他の者を威圧するような雰囲気だったが、どこか神経質そうでもあった。彼は腰に宝刀と佩玉を下げ、煌びやかな彫金の兜をかぶったまま、宴会場の上座まで歩くとぐるりと八部族の面々を見渡した。静粛に! と部下の一人が声を張り上げると、猛爾元将軍は一歩進み出でた。
「此度は遠路遥々曄への来訪、ご苦労であった」
彼は三十路前後の青年とは思えぬ落ち着き払った態度で、大勢の前で話すことに慣れているようだった。
「天還祭はあなたがたも知り得るところだが、我が曄と八部族連合との大切な、国を挙げた祭事である。帝国と草原の誇り高き部族らの兄弟の契りである。この崇高な契りは遠く天に遍く神々に認められてこそ成り立つものであり、神聖なる秘めるべき儀式である。あなたがたが心待ちにされているこの稀有な機会は、神と皇帝の密約により、口外無用である。慈悲深い皇帝は隠匿を快しとお考えにならなかったがため、天還祭の証人としてあなたがたを招待された。口外すればそれは神のお怒りに触れることとなり、至高の神であり星辰の化身たる今上皇帝があなたがたを罰せねばならぬこととなる。」
将軍の言葉は一介の軍人というよりは一人の宗教家のようであった。彼は誰も疑問を挟まぬよう、間髪いれずに演説し、
「特に血の穢れは真忌むべきであるが故、くれぐれも――、どうかくれぐれも、口外せぬよう」
と、最後に左手で腰の宝刀を持ち上げて見せた。宝刀は皇帝より承ったもので、即ち、暗に口外すれば命はないことを隠喩していた。
「また、禳州には儀式のための
将軍はそうやってもうひとつ、決まりごとを追加した。神子は神であられるから、外の人間が触れればたちまちにして邪気に当てられてしまい、国に大いなる損益を与え得るという。
「神聖な行事に穢れは大敵。何事にも細心の注意を払い、慎み深くあることは誇り高き草原の子孫であれば容易であると信じております」
言い終えると彼は拱手をすることも、八部族の面々を再び見渡すこともなく、入室時と同様に沓の踵を高らかと響かせながら宴会場を後にした。
猛爾元将軍が去った後、中座した宴は再開されたが、最初のような盛り上がりを見せることはなかった。迎賓館の係りの者が口頭で寝室の案内を済ませると、宴もたけなわと言わんばかりに一組二組と徐々に人が減っていった。残るは酒ばかりを浴びるように飲んでいる中年の男たちのみとなり、キジルたちも明日に備えて人影まばらな宴会場を後にして寝室に移った。
蝋燭が寝室の装飾を薄暗く照らし、金箔を施した文様だけが異様な強さで浮き上がっている。派手な木製の寝台は魅惑的な見た目と異なりやや堅く感じた。ふと、猛爾元将軍の言っていた姫神子の存在が気になった。
(口も利いちゃいけないだなんてどんな偉い人なんだろう)
酋長は知っているだろうか。訊ねようとしたが、既に寝息が聞こえたので諦めることにした。偉い人ならば恐らく年寄りなのだろうとキジルは一人天井を見つめながら考えた。
(女の巫子で偉い人なんだから、きっとすごいお婆ちゃんだ)
それ以上考えが進むことはなかった。長時間の馬車旅に疲れ、腹いっぱい食べた身は驚くほどあっさりとまどろみに沈んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます