14 退屈な日常。
「まさか本当に朝から飲むとは思っていなかった」
「うひひ。今日は相手がいてよかった。せっちゃんは真面目すぎるんだ」
現在、午前5時台である。私と斉藤氏は、畑の縁で焼酎を頂いていた。
「聞こえてるぞ、斉藤」
そして畑では、瀬上父が収穫作業をしていた。彼は私を瀬上宅から二十分ほど離れたここまで押してきてくれた後だが、元気なものである。
他にも幾人かの村人が手伝いをしに来ているようだ。私の悪い目を細めて見るに、どうやら女性が多いようだ。
「野菜は朝の内に採った方が新鮮に出荷出来ると聞く。大根も同じではないのか? 斉藤とやら」
「おいおい、坊ちゃんまでそんなこと言わないでくれよ」
それにしても、瀬上さんの話は本当だったようだ。紳士は、普段から呼び捨てにするこの斉藤という人間の下で、文句こそ言えど本人以上に精を出して働いていた。
きっと他の農家のところへ行っても同じなのだろう。村人からの信頼は、こういった積み重ねの賜物と見える。
「斉藤氏。おかしいとは思わないか。あそこで他の誰よりも正確かつ機敏な動きであんなに大根をポンポンと抜いているあの紳士は、僅か一月前に銃で撃たれた人間だぞ。一体どういう体をしているのだろうな」
「本当だ。あれじゃ獣と間違えたヤマさんを責められないねえ。くひひ。ところでどうだい、朝の酒は頭が冴えるだろう」
「いやまったく痛いほど冴える。半ば強制的に付き合わされる身にもなってもらいたい。あなたを見かける時、その脇に酒が無いことがない。この前瀬上宅であなたを見かけた時もそうだった」
「年寄りにはこれくらい刺激が無いと退屈で死んじまうんだよぉ、坊ちゃん」
朝食の時瀬上さんが「飲み過ぎ」と言っていた意味がやっとわかったが、まあこの様子では改善は見込めまい。
「おい斉藤、いい加減にしろよ。今度こそカミさんに言いつけるぞ」
「おいおいせっちゃんそれは勘弁してくれよー。せっかく今日はあの口うるさいのは来てないのに」
午前中、最後には斉藤氏も加わって、日が昇って数時間の間にはどうにか大根の収穫は終わったようだった。
私はしばらくその様子を見ていたが、みな一様に腰を曲げて単調な作業をしているばかりで面白みは何も無く、退屈から途中、うつらうつらすることも幾度となくあった。
いずれあんな作業をしなければならないと、考えただけで鳥肌すら立とうものだ。
そう考えると、斉藤氏の言い分にもややの賛同を禁じ得なかった。確かに退屈であろう。おまけに重労働である。
絆らしい結びつきがある彼らには疑問も無いのだろうが、その作業は単純作業・反復作業・ノルマあり。まるでモダン・タイムスである。これでベルトコンベアでもあれば完璧だ。さぞ楽しかろう。
採れたものは軽トラック数台が数往復して持っていくらしい。これから帰って選別やら何やらと、まだ作業が残っているそうだが、正直なところ、私はもう参っていた。
「坊ちゃん、何もしてないのに疲れてるねぇ。さっきからため息も多いし」
最後のトラックに大根と一緒に乗り込むと、頬を上気させた斉藤氏が肩を揉んできた。この馴れ馴れしさには田舎臭さでも感じればいいのか。
「さあな。きっと酒のせいだ」
「ロシア人だって寒いからウォッカを飲むんだろう? いいじゃないか」
「別に極寒の夜に外で寝るわけじゃないだろう。それに露人もさすがに仕事前には控える」
「いやいや酒を舐めちゃいかんよ。意外と仕事させてくれるもんだ」
「まああんな単純作業を素面でやれと言われたら御免こうむるのは確かだが」
「そうなのよ、わかってくれるかい坊ちゃん! もう何十年も続けてるとねえ、嫌になってくるよ。大根農家なんて大抵大根嫌いだからね、多分」
「とすると斉藤氏、あなたは仕事をするために仕事をサボっているのか」
「おお、いいこと言うじゃないか坊ちゃん。そうさその通り!」
「やはりあれはサボりなのだな」
「あっ」
「ふふ。一つ聞きたいのだが、自分の畑だというのに瀬上父の方が手馴れた様子だったのは気に障りもしないのか」
「ん? いや、知らないな。そうなのかい」
「気に留めてもいなかったのか。まあいいさ。ところで斉藤氏は大根農家なのだな」
「今はそうだなあ。向こうの畑ではビートもやってるよ。収穫を終えたら今度は麦か豆だ」
「休む暇が無いな」
「いやいや、休みは長いよ。うちは人を雇ってるからね。公務員より簡単に休んでる」
「確かに。公務員の朝に焼酎は無い」
「うひひひ、そりゃそうだ!」
酔っぱらいに皮肉は通じないようだ。
「しかしそれにしてもウォッカでは説得力が無い。確かに焼酎は同じ蒸留酒だが。シエスタの時間帯に飲むというならまだしも朝っぱらでは」
「そうかい? とすると坊ちゃん、何か良い言い訳は無いものかね」
「そうだな……。まずは斉藤氏の酒への考え方から変えねばならんだろうな」
「ほほー」
「いいか、酒というのはな、思われているような怠惰の象徴というだけではないと思うのだ。先も言ったように──」
────
荷台で揺られること二十分ほど。
私たちは、斉藤氏の自宅兼作業場に到着した。
実を言うと斉藤氏が畑に入った後も退屈からちびちびと残った焼酎をひっかけていた私は、ややというにはいささか酔いすぎており、トラックが止まっても振るい続けた熱弁に、斉藤氏は大声を挙げて笑い、それに私はますます調子づき、語りは深くなっていた。
役立たずは隣り合わせてはならないということだ。
選別と雑処理作業は夕刻前にようやく終わり、私たちは帰途についた。一番元気なのが一番働いたはずの瀬上父であることは今更であるとして、最も疲労していたのは私であった。
仕事場で仕事をするのと仕事場で仕事を傍から眺めるのとでは疲労はそう変わらない。それが肉体的なものか精神的なものかの違いだけである。
気だるさが私を生ぬるく包み込み、もう土も野菜も見るのが嫌になった私は目を瞑っていた。
「ぼうず、今から疲れていても仕方ないぞ。明日もある」
「もう大根は勘弁してくれないだろうか」
「坊ちゃん、明日はビートの方だよ」
「また土か。もううんざりだ」
「そうだよねぇ。まあ飲んで忘れよう。な?」
「斉藤」
「いいじゃないかい。酒は貢献した人間に貢献する甲斐甲斐しくて社会的な存在なんだよ。麻薬とは違ってさあ」
斉藤が指を振って紳士に語りかける。
「ぼうずがいらん知恵を吹き込んだな」
「紳士、斉藤氏の言う通りだ。それに、瀬上さんの料理があれば酒も美味かろう? 昼の弁当もなかなかだったじゃないか。特にあのクロケットはいい揚がり具合だった。そういえば朝、斉藤氏が来るだろうことを彼女は予想していたじゃないか。瀬上さんなら何か用意してくれているだろう」
「それは本当かい! いやあそれは嬉しい。いつももてなしが良いのはそういうわけだったんだね、せっちゃん」
「……まあいいだろう」
「よしよし。なあ坊ちゃん。前の時はあまり喋る機会が無かっただろう。今回は人数も少ないし、もっと語り合おうじゃないか。トラックで聞いてた分には、坊ちゃんの話は面白そうだ」
「それはどうも」
「おい、あまり余計なことを吹き込むなよぼうず」
「私は余計なことは語らない。元来口数は少ない方だ」
陽は落ちたもののまだ早い刻、私たちは宅に帰った。
瀬上さんも帰ってきたばかりらしく、制服姿のままでいた。少し遅い帰りの理由は、他の農家を巡ってきたかららしい。台所にはその土産らしき食材たちが少なからず並んでいた。
「……大変だな、貴女も」
「まったく。お酒がそんなにいいんですかね。ねえ、斉藤さん?」
「まあそう言わないでくれよぉ。唯一の楽しみなんだから」
「ずっとこんな調子なんですよ」
「大変だな」
「せっちゃん、ぼうず、少し飲まないかい」
「すまないが、少し休ませてもらう。夕飯が出来たら起こしてくれ」
「私も手伝うことが出来ないからな、邪魔にならないよう少し眠っておく。少々疲れた」
「斉藤さんも休んでいてください」
「いやいや、ここで飲むよ。まだ眠くもないしね」
「いやほら、邪魔ですし」
「かー、そう言われちゃしょうがない。まあ一人で飲んでもあれだしな。せっちゃん、ベッド貸してくれよ」
「お前のは外だ」
「まあそう言わずにさあ……」
二人が肩を組み言葉を交わしながら奥に引っ込んでいくのを瀬上さんが愛想笑いで見送っている。
自室に戻った私の気分は、今日見てきた畑仕事を思い出すとずんと重くなった。
今日の仕事は、まだ楽な方なのだろう。極端に早い時間からの作業でもなく、収穫以降の作業のみだった。
しかし私にはあれで限界を超える範疇であることは明白だ。わかってはいたが、なぜ私が肉体労働など。ああ忌々しい。
自然の実りなどと綺麗な言葉で済ますのは簡単だ。しかしその実どうだ。やはりあれは地獄だった。あんなところではどんな思考も働かない。気が狂ってしまう。加えて単純作業と反復作業。同じことを何度も何度も……。
見ているだけで吐き気がしたものだ。これは決して酒のせいではないだろう。あの畑の土を私が踏んでいる姿など、到底想像できない。
食料など、農業など、どこかのプラントで全自動で作ってしまえばいいのだ。それをあんな、労働労働労働労働……。
一度苦言を呈しておいてなんだが、斉藤氏の反応が至極真っ当に思えてきた。一方でその兼業を生業とする紳士など、同じ人間とはもはや思えない。
気を紛らわそうと本を読んでいると、日が暮れて後、お呼びがかかった。夕飯、というより晩酌の時間である。
ダイニングに出ると、斉藤氏と瀬上父は既に着席していた。斉藤の方は充満するガーリックの程よく焼けた匂いに、鼻をスンスン鳴らしていた。
「随分楽しみにしているようだ、斉藤氏」
「坊ちゃん。よく眠れたかな?」
「いや、心配事でそれどころではなかった」
「ああそれはいけない。飲まなければ」
「いや、私は別段好きというわけでも強いというわけでも──」
「平気平気。強くないのは一緒だからさ。それにこの香り、コイツに合うとは思わないかい」
「なぜ食卓にウォッカが最初に上がっているのだ……。まさか朝の話からではあるまいな」
「そのまさかさ。ウォッカの名前を聞いた途端に飲みたくなって、でも今まで我慢してたんだ。良いじゃないか」
私が席に着くと、瀬上さんが特にものを言うでもなく──顔はやや呆れたようでも諦めたようでもあったが──料理を運んできた。長さが掌ほどの朱い海老が、腰を丸めて耐熱皿のオイルに数尾浸かっている。
他にも、ひき肉の多い濃い色のミートソースがかかったペンネと、薄く切った肉と角になったトマト、レタスかルッコラの緑に彩られたカルパッチョサラダもあった。
「しかしそれをストレートで飲むのか? 私は遠慮したいものだ。それとウォッカは冷凍庫で冷やしておいた方がいいぞ」
「さっきまで冷やしてたさ。まだキンキンだ。いやどうせ冬なら、それなりの楽しみ方をしないとという思いもあるんだよ」
「紳士よ、他に無いのか」
「リューさんに貰ったものがいくつもありますよ。お父さまは一人では飲みませんから」
「しかし斉藤は持ってきた酒を断ると面倒になる。それで私はいつもそこそこに付き合わされるんだ」
この二人にまともに付き合ってもいいことは無いだろう。なにせ頑強な体力持ちと
「それにしても、この立派な料理を前に
「オレンジジュースも貰ってありますよ」
「ああ、ではその辺で手を打とう。頼めるだろうか。交互に」
「はい」
「よし、決まり! さあ、では頂こう。いやあ嬢ちゃんの料理はいつも綺麗なもんだねえ。カミさんにも見習って欲しいわ」
一人盛り上がる斉藤氏をよそに、私の気は瀬上さんの表情に注がれていた。彼女はこんな席を楽しいと思うのだろうか。
酒ではなくミルクなので当然一人素面であること、むさ苦しく男三人の脇であること。気を使わずにはいられない。
食卓の全てを用意した彼女にその感謝と敬意を込め、私は他の二人よりも先に瀬上さんと乾杯した。
「博士、お味どうです? ミートソースに使うトマトの量を少なくしてみたんですが」
「美味しいよ、嬢ちゃん!」
「斉藤さんの舌はあてにならないんですよ。それだってお酒の感想じゃないんですか」
「ああきっとそうだ。もうショット二杯を飲んでしまっている。それは三杯目だろう」
「ははは」
「いつもこの調子で最初に倒れるのはこいつなんだ。たちが悪い」
「そういう紳士も二杯目だ」
「む」
「ふむ……、美味い。だが私には少し濃い。オリーブオイルかチーズをひと振りもらいたい、といった感じだ。いや、酒には濃い方がいいのはわかるが。なあ斉藤氏」
「うん、これぐらいでちょうどいい。美味い! ところで坊ちゃんはいつから働くんだい」
「ああ、その話はしないでくれ。まだ今は怪我が治っていないのだ。丁度いい気分になってから話そう」
そう言ってスクリュードライバーを口に含む。
実を言うと、私の労働への決心はあっけなく揺らいでいた。目にした畑仕事の光景が、そしてその時の
──しかし。思い返してみれば、私がいつ「働く」という決心をしただろうか。私がしたのは、労働を捧げるという決心だ。瀬上さんへの献身だ。
労働の忠を何も労働自体に捧げることはない。常々思っていたではないか。労働のための労働は停滞だと。頭が体と繋がっていることを忘れてはならない。思考のための思考も同じく停滞なのだ。
私は幸運にもそれを脱する機会に恵まれている。しかも忠と扶助、あるいは救いを一辺に叶える美しい形で。やるべき仕事か否かは唯一この美しき献身に適った手段かどうかだけで判断すればいいのだ。
「坊ちゃん、どうした?」
「いや、なんでもない。少々心を奮い立たせていただけだ。ところで斉藤氏、あなたは飲んだくれながらも立派に働いているわけだが、ぜひその理由を教えてくれないか? 私にはこの問題が長らく片付いていなくてね。参考にしたい」
「お? ひょっとして坊ちゃんはあれかい? ニートなのかい?」
「違う。一緒にしないでくれ、この酔っ払いめ。急に飲みすぎだ」
ショットを斉藤氏の手から取り上げて
「うう、きつい」
やはり焼酎とはわけが違う。自分の甘いグラスでウォッカの後味を消す。よく考えれば酒で酒を洗っているだけだが。料理の塩味で口を洗うとしよう。
「うひひ、人の酒を飲むからそうなるんだ、坊ちゃん。──そうだなあ、まあうちは農家だし、そういうのは特に考えたこともないね。そりゃもう若い時から働いてるから、体に染み付いてるんだなぁ」
「辞めたいとは思わないのか」
「辞めるか、そりゃいい! うひひ、楽になるな! カミさんに仏さんにされちまってな!」
「家族一族のため、ということか」
「いや、ぼうず、コイツはそこまで考えてはいないな。本人の言う通り、考えたこともないと思うぞ。農家は仕事というより生活だからな」
「なるほどそう言われると納得する」
「よっ、さすがせっちゃん! 話がわかる!」
「私は翻訳士ではないんだぞ、斉藤。お前は先から酒しか飲んでないじゃないか。胃に穴が空くぞ。ほら、野菜だ野菜」
「しかし、若い頃にここを出て、農業ではない他の華々しい仕事を目指したりするのが人生もあっただろう。そういうことはなかったのか」
「全く無いね。学も無いのにそんなの無理無理。あ、でもコウさんは確か帰省組だったよな、せっちゃん」
「ああ、そう聞くな」
「まだ若い頃に会社が倒産して、この田舎に帰ってきたんだろう? あの人は何も言わないけど、きっと苦労したんだろうね。農家の修行だって帰ってきてからやったとしたら、これは波乱万丈かね」
「それは是非話を聞きたいものだ。前の月末会で見かけた気もするな。次も来るだろうか」
「ああ、来るだろうな」
「みんな仕事より宴会さぁ」
「呑気なものだ。瀬上さん、次のグラスを頂けるだろうか」
グラスを受け取った瀬上さんがキッチンに立ち、飲み物を作り始めた。
「そういえばせっちゃん、傷はもう平気なのかい」
杯を重ねながら斉藤氏が訊いた。いつの間にかその手に握るのがショットからグラスに変わっている。一方で皿はほとんど汚れていない。
「銃槍はとっくに塞がっている。痛みも無い。平気だ」
「かー。ホントに頑丈だねぇ」
「本当にな。車椅子など提供しなくてよかったかな」
「あれはヤマにも悪いことをした。本人は何も言わなかったが、あれは私が悪いんだ。勝手に先走ったんだからな。実はあの時、二人で競争をしていた。功を焦ったというわけだ。それでうっかり射線に入ってしまったとか、そういうことに違いない」
「あれは痛いのかい?」
「ああ痛い。
「おいおいやめてくれないか。赤いカクテルにその話題では飲みづらい」
瀬上さんが持ってきてくれた赤い
「そういえば撃たれた時、せっちゃんは血だらけだったなあ」
「やめないか」
「ははは」
「その時一番落ち着いていたとヤマから聞いた。今更平気だろう?」
「平気なものか。私も完全に平静だったわけではないのだ」
その晩は始終こんな調子──つまり、斉藤がなにかと私をからかい、私が呆れ、紳士が間をとりなすという調子だった。
しかも斉藤を筆頭とした私たちの酔い加減に比例してエスカレートしていった。きっと終わりの方には下品な酒場でそうするように、分別なく喚いていたに違いない。
というのも、斉藤のペースに引きずられてか、あの後の仔細を私もよく憶えていないのである。記憶に残っていたのは、料理の印象くらいのものだった。
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