1 厭世家の1日。
いつもの部屋で、いつものベッドで、いつもの朝に、いつもの時間に目を覚まし、シャワーを浴びる。
最後に切ったのはいつだかもう覚えていない髪はタオルで拭いただけではそう簡単に乾いてはくれない。
濡れた髪で目玉焼きを作り、カップ味噌汁にお湯を注ぐ。昨夜の内に炊飯を予約しておいた炊飯器を開け、白い米を茶碗につぐ。これらは全て生協の配達とネット通販で買った品である。断じて外で買い物したものはこの部屋には存在しない。
多くの人がそうであるように、朝食を終えた後の決まったルーチンが私にもある。まずは読書だ。
本はいい。小説でも詩でも哲学書でも評論でも、そこには人の思考という、目で見、耳で聞き取れる範囲の世界よりも余程広大な世界が広がっている。
人と話さなくとも人の考えを知る方法の一つとして、私の貴重な対話を本の世界で繰り広げる。そこでは、人が口に出して話すよりもずっと、高度で繊細で、思慮深い話を聞ける。
なにより彼らは私を否定も肯定もしない。
そして、世の中を盛大に皮肉った小説や、著者が晩年の諦観と後悔を込めて書いた詩などは痛快である。同意に次ぐ同意、この人はわかっている、そうなのだ、結局そうなってしまうのだ、といった感覚が連々と訪れる。
私は誰とも言葉を交わさないが、この読書の週間のおかげで、言葉を忘れることはないだろう。携帯電話やパソコンに頼りきっている連中よりもよほど言葉には自信がある。
キリのいい所まで読むと、起床時間が少し遅いこともありおよそ昼間になっている。
三分の一ほど呼んだ本を、机の上に積み上がった本の一番上に置き、次は昼食の準備をする。昼は大体、麺である。貧乏人、吝嗇家の味方だ。
茹で上がった生そばをずずず、とすすると乗せた刻み海苔が薫り、つゆの味が喉の奥に沁みる。
次にやるのは、仕事である。いまどき、仕事などどこに所属せずとも部屋を出ずとも出来るものだ。
私の仕事は、
パソコンを立ち上げ、株の変動を読み取っては売りや買いの注文を付けていく。もはや習慣となってしまった今では、特に何も意識せずとも機械のように手が動く。
休憩には、ゲーム機を手に取る。
イヤホンを耳から、視線を本や株から外し、発売されたばかりのゲームを起動する。私はゲームを退廃的だと古臭く決めつけた考えを持つ類の人間も嫌いである。
たしかに人を銃で撃ち殺したり惨殺していくものにはほとほと呆れる──何が楽しいのやら──のだが、私の好むのは物語の素晴らしいものだ。
創作物語という意味では小説と似た性質のもので、学ぶことは少なくない。これを無駄だと言うのは無知、無理解、笑止千万。人は審美眼を鍛える必要がある。頑固者には灸を据えるのもやむなしであろう。
そして私はまた本を読む。寝るまでには本を一冊読み終え、学んだことを反芻しながら夢の世界へ旅立つのである。
私の中には世界が多く詰まっているのだ。
──
私は一人暮らしではない。
私を恥じるように生活のタイミングを少しでもズラそうとする生みの親と、本や漫画を買い与えてくれる程度には仲のいい血を分けた優秀な兄弟と共に暮らしている。
ただし、私以外は皆社会適合者の部類である。
愚直に働く両親の姿は哀愁ものだが、だからといって私は彼らを尊敬することはない。家族のパターナリズムを期待する歳ではないが、私にはその欠片も見せない──むしろ私を視界から排斥するような彼らの態度からは、彼らの思考に哲学的欠陥があるとしか思えない。
その点、弟は一目置ける。私に積極的に話しかけ、しかも過剰な気遣いの様子は無い。彼ほど私の血を分けるに値する人間はいなかっただろう。彼は私を理解しようと努めている。涙ぐましいものだ。私に親友はいないが、彼がいれば私には十分であろう。
しかし私は彼に対しても心の部屋の扉を閉じなければならない。それは、彼が愚か者の域にいるからである。彼はいつもそのことを不満げにしているが、弟よ、許すがいい。お前が私への理解に努めるのと同じように、私は、見返りにお前へ心を差し出すことだけは無いようにと努めているのだ。
私の言うことは、誰も何も動かすことはない。
まさにこの国そのものである。
静かに、平和に、堕落している。
そう、私はこの国の形なのだ。私は国なのだ。
私は私という一つの国を自治している。私が社会という世界から独立したとして、この国の独立を過去の偉人とされている人間たちの功績として称える者たちの誰に私を咎める権利があろうか。いや、無い。
「……おや」
電気も点けず宵闇の中でそんな論理を構成していると、ふと気づいた。
腹が減っている。
いつもなら食材は弟に持ってきてもらい部屋で調理するのだが、残念ながら勤勉な彼は既におねむの時間である。
もちろんこういうことがこれまで全く無かったわけではない。部屋の外に出ることなど容易いことだ。この安心感がむしろ私を部屋に閉じこもらせているのかもしれない。
……こう他所事を考えていなければ、本来の役目を忘れたこの足は外に踏み出すたびに震えてしまうのだ。
仕方なく自室の外へ出たものの、思いの他廊下は冷ややかである。
まるで私を拒んでいるかのような──。
キッチンを物色すると、粉スープとスナック菓子が見つかった。
夜食にはちょうどいい。この野菜たっぷりとは名ばかりの油と炭水化物の塊を暖かいスープでちまちまと腹に落とそうではないか。
「ん?」
そこで私が気づいたのはまさにそう、偶然であった。私は気づきたくなかったのだが、思い通りに進んでくれないのがこの世界の世知辛さである。
ああ、だから外に出たくなどなかったのだ。
────
私は震えていた。
寒いのではない。暖かすぎるほどぐるぐる巻きになっているのだから。
武者震いでもない。私が奮い立つのはこの世界の外、部屋の中だけである。
私を取り囲んでいたのは、恐怖と、屈強な男たちであった。
目出し帽に黒い服、ゴツい身体。
私はなぜこんなちんけな泥棒どもにつかまっているのか。
しかも部屋どころか、ここは家の中ですらないようだった。目隠しをされ、布で猿轡をかまされてはいるが、それぐらいはわかる。
車に乗せられ、どこかへ運ばれているようだ。
助けを呼ぶなど、出来はしない。
その方法も無ければ、声を出す勇気も残ってはいない。私の意思は既に、世界という空間に消費されていた。ありていに言えば、外に出てしまったことが怖くて怖くてしかたがない。
この男たちを撃退すれば外から解放されるというなら、私はこの瞬間にも火事場の馬鹿力を発揮できそうなほどだ。
「兄貴、この男、どうします?」
すぐ後ろで寓話の端役の更に腰巾着のような小物っぽいダミ声が発せられる。
私はその不快さに身もよじれる思いだ。よじれても構わないから私は部屋に戻りたい。
「まさかあんな時間に見つかるたぁ思わなかった。あの家じゃあ身代金は取れそうにねえしな……」
ダミ声に答えたのは、寓話の端役のような仰々しく腹の立つ声。
お前を主人公に寓話をつくってやるようアンデルセンにでも頼んでやるから私を部屋に戻せ。貴様はみにくいアヒルの子にピッタリだろう。
「こいつは、どっかに捨てちまおう」
捨てるとは、もしかしなくとも私のことなのだろう。全くなんということだ!
この人を人とも思わぬ所業、私が千の言葉を以て罰してやりたいところである。
代わりに私を部屋に捨てることならば許そう。今なら懺悔を受け入れる! いいか、きっと後悔することになる。今すぐやめるんだ、まだ引き返せるぞ!
しかし恐怖と
数時間の後、車が停止したのを感じたが、私は思考を垂れ流すのに疲れ果てていた。
「っ?」
そうでなくとも身動き出来なかったであろう身体は、ぐるぐる巻きのまま簡単に持ち上げられてしまう。そしていとも簡単に、擬音にするならポイッと、私は投げ捨てられてしまった。
「あぁ……」
これが私の最後の言葉となるのであろう。
なんとも情けないが、私は小便が漏れていないかを気にしなければならないほどの恐怖と絶望に忙しかった。
私が恨むべきはなんなのだろう。この仕打ちの張本人たちか、戸に鍵を掛忘れた親どもか。ああ、部屋に閉じこもっていただけの私に、責められる咎は無いというのに。これだから外は厭なのである。
全く私が死んで、こんな世界が生き残るとは、理不尽極まりない。あるいは私は世界に殺されたのか。今思えばあの廊下の異様な冷たさに気づくべきであった。あれは
ああ愚かな世界よ、私が何をしたというのだ。私は何もしなかっただろう。ただ静かに貴様の手を逃れようとしただけだ。
神がいればと夢想したこともあったが、それは正に夢想。夢物語。神などいない。世界には世界しかいないのだ。私が死ぬのがその良い証明だ。私を嫌っているのは神ではなく世界なのだから。
そうして私は谷なのか山なのか海なのか湖なのかわからぬ下に落ちる、落ちる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます