2 はじまりの信仰。
私が目を覚ましたのは、見知らぬ天井の下であった。古めかしい木造家屋のようで、心もとない天井のようだ。
のようだ、というのは、メガネを無くしたらしい私には、それ以上のことはわからなかったからだ。何しろ普通の人が十メートル先まで見える視界を、私の目は三十センチで途切らせるのだ。
頼りない目に代わって周囲の情報を懸命に拾う耳に聞こえるのは──これは、川だろうか? せせらぐ音が聞こえる。
頭の中で私はポンと手を打った。
ああ、これはきっとレテの川である。そして私はこれからその水を飲みに行くのだ。そうか、ここはそれまでの
最後にナーイアスかニンフの美姿でも見て、全ては
これは良い。この身体も、私などに使われるよりは死んだ方がマシだと思うことだろう。親もきっと心配はしていまい。
最後に何か考えることはないかと頭を巡らせていると、キィ、と扉の開く音がした。さて、遂にお迎えが来たようだ。
先立つ不孝など、私は詫びはしない。誰がそんなことしてやるものか。私は私の主であるのだ。アダムの支配と統治は既に脱している。私は私のものなのだ。文句は認めない。
「目が覚めたか」
顔はよく見えないが、そのしっかりとした体つきと風体は木こりという言葉がよくよく似合いそうである。
「面目ない。世話になった。さあ、早く私に水を飲ませるがいい。私は拒まないし抵抗もしない。不服なことは多分にあるが、これも運命と受け入れてみせよう」
「水が飲みたいのか。だが、人に頼む時は礼儀というものがあろう」
「そうか、あなたはまだ私を人間として扱ってくれているのか。慈悲深いことだ。だが私に人間は似合わない。どうか遠慮せず、ひと思いに私を川まで引いてくれ」
「これは……また可哀想な。余程怖い目にでもあったんだろう。おい、娘よ! 水を汲んで来てくれ」
「はい、お父さま」
男の声に少女のような声が答えたが、私は彼女がどんな女性かよりも、忘却した後、転生した先に思いを馳せる。
まず、何に生まれ変われば最も幸福だろうか。
人間はダメだ。面倒くさい。自分が何をすべきかと考えている内に死んでしまう。他のどんな動物よりも目的をもって行動し、最も長い命を持ちながら、その実彼らは何も成し遂げることはない。
植物も却下だ。私は怠惰だったが、かといって怠惰を良しとしたわけではない。彼らが怠惰とは言わないが、動物と見比べれば呑気なものである。
ここはやはり、蟻か蜂がベストだ。
彼らの世界には、名誉も体面も嫉妬も憎悪も内紛もない。それに素晴らしいことに、個体の私的な善が全体の共同の善と一致するのだ。私は何も考えず、悩まず、ただ生き、奉仕すればいい。そしてそれに何の疑問も持たない。
人は理性を持ち上げたが、それこそ愚昧な幻想だ。戦争と内紛のラッパなら喜んで捨て去るのが良いに決まっている。
「お水、持ってきましたよ」
さあ、私が私である最後の時がやってきた。さあ、この眼を開け、私は数滴で記憶を散慢とさせると言われるこの水を一杯、飲み干すのだ……!
…………。
どうした、なぜ飲まないのか。なにを恐がる必要があろうか。私はこれから蟻か蜂になり、女王の君臨する、そう、いわば忘却の城で怠惰な労働に生を燃やすのだ。
震える手を押さえつけ、ごくごくと、勢いをつけてグラスの水を飲み下す。
ゴクッ、ゴクッ、……。
「どうだ、落ち着いたか?」
「大丈夫ですか?」
ああ、飲んでいる。私は今、レテ忘却のニンフ女神かウンディーネ精霊かを飲んでいる。水は麻痺した私の死骸の血液に代わり、私を温める──!
「私は生まれ変わる!」
覗き込む二人の顔をぼんやりとした視界の隅に捉えながら、私の意識は遠のいていった。
────
特に気がかりでもない夢から目覚めた時自分が一匹の人間になってしまっているのに気がついた。私の身体ように頼りない背中を下にして横たわり、頭を少し持ち上げると、脂肪も筋肉もなく盛り上がりのない自分の腹が見えた。腹の上には、掛け布団がずり落ちそうになっていた。普段と全く変わらない大きさの細い手足が自分の前にはあった。
気分はすっかり蟲だったのだが、予想以上に大きな──普通の人間に転生してしまったようである。これではまるで私である。
というか私である。私そのものである。
「これは一体……?」
私の人生についての記憶も、逐一説明したくなくなるほどに全く消えてはいない。私がどうしてこんな所にいるのかはさっぱりわからないが。
もしや夢かと頬をつねってみる。
うむ、痛い。そも私はこのような──明晰夢というのだろうか──夢の見方をしたことがなかった。では、これは現実なのか。水は、
キョロキョロどころではない、ブンブンと首を振って部屋を見渡すと、はてあの部屋の隅で丸椅子に腰掛け本を開いたままうつらうつらしているのは先ほど水を持ってきた女性ではないか。
「もし」
起き上がろうにもどうしたことか動かぬ身体に舌打ちし、私はそのままの格好で声をかけたが、女性は起きない。どころかより深く睡魔に犯されていってしまっているようだ。
ええい、情けなくダルいこの身体が憎らしい。
「おい、貴様起きろ」
女性は正しい姿勢で船をこぎ、短い黒髪を揺らし続けるばかりで答えは寝息か寝言である。
もしやここは黄泉の国ハデスではなかったのか。私は死んでいないのか。
……いやそんなはずはない。私の記憶はどこかから落とされた所で途切れているが、その自由落下の時間はなかなか長いものだった。
永遠のように感じられたなどと馬鹿げたことを言うつもりはない。たっぷり……いや、すぐに地面に着いて転がったのだったか? いや、水に落ちたような気も。そもそも布団に巻かれていて何も憶えていないような気もしてきた。
あそこで私が奇跡的な力を発揮してあのくそったれな泥棒たちをのしてしまったことだけは有り得なかったが、それでは全く解決しない。
黄泉でないとすれば、ここはどこで、いつなのだ。女は起きる気配もない。自分で確認するしかあるまい。
よっこいせと引きずるように脚を床に下ろし、どっこいせと立ち上がる。と──
「痛ぁ!?」
我ながら妙ちくりんな声が出たものだが、そんなことに構う余裕はない。どうしたことか、くたりと脚に力が入らない。込めようとすれば深いところで鋭い痛みが走る。
「ああ、目が覚めたのか」
声の方を見やれば、先ほどの、壮齢の木こりらしき人物が開いた戸から顔を覗かせている。はあ、とため息をつくと彼は女に近づき、その肩を叩いた。
「娘よ、起きなさい」
「う、ん……。お父さま」
女はまったく寝ぼけた様子でお父さまとやらの手を握った。
そんなことはどうでもいいので助けて欲しい。死んでしまいそうだ。涙ちょちょ切れん痛さである。
「こら、起きなさい。彼が目を……ああこら。全く仕方がない」
まったく親子愛というのは反吐が出る。これほど平凡で清潔、しかし使い古された響きも無い。そんなことはいいから私を。
「ぼうず、大丈夫か」
「坊主……? いや、いい、貴様、いや紳士よ、私を助けてはくれないか」
「あちこち折れとるのだから、そんな身体で動いてはいかんぞ、ぼうず」
なんと。どうやら今、私の世界では起こりえぬことが我が身に降りかかっていたようだ。
「折れているとは、もしや骨か」
「他に何がある。両足と左腕がポッキリ行っとるそうだ。なに、医者に手当てさせてある。心配はいらん」
医者とな! その昔私が四〇度近い熱を出しても連れて行ってもらえなかった、あの医者か! 覚えている限りでは片手で足りる回数しか世話になったことのない、あの医者か。
「珍妙な経験だ」
「珍妙とは、また大袈裟だな。ただの町医者だぞ」
「私には珍妙なのだ」
ところで、ここはどこか。
「ここはただの古い農村だ。それよりぼうず、お前は何があったのだ」
「それはこちらの台詞だ。なぜ私はこんな所にいる」
「君は川から流れてきたのだよ。どんぶらことな。この子が偶然見つけて拾ってきた」
紳士は未だ椅子で船をこいでいる女に視線を投げた。
川で拾ったとは、洗濯でもしていたか。
「まあいい。私も何がなんだかわかっていないが、この恩義はきっと返そう」
「礼ならあの子に」
「何を言われる。貴方の庇護の下にいる娘のしたことは貴方の責任であり権利なのだ」
もちろんこれがまっとうな親であればだが、見たところこの御人はその例に漏れていない。私の感謝を受ける権利は娘と同等かそれ以上にある。
「そうか」
御人はそれだけ言って、しかして特に感慨なく、私と娘を放って部屋を出ようとする。私の感謝では足りないと呆れたのだろうか。
甘く見てもらっては困る。いいだろう。ならば。
「ところで、ここにパソコンとインターネットはあるか」
と訊く私だが、なに今やどんな田舎にでもパソコンの一つくらいあるものだ。
「そんなものは無い」
なんと。
「あったとして、何をするつもりだ」
「よくぞ聞いてくれた。こう見えて、私は株式を齧っております。此の身にかかった金程度、すぐに取り返して──あ、御人、どこへ行かれる」
「金は働いて稼ぐものだ。どこで使われたかわからん汚い金を返されても不快なだけだ」
「どこで使われたかわからないのは実体経済でも同じことでは──」
「そういうことではない」
「しかし」
「恩を感じているのなら働いて返せ。でなければ出て行って構わん」
非道である。この脚でどこへ行こうと言うのか。
「なら休んでおけ」
「それでは私の療養費がかさむばかりではないか」
「気になるのであれば治ってからでも働けばいい」
この男、きっと言いくるめた後ここで恩を売り、私が完治したと見るや牛馬のように働かせる気に違いない。紳士かと思いきやとんでもない性悪である。駆け込むべきは労組か農協か。
しかし私が動けないというのもまた事実。ああ、文字通り足元を見られているのだ。嘆かわしい。よもやこんな時が来ようとは思わなかった。
何の罰なのだろうか。私は部屋以外のものを望んだことはなかったというのに。多くの若者のように非日常的刺激を求めることもなかったというのに。私の冒険は全てあの部屋でこと足りたのだ。
私の平穏はどこへ行ったのか。死んだ方がマシであったやもしれない。
労働など馬鹿馬鹿しい。このボロ家を建てるのにこの紳士はどれだけ働いたのだろう。あくせく労働するのが人生の成功条件ではないのだ。
そも、個性や他者との相違を積極的に認めようとしている世界の情勢下で稼ぎの形態を労働一つに限定してしまうのが、私には到底理解できない不合理である。私は楽をしたいというのに。
「車椅子も借りてある。不便かもしれないが、移動にはこれを使うといい」
指差した部屋の隅には使い古された様子の車椅子が。
「そんなものまで」
「心配しなくともそれに金はかかっていない。善意で貸してもらったものだ。……ぼうず、思慮深いのと悲観的なのとは違うぞ」
意味ありげに紳士は去る。
わかった風な口をきくのは歳を重ねた人間の悪いクセである。たいていの場合聞き流して構わないというネットの情報は信用に足るものだったようだ。
「お父さま……?」
む、寝ぼすけ娘が目を覚ましたようである。
そうだ、私はちょうど水が飲みたい。やや空腹もある。何か頼むとしよう。
「もし」
「おや、起きられましたか」
彼女はようやく私の呼びかけに答え、椅子を近くに引いてきて座り直した。
布巾とエプロンをした、まあなんとも素朴な少女であることがこの時初めて見えた。
「どうやら私を拾っていただいたとのこと。どうもご苦労をかけまして」
「ええもう。わたしの細身には堪えました。お気に入りのエプロンも少し汚れてしまいましたし」
「……」
「でも大丈夫です。充分眠りましたから」
「そ、そうですか。ああ、そうだ。ところで今はいつなのでしょうか」
「え? 十二月の初めですよ」
ということは、私が連れ去られてまだ二日も経っていない。
「あなたはどこから?」
「ああ、私は──」
「どうしました?」
「いえ、頭を打ったようで、忘れてしまいました」
「それは大変」
娘は目を丸くした様子である。
「ではお名前は?」
「忘れてしまいましたなあ」
「まあ」
言うまでもないが、真っ赤な嘘である。先も言ったが、私は私の記憶を完全に覚えている。どこも抜けていない。
ドラマのように都合悪く、あるいは都合よく自分のことだけ記憶が無い、ということは有り得ないのである。
この連中に名前を教えぬのは、教えたくないからだ。
治療と一宿の恩義はあれど、私が個人情報を明かす必要はない。必要なのはかかった費用と恩を返すこと、それだけである。それ以上の関係になる必要はない。私は誰にも感知されず、またあの部屋で過ごしたいだけなのだ。私は冒険など求めてはいなかった。
「そうですか。ではわたしがあなたの名前を決めてあげます。不便ですから。ええと……」
私のニヒルな演技にまんまとひっかかった様子の娘は、やや普通ではない思考回路の持ち主だったようだ。彼女の脳のアルゴリズムでは、記憶喪失への心配よりも、呼び名の方が優先されるらしい。
それに、誰とも知れない出会ったばかりの年上らしき男に対してその態度は、年端のいかぬ少女のものにしては肝が据わっている。あるいは無垢なだけなのか。
しかしそう思い悩んでいる横顔は麗しいように見える。肩までの短い髪には少しハネる癖があるようだった。目は少し小さいが、一般論としてはなかなか美人なのではないか。私は恋愛感情というものをいつかどこかに捨て置いてきているようで、一目惚れしてしまうようなことは無かったが。
「エニグマンでどうでしょう」
「謎めいていますね」
「突如流れ着いた謎の男の正体は悪の組織から世界と愛する人を守る正義の味方だった──という設定です」
「この細腕で秘密結社には勝てませんよ。改造手術にも耐え切れない」
「何を真面目に答えているのです。冗談ですよ?」
明らかに年下の娘にからかわれてしまった。
「ところでおいくつなんです?」
「貴女の方こそ。とてもこんな田舎に燻って満足していられるような年頃には見えませんが」
「女性に歳を訊くのは紳士ではないですよ?」
「私は紳士からは程遠い世界の住人でしたので」
「フフッ。一七歳です」
「ほほう。私より十近くも下ですね」
「働き盛りではないですか。ご職業は何を?」
「高校を卒業した後は何も」
「にーと」
「ニートではない。私はただの厭世家だ。私をそう呼ぶのは私にも本職の方々にも失礼である。いいか、違うのだよ。彼らと私では。いわゆるニートというのは、実の褒美の無いルーチンワークでも自らの領域としてこなす精神力と才能を持っている。だが、私はその両方を持っておらず、飽きっぽく短気だ。
代わりに私は初めの環境さえ整っていれば一人で生きていけるのだ。私は親に面倒を見られたことなど小学生以来無いほどだ。私は誰にも依存せず生きていけるはずだったのだよ。引きこもりが全てニートだという勘違いはやめたまえ。
そもそも人の生き方を一つの言葉で一括りにしてしまおうというのが傲慢なのだ。これは外界で華々しく活躍する人間たちの傲りと高慢による差別から生まれた悪しき言葉であり、およそ人間に向けられるべきものではない」
「ぐう」
寝ている。私の熱弁をこんな方法でかわすとは恐ろしい子である。
「もし」
「あなたのことがなんとなくわかってきました」
「ほう」
随分簡単に、淡々と言ってくれるものだ。まるで私の底が浅いかのような物言いである。
「厭世家と言うと、詩人や作家を想い起こしますね」
「彼らは孤独すらも糧に芸術を生み出す人種で、社会に積極的に認められている。私とは違う」
「変人という点では共通していそうですけどね」
「変人とはよく言われたものだった」
「では変人らしくこう呼ぶことにします」
娘はどこから取り出したのか、メモ帳に『博士』と書いてみせた。
「ひろし」
「ハカセです」
「はかせ。しかし……私に大した学は無いぞ」
「そんなのどうでもいいんですよ」
少女の笑顔から察するに、からかわれたようである。
まあ、名前などどうでもよい。所詮親の無意味で理不尽な期待とエゴで作られたものだ。今更その称号が少し変わったからといって、どうということはない。
「目、悪いんですか?」
「なぜそう思われる」
「いえ、
なるほど、確かに。
「目はかなり悪い。両方合わせて0.1も無いのでな」
「眼鏡は持ってらっしゃらないのですか」
「どこかで落としてしまったようだ」
「川底かもしれませんね」
そうなればサルベージは不可能である。
そう、これもなのだ。私が仮に本当に働くことになったとしても、現金もカードも通帳も無い今の私には、眼鏡を新調することはできない。である以上、まともに労働の駒が務まるとは思えない。邪魔だと鞭で尻を叩かれるのがオチである。
「博士」
「本当にそう呼ぶのか」
まあ、まんざらではない。博士号など、私には程遠いものだからだ。
人間遠いものにこそ憧れるのである。女々しいと言われようが構うものか。私は世間の言葉など気にも留めない。
「はい。簡単でいいでしょう?」
「ああ、構わない」
まったく父親の方はとんだ悪魔であるのに、娘の方はなかなかどうして愛嬌のある子である。言うことは回りくどくなく、言葉は純真。しかし調子は淡々としていて心地いい。これは初めて出会った人種であり、珍発見と言えよう。
「わたし、友達少ないから良い話し相手が出来て心躍っています」
なんということか。このような娘を放る者たちがいるとは。私にはとても理解出来ない。快い普通の娘が私のようなことを言っているのは不思議でならない。
……ああ、なるほど、これはきっと嘘なのだ。私が居候することに落ち込んでいるようであったから、この娘は気を利かせているに違いない。
「遠慮することはない、さあ友達の所へ行って遊んでくるといい。どうせ私は遊んではやれない」
「話を聞いていましたか? 友達なんていないんですよ。博士みたいな変人とは普通に話せるのに、学校では皆わたしを遠ざけるようなのです」
「それは、なぜ?」
「さあ。わたしが喋ると、皆情けないような申し訳ないような、はたまた腹を立てたような顔になってわたしから離れていくんです」
しかし彼女はそのことを気に病んでいる様子はない。気丈に振舞っているようでもない。心底からなんとも思っていないようである。
実は、皆が自分を遠ざけるというその経験に、私も心当たりがあった。むしろ私が語っても良いくらいであろう。私の外での人生はおよそそういうものだった。
なんのことはない、私以外の人間はみな、空気を読み、モラルを守る、世間の軟弱な雰囲気に呑まれた偽善者だったのである。
そこで起こったことを見て見ぬふりすることが皆の、自分のためになるとする類のものだっただけなのだ。
そのことを話すと、私と彼女はますます息が合った。
「では、貴女はなぜ学校に行くのだ」
「そうしなければお父さまが悲しみますから」
彼女はいよいよ持って当然というように淡々と言った。まるで私にはわからぬ世界である。
「そうか。今日は学校は?」
「今日は休みです」
「ふむ。では何を?」
「何を、とはなんでしょうか」
「せっかくの休みに私などに付きっきりということもない。何か予定はないのかと」
「ええ、確かに博士は得体が知れません。そんな人と過ごす休日というのは妙なものです。でも、それくらいしかこの村には楽しみが無いのですよ」
私はその話を聞いて、ここをすぐにでも出ていきたい気持ちを強くした。
退屈は心を病むものである。ましてや孤独など。この娘は一辺に二つの死に至る病をその身に宿していながら、どうしてこうも
「ふむ、君に興味が湧いた。度々私の話し相手になってくれると、せめてもの退屈しのぎになるのはこちらも同じなのだ。……どうした」
「わたしは美味しくありませんよ」
すす、と娘は少し椅子を引いた。
「なに、私がオオカミで君が子豚だとして、私はわらの家に閉じこもられただけでも貴女をとって食うのを諦める人間である。男が皆オオカミだと言うのなら、オオカミにも色んな性格がいるものだ」
そんなことが言いたいわけではなかったのだが、「私は貴女の身体に興味は無い」と言い直すのもおかしく思えて、敢えて訂正するようなことはしない。
「博士はやはりおかしな人です」
「そうか」
「ええ。普通は狼狽えるか弁明するものです」
常から堂々と振舞うのは私のポリシーである。へりくだれば許されると思っている軟弱者とは違うのだ。たとえこちらが間違っていたとしても、私はそれを堂々と謝ることが出来る人間だ。しかし頭を下げたことがそうそう無いのだから、やはり世界は私より間違っているのだろう。
「あ、わたしこれから昼食の準備をしなくては」
「そうか。ご苦労」
「簡単なものしか出来ませんから、口に合うかどうか分かりませんが」
「む? 私の分もあるのか」
「無いと思ってたんですか」
あまり私に構って銭を使われても困るのだが。何がかというと、返済がである。
「食べないと治りませんからね、その足。猪でも食べて、精をつけた方がいいです」
かつてなかったこの親切が今でなければ、私は素直に喜ぶことも出来ただろう。
娘は軽く会釈して戸の向こうに消えていった。椅子はそのままである。
……そういえば、名を聞いていなかった。
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