10 暗躍する偏屈者。 2-休
末が去った後、外からは、雨上がりで増水した川のやや激しい流れが聞こえてきた。
まったくここは退屈でやることがない。未だ曇り空だが、少し外の空気など吸うのも一興だろうか。いや、外に出たところでより一層退屈がひどくなるだけだ。
「博士?」
小さな声に振り向くと、瀬上さんが部屋から顔を覗かせていた。額には少し乾いたタオルが張り付いている。
「む、起こしてしまったか?」
「ええ。博士の笑い声が聞こえたので」
「ああ、それはすまなかったな。まだ顔も赤いようだ。安静にしていたほうが良い」
「いえ、大丈夫ですよ。もう充分休みました。それより、さっき末君の声が聞こえた気がしたんですけど」
「ああ。もう帰ってしまったが」
「そうですか。挨拶でもと思ったんですが。せっかく起きたので、お水でも飲んでから寝ることにします……ふあ」
まだ頭がぽーっとするようで、瀬上さんは扉を半開きの状態で船を漕ぎ始めた。
「ああ、大丈夫だ、水なら私が」
私は、のろのろと車椅子を進ませる。さすがにこのままの状態というわけにはいかないだろう。
しかして、片腕で車椅子を動かすというのはまったく煩わしい。なにせ両輪を片手で動かさなければならないのだ。
こんな脆弱な生物が世界の覇者であっていいはずがない。それでいて中身も下らないのだ、人間はやはり
憂鬱を車輪に食い尽くされつつあると、急にするすると車椅子が動き始めた。
「瀬上さん。私はいい。自分の心配をしてはどうか」
「そんな四苦八苦してるところ、見苦しくて見てられませんよ。それにこれを押すのがわたしの仕事です」
「よくそんなに働こうと思えるものだな。いや、ならばいい。私は部屋で大人しくしていよう」
「博士、さっきじっと外を見ていたじゃないですか」
「見ていたのか。しかし、別に外に出たいというわけではない。退屈に思考ばかりが働くから、頭を冷やしたいと思っていたのだ。それに私は君に水を──むっ?」
額に何かを貼られた。触ってみると……、冷たくなったタオルである。
「私に熱はないぞ」
「ふふっ」
瀬上さんはそれ以上何も言わず、何を言っても聞かず、私を外に連れ出してしまった。冷えた空気に、濡れた額が驚いた。
「頭、冷えましたか?」
「瀬上さん、君はまだ熱があるようだ。頭どころか体が冷えてしまうぞ。もういいから戻ろう。そして眠っているといい」
「そんなにすぐに冷えないですよ。大丈夫」
おいおい、と言おうとして私はハッとした。
これはいい機会ではないか。彼女のこの気まぐれに乗っかり、明日までは学校に顔を出せない程度に体調を悪化させるのだ。
そうすれば、私が説得する労をかけずに、しかも確実に、末との例の共同作戦を実行する猶予が稼げる。
「仕方ないな。瀬上さんの気まぐれに付き合おう」
「どうしたんです? 今日は随分素直ですね」
「人間、病人の言うことは叶えてやろうと思うものさ。人間の善性にとって、……いや、そんなものは存在しないな。正しくは、社会的善性というものにとって、弱者は強者なのだ」
「弱者ですか」
ぽつりと呟く口調から、彼女が気を落とすのがわかった。
「おっと、気を悪くしないでくれ。瀬上さんが弱いと言っているのではない。風邪で伏せっている君は、そう見えるという話だ」
「わかっていますよ。でも、それは同情でしょう?」
「敬っているのさ。日頃の感謝だと思ってくれればいい。我ながら殊勝だろう?」
「ふふ、口が上手いですね。……でも、弱者っていうなら、博士だって同じですよ?」
瀬上さんが車椅子のハンドルをコツコツと叩いた。
「ああ、なるほど、たしかに。これでは弱者同士の馴れ合いだ」
「馴れ合いだって舐め合いだって、私は別にいいですけど」
「瀬上さんは、
「敬っているんですよ。私より年長者ですからね」
「上手いことを言う」
「ふふふ」「フフフ……」
「瀬上さん」
「はい」
「私は、弱者ではないよ。瀬上さん」
「スロープも一人で上がれないのに?」
「ああ。だから、これは馴れ合いでも舐め合いでもない。価値のある気まぐれだ。お互いにな」
「そうだと、いいですね」
「村の人間たちはみな、私に同情しているだろうが」
「そうでしょう。博士はただでさえ体が細いですし、その上今はまともに動けませんから」
「それはそれで構わない。"弱者は強者"だ。肝要なのは、弱者自身が弱者としての自覚を押し付ける圧力に敗北しないことだ。その意味で、私は弱者ではない」
「手足が治った後が楽しみですね」
「そうなると働かねばならんな。なんとか弱者として同情を買いたいものだ」
「言ってること、滅茶苦茶です」
「強かなのさ」
「ふふふっ。でも、働けるようになったら、毎日こうやって過ごすことが出来ます」
「こうやって?」
「二人でってことです」
「そうかもしれないな。しかし、働くのは勘弁願いたいものだ」
「私は働くのは好きです。働いておかなければ落ち着かないという方がいいかもしれません」
「ほう、それは私とはまったく正反対だ。私にはわからない」
「何も考えていない時間が好きなんです。何かをしていれば体の代わりに頭を休めることができるでしょう?」
「随分言い訳がましい労働をするのだな。どうして考えることを放棄するのだ? それは人間の特権だというのに。私に言わせればとかく現実で起こることというのはつまらない。動かすべき肉体は魂の中にこそ存在する」
「ふふ、博士らしいですね」
「私は私なりにこの生き方に誇りを持っているのさ」
「そうですね。そう見えます。でも、わたしは、村のため、人のため、お父さまのため、そして今は博士のためもに働いています。博士を拾ったのも働いていた途中です。そう考えると、労働も悪くないでしょう?」
「そうだな。しかし、それは一方で私が働いていなかったから出会えたとも言える」
「ひねくれ者ですね」
「それは私には褒め言葉だ」
彼女はまたふふふ、と笑った。
最近よく見る、しかしこの2日間ほど見せなかった、人間らしく、かつ貴い彼女だった。
「ところで、瀬上父は今日はどこへ? まさかあの傷で畑作りということもないだろう」
「病院です。通院中ですから。村に医者がいないので、山を越えて隣町に行っているんです」
「歩いて?」
「さすがの父でもそれは無理ですよ。村の人たちに車で連れて行ってもらうと言っていました。帰りは夕方になると思います」
「そうか」
「話の続きは中でしましょうか。わたしも少し寒くなってきました。紅茶を淹れますね」
「何を言う、瀬上さんは部屋で……いや、任せよう。働いてくれたまえ、好きなようにね」
隙間風で中も外も大して変わらないような家に戻ると、瀬上さんは今日はお茶会だと言って私を部屋に招き入れた。しばらくして扉を尻で開けながら自室に入り込んできた彼女は、陶器のティーポットとカップを持っていた。
「冷えましたね。博士もどうぞ」
「では頂こうか」
少し甘漬けされた薄切りのレモンを浮かべ、熱い紅茶をすする。
うむ、スコーンかケーキでも欲しくなる味だ。
そういえば瀬上さんは普段から食事を作っているようだったが、彼女が寝込んでいたここのところの食事はいったいどうしていたのだろうか。まさか瀬上父が?
「いえ、父は料理なんて出来ません。毎晩誰かからお料理をもらってくるんです」
「他力本願ではないか。紳士らしくもない」
「いえ、父からいただきに行くことはなくて。村のみんなが持ってくるんです。おせっかいですよね、みんな」
「なるほど、だから瀬上父は料理を覚えないというわけか」
「料理と言えば、父も怪我で猟が出来ないので、しばらくお肉を食べる頻度が少なくなってしまいますね……」
「肉なんて、買ってくればいいだろう」
「どこでですか?」
「どこでもあるだろう、スーパーでもコンビニでも」
「そんなものありませんよ。精肉をやっている人はいますが、店長さんがお年寄りで、最近はいつも品薄状態なんです」
「なるほど。正真正銘のド田舎だな。しかしそうなると、風邪が治って普段の仕事に戻っても、父君の怪我が治らないことには肉にもありつけないな。働く気概も損ねよう」
「何を言っているんですか? 父が働けないならわたしが代わりに働くしかないでしょう。勝手を言って休んでいる暇なんてありませんよ」
……何を言っているのか、というのはこちらの台詞だ。私には彼女の言ったことが更なる労働に納得出来る理由とは思えない。たかが身内の尻拭いを、なぜ自らしようというのか。
「ということは、しばらく学校も畑仕事も家事も全てこなすというのか?」
「そうなりますね。はい、お茶、おかわりどうぞ」
「これはどうも。しかしそれでは、父親が治るまで随分苦労が絶えないな」
「博士の世話もありますからね」
「おっと、これは」
「わたしだって本当は面倒なんですよ? 早く自分で生活出来るようになってください」
「いつも苦労をかけさせて申し訳ない。まだ風呂にも入れないくらいだからな」
二人で同時にカップに口をつける。
一瞬会話の隙間が出来ると、川のせせらぎがひときわ大きく聞こえた。
「……そういえば、どこで私を拾ったのだ? ボロ雑巾のようだったはずの私を拾った理由も聞かせてもらいたいものだ」
「博士が倒れていたのはそこの川の上流です。大きな岩の上に転がっていたんですよ。放っておけば死にそうだから持ってきたんです」
持ってきたとはぶしつけな言い回しである。
「それだけか?」
「え?」
「死にかけの人間にしても死体にしても、見かけたらしかるべき所に連絡するのものなのではないのかと思ってな。そうしなかったのには何か理由があるのだろう?」
「ああ、それは思いつきませんでしたね。どちらにしても電話は家まで戻ってこないとありませんでしたから、あまり変わらないですよ」
変わらない、ということはないと思うのだが。
瀬上父も何も言わなかった所を見ると、彼らは本当に通報という方法は思いつかなかったのだろうか。確かにこんな山奥にまで警察が入ってくることはそうそう無さそうだが。
「しかし川で拾われたからと言って、残念ながら私は鬼退治など出来ないぞ」
「ふふ、博士は本当に気取り屋ですね。鬼退治はともかく、動けるようになったら博士にはわたしの分の畑仕事をお願いしたいと思っています」
「むう、あらためて言うが、本当に私に働けというのか」
「最初に父と約束していたじゃありませんか」
「それはそうだが」
彼女の苦労を知って尚、この手で彼女を手伝おうなどという殊勝な考えを肯定できない。
私は社会に屈しないため、醜い存在の圧力に
「何かお茶請けが欲しいですね。待っててください。前にリューさんに貰ったお菓子があったと思うので、持ってきます」
もとの寒さに加え、先日の雨で一層冷えた窓の外を見やる。山の黒い木々を見ていると、たまらなく陰鬱で、ある種啓蒙的でネガティヴな考えが頭を巡る。
どうして土でさえ雨が降れば固まるというのに、愚かな人は幾度もくぐった雨を意に介さず一向にその精神を固めないのか。人に関わってからというもの、私はロクな目に遭っていない。
いや、単に人ならまだ構わないのだろう。だがやはり、集団となると、そのグロテスクさに私はやられてしまう。どうしても耐え切れない。
私が潔癖なのではない。他が汚れることに妥協し、慣れ、果ては汚物になってしまっているのだ。誰が好き好んでこんな世界に生きようというのか。
私を迫害する彼らは私にとって笑いの種だ。
兄弟に説くことも自らの高みから下を見ることもない。人間を悟りながら自ら没落することなど、私にはとうてい出来ない。そんなこと、理性が既に反発している。私はただの人間なのだ。
嫉妬と偏見の針に刺されるのは勘弁願いたい。まして私はハエ叩きでもない。私は彼らを無視していればいいのだ。それで全てが上手く行っていたではないか。
少しして、瀬上さんは薄黄色の生地に紫紺のベリーが入ったスコーンを、果肉の形がやや残っているジャムと一緒に持って来た。いいチョイスである。
「どうぞ。また少し冷えてきましたね」
「もうそろそろ夕刻だ。冬は空が美しいものだが、ここは星もあまり綺麗には見えないな。山が近すぎる。あの山は夜になるとまるで闇だ。空を食む得体の知れない生き物──まるで人間のようで吐き気がする。折角の田舎空が台無しだ」
「村の大人たちはよく外で月見酒をしているようですよ」
「ああ、月の眺めは良さそうだ。山の向こうから登る月は瞼を開いていく様子に似ている。あるいは咲こうとする華のようにも。その不気味さは確かに闇に相応しいかもしれない。開いた目にも咲いた華にも興味は無いが、それが月だったなら、背徳の魅力を感じるだろう。
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