13 傲慢に墜ちた偏屈者。
僅か一ヶ月ほどの間だが、家での瀬上さんを見ていて感じたことがいくつもあった。
この短い期間で偉そうに語る資格は何もあり得ないのだが、ともかく私は彼女の背負うものたちを見て言わねばならないことがあるように思うのだ。
まず、彼女の苦労は一日も絶えることがない。
炊事・掃除・洗濯などの家事を一人でしていることは知っていた。早朝、瀬上父が出かける前よりも早く起きて朝食を用意し、それより随分遅く起きてくる私にも、料理が冷めてしまわないよう改めて料理する、というところから彼女の朝は始まる。この時、居間でうたた寝している彼女など見たことがない。
彼女はいつでも少しの笑顔をこちらに向け、「朝食にしましょうか」と聞いてくる。ちなみに彼女の朝食は私と同時刻にとると決めているようだった。
私はそれから図書館から持ち込んだ本を少しずつ読み進めるのだが、彼女は朝の内に家事を済ませ、父親の畑に行く。つまり、朝から山を登るというのだ。
また聞くところによると、彼女は朝を畑を耕して過ごし、昼は父親の働く農家のところへ出向いているらしい。若さ、というだけではとても補いきれない労力を消費し、あまりに離れた年代の人たちとの触れ合いに気苦労も絶えないことだろう。
彼女はどこで自分を癒しているのだろうか。疲れたであろう彼女は夜になっても安寧と過ごすことが稀だ。夕方に帰ってくる瀬上さんは、車椅子で不便な私を風呂に入れるという仕事をしていた。
それが終わったと思いきや、次は夕飯の準備である。ここで問題となるのは、瀬上父が二日に一回程度のペースで農仲間を家に連れてくることである。瀬上さんの仕事は最低でも一人、多いときは十人前後分増えるのだ。
料理もさることながら、彼女はほぼ全員分の話を聞いてやる。そして彼らが酔いつぶれた後にただ一人片付けをし、出来るだけ全員を自分か父親のベッドに運び、彼女は居間の椅子で、一番最後に寝るのだ。そしてその疲れはどこへやら、また早朝から誰よりも早く動き始めるのである。
彼女は以前、父親の体力を「呆れる」と評したが、彼女のそれも充分呆れものである。
学校が始まってからも、農作業を手伝う時間・頻度こそ減ったものの歳不相応な働きぶりであった。あれでは学問などとてもしてはいられまい。
あまりに異なる彼女の感性に惹かれていた興味は、しだいに彼女の精神の方へと誘われて行っていた。
私は瀬上さんとのあの短い問答の後、ついに労働を覚悟したのである。
それは以前の私にとっては非対称な暴力にも等しいものだったが、私が突き落とされたのは敗北でも絶望でも、まして地獄でもなかった。一筋の光る道である。
相変わらず労働への忌避感は私の中で強大だが、彼女が肯定した労働の理由を、その切れ端でも見つけた気がしたのだ。それは奉仕といっても過言ではない。私に植えつけられた神聖の種がそう仕向けようとするのだ。この種が芽吹く時が、私には楽しみである。
「博士、危ないですよ」
と同時に、だからこそ自分のこの現状が腹立たしくて仕方がない。
瀬上さんの休暇が終わった頃、医師の診察や軽い手術を受けた後、私はリハビリ期間に入っていた。
リハビリを始めたのはいいのだが、骨折した両足の上、同じく骨折で片手しか使えない。松葉杖は二本あったが、数歩も歩くことが出来ない。一週間かけて得たのは、自力で車椅子に移れるようになった程度の僅かな進歩であった。
おまけに目はろくに見えはしない。家の中でも歩けば簡単につまづいてしまう。
「ほら、無理してないで早く車椅子に戻ってください」
彼女の手によって車に戻される。
この事態はどうにかしなければならない。私が瀬上さんの手を煩わせてどうするのだ。
ベッドに戻ると、瀬上さんの説教が続いた。
「博士、歩くのはまだ先です。まず腕の方を治すように言われたのを忘れたんですか」
「……そうだな」
「まず杖を使えないと駄目ですからね。博士が働くと言ってくれたのはありがたいですけど、今はまだ無理です。安静にしていてください」
「……いや、まあ、その通りだ」
「なんだか焦っているようですが、なにかありましたか?」
「うむ、まるで地獄で夢を見ている気分だ。それとも天国で悪夢を見ているのか。ともかく歯痒い。まったく情けない」
「とにかく、まずは腕を治してください。焦っても博士はまだ役に立たないんですから」
「朝の説教もなかなか身にこたえる」
「ふふ。今日は学校、一緒に来ますか?」
「行きたいと言えば貴女は私を押すだろう、それは駄目だ。そんなことは末あたりの仕事なのだから」
「わたしは構いませんよ」
「貴女は自分の労苦を自覚すべきだ」
「もちろんわかっていますよ。でも博士も大変なんですから」
「だから当然の助力だと言うのだろう? 君は」
自分の義務を、やらなければならないという義務感を以て遂行出来る人間はいても、当然の「すべきこと」として捉え、しかし同時に特に意識することなく行動出来る人間はそういない。
「朝食どうします? お父さまが起きるまで待ちますか?」
「いや、もう頂こう。あまり待たなくとも、あの紳士はすぐに起きてくるのだろう?」
「じゃあ持ってきますね」
「いや、食卓で大丈夫だ」
「そうですか。でも博士、朝から動いて少し汗かいてます。着替えないと風邪ひきますよ」
「ああ、着替えたら行こう」
「手伝いましょうか」
「いや、構わない」
では、と小さく首を傾げ、瀬上さんは家中に漂っている香ばしい香りの発生源へ向かった。実に腹を鳴らす香りだ。
瀬上さんに譲り受けたスウェットとパーカに着替え食卓へ行くと、瀬上父が娘の方をぼーっと見ながら席に着いていた。まるで匂いに誘われて眠気を引きずってきたようである。
思うに瀬上さんはこれを見越して毎朝料理しているのではないだろうか。
「エールを持ってきてくれ」
「お父さま、この後お仕事するんですよ」
「む……」
寝ぼけた様子だが、この小麦の香りを嗅げば、紳士にやや共感するところもある。
「博士、カフェオレ飲みますか」
「うむ」
「私にもくれ」
三人でリボン状にひねられたプレッツェルの肌を撫でる。
「お父さま、今日はどこに行くんです?」
「斉藤のところだな」
「ということは、泊まりですか」
「いや、今日は帰ってくる。収穫で夕方まで飲む暇が無いからな」
「じゃあ家で飲むんですね」
「……まあ、そうなるだろう。斉藤だからな」
「あの人はいい加減お酒を控えるべきです」
「一昨日は夜まで飲めないから朝飲みませんかと言ってきたぞ」
「まさか付き合ったんですか」
「断ったよ。……斉藤は一人で飲んでいたがな」
「ところで、私は連れて行ってもらえるのだろうか」
そう言った途端、紳士がサラミの胡椒を吸い込んで咳き込んだ。見ると、その隣で瀬上さんも手を止めて怪訝な顔をしていた。
「博士、どうしたんですか」
「どうとは?」
「ぼうずは畑を見ただけで顔を青くしていたではないか。それが急について行くと言うのだ、驚きもする」
「朝早くからリハビリもしてました。変ですよ」
「変とは心外だな。ともかく私を連れて行ってもらえないだろうか」
「少々気持ち悪いが、働きたいというのは悪いことではない。娘よ、車椅子に油を注してやっておいてくれ」
「わたしも行きましょうか」
「お前は学校があるだろう。……それとも、行きたくないわけでもあるのか?」
紳士はチラリと私を見た。
「いえ。じゃあ博士、昼食はお弁当ありますからお父さまと一緒に農家の皆さんの所でちゃんと食べてくださいね」
「働かざるもの食うべからず、と言うが?」
「あれは間違いですよ。だって、食べないと働けないでしょう。それに、博士はこれから働こうとしてるじゃありませんか」
「では、わたしはそろそろ行ってきますね」
「……紳士よ、気づいているか。私の弁当を作る分、彼女の起床時間は一〇分ほど早まっているように思う」
「そうか」
この紳士は特に心配する様子もない。彼女の労苦に関心など無いのだ。彼女の義務がどうして彼女によって担われているのかも知らず、その労苦をさも当然のように看過している。
ならば私だけは、彼女を救わなければならない。
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