11 暗躍する偏屈者。2-下
翌日。
思った通り寒さに見をあてたのが災いして熱をぶり返した瀬上さんを家に残し、私は末と共に学校へ向かった。
「いやあ、放課後が楽しみですねぇ、博士さん?」
「楽しみ? 私は気が重い」
「ほほう、これからやることへの、罪の意識ですか?」
「そんなことではないさ。説教というのは私の役目ではないというだけのことだ。かといって神父の仕事でもないがな。あれは素人牧師の仕事だ。それも瞬間的な素人牧師のな。たとえば英国気質の真面目な働き屋のやることなのだ、本来は。私は真面目とも労働ともかけ離れている。だが代わりがいないのだ。ほぼほぼ押し付けられたようなものだ。怠慢な労働者たちにな」
「なるほどお」
「ところで、相手は指定の場所に来るだろうか? 待ちぼうけを喰らいたくはない」
「そりゃあ来ますよ。手紙には、たーっぷり挑発と脅しを書いておきましたからね。盗撮犯を名乗り、証拠写真も入れて、教師に言いつけるぞ、ってね」
「ふん。上出来だな。もっとも、教師陣への言いつけは既に終わってしまっているわけだが」
「彼女はそれを知りませんからねえ。良い法螺でしょ。まあそれはそれとして、ボク、覗き見しててもいいです?」
「趣味が悪いな、末」
「快楽主義者ですから」
「気に入ったのか? その不名誉な称号を。まあ好きにするといい。観客でもいなければ少しの面白みもないからな。特に私には。そしてコトを楽しめるのはお前くらいのものだろう。今回に限ってはお前ほどの上客はいないよ」
────
私にとっては胸糞悪く、末にとっては上等な劇を見るようであろう時間は、すぐにやってきた。
好ましい時間が早く、気の進まない時間が遅く感じられるというのはしばしばだが、後の退屈さを予想している場合にも時は早く過ぎ行くらしい。
私は司書を無視して図書館を抜け出し、無神経にも清々しく張り詰めた空気にため息をついた。
ああ、本番を前にして気が狂いそうだ。なぜ私がこんなことをしなければならなかった? 私はなぜ必死に紳士を説得し、末を雇い、働いているのだ。
いや、これは労働というにはあまりに卑俗だ。私がすることが、ではない。私がものを言う前にあるものと、言った後に残るもの両方が、である。私にとってこんなにつまらないものはない。
ならばなぜ? 私でなければこんなことはしないからだ。しなかったからだ。
それはなぜ? ここが外だからだ。ここには人間が多すぎる。ああ腐っている。腐っているのだ。だから私しか気づかなかった。人間が異常なのだと誰も気づいていないのだ。こんな大きなものに私が立ち向かう道理はないはずなのだ。
挑戦者には約束された敗北か虚無しかもたらされない。彼が立ち上がろうと変わるものは少ない。聖人が誰を変えた。ああ、変えたか。嫉妬と狂気の獣に。そして自ら食い殺されたのだ。どちらにせよ神はいない。正義が無くとも世界は回る。
ああ、まずい。絶望よ、私を飲み込むにはまだ早い。誰がお前を養っているか、私は知っているぞ。──それは私の敵だ。人間だ。社会だ。世界だ。なのになぜ貴様は私の中にいるのか。いつも私を捉えて離さないのか。なぜ度々飲み込んでしまうのか。
いや、出て行けというのではない。むしろお前は外に出てはならないのだ。私の中で飼われていればそれでいい。
お前は敵に養われてはいるが敵ではない。お前は私と狂気に
いや、情けなさが何だと言うのだ。
私は言ったではないか。挑戦には敗北か虚無が約束されていると。敵対こそすれ負けてやる筋合いはないのだ。
堂々しているだけが敵対ではない。なにせ敗北、消滅してしまえば敵対などできない。私は敵対者か、勝利者でありたいのだ。
であればなおのこと、どうして私は素人牧師を演じようというのだ?
違うか。私がたとえ素人であっても牧師になれるわけがない。自分の用意している言葉をよく考えてみろ。それのどこが説教だというのだ。
卑俗というのはまさに正しい。
説教というのは一見ありがたいが、私の言葉のどこにありがたみがあるというのだ。
卑俗。まさに卑俗。
しかし同時にそれは外との敵対を表明するものでもあるだろう。皮肉という名の宣戦布告だ。滑稽な私が滑稽な世界を滑稽に皮肉る。これにはニーチェも笑うぞ! これが敵対でなくてなんだというのだ。
それがこの行動の目的だ。私の悩む、貴き女性への報恩の方こそ付則に過ぎない。
そうだ。私は労働をしようというのではない。宣言だ。宣誓だ。不出来な下手人を視界に入れる必要はない。私はただ私のためだけに言葉を尽くすのだ。
「呼び出したのはアンタ?」
いつの間にやら到着していた昇降口前。見覚えのある女が私を見下ろしていた。
瀬上さんに不届きを働いていた下手人。先日車椅子の私を押す瀬上さんを呼び止め嫌味と皮肉を浴びせた腐った女。たしか名は──上月といった。
ああ吐きそうだ。
「見世物じゃないんだから、移動したいんだけど」
「どこへでも連れていくがいい。だが押すのはお前だ」
「はぁ? アンタ何様」
「怪我人だが。移動したいのだろう?」
「チッ」
酔っ払いのような荒い運転で連れて来られたのは、どこの上階の教室以外からも見えない、枯れかけた白い芝生と茶色の木々に囲まれた小さな池だった。
斑点が
「で? あたしも暇じゃないんだけど。早くしてくんない。ていうかこんなのいきなり貰っても困るんだけど」
石のベンチに足を組んで座った上月がひらひらと見せびらかすのは、ハートマークのシールがついた便箋。中身と外見の落差が激しい点は、末の卑しさ光るセンスだ。
「ああ、私も早く帰りたい。だがその前にどうしても言っておかなければならないことがあるのだ。その中身は読んだか?」
「読んだけど」
「がっかりしたか? 外見とは全く違う内容で」
「……こういうの、まじテンション下がるんだけど。ていうかアンタ誰。いきなり意味わかんないんだけど」
「私の言いたいことはおわかりだろう。瀬上さんにつまらんことをするのはやめてくれないか」
「わたし何もしてないし。てかもしかしてアンタ瀬上が好きなの? キモ」
「早く飲んだ方が得策なんだがな……。貴様の所業は全て知っている」
まったくこういうところが救えないのだ、俗物は。
「いいか、貴様の不届きは知っているし、これからは監視させてもらう」
「瀬上が虐められてるからお願いしにきたってわけ? やめてくださいって? 馬鹿じゃないの。あたしそんなの知らないし。大体監視なんてどうやってすんのよ。ここは学校。アンタは部外者でしょ。訴えるわよ」
「当然私は部外者だ。だが私の目はこの二つだけではない。学校内に監視役を雇った」
「そんなことできるわけないじゃん。どうやってするのよそんなの」
「雇ったといっただろう。もっとわかり易く言ったほうがいいのか? 金で働いてもらっているんだよ」
完全にハッタリだ。今の私にそんな金は無いし、冷静に考えればあり得ない。しかしこの女は世間知らず物知らずだが怖いものを知り始めた年頃の学生である。
「……で? 監視してどうするの? またアンタがお願いしに来るわけ? 馬鹿じゃないの。キモいんだけど。知らないって言ってるでしょ。警察呼ぶわよ」
「まあもう少し話をしようじゃないか。なあ?」
「いや別に話とかしたくないんだけど」
「私は監視を雇ったと言ったな?」
「だからそれが何?」
「監視は果たして誰なのだろうな?」
「は?」
「私は誰を雇ったのだうな? お前のクラスメイトだろうか。お前と仲の悪い女子だろうか。友人のフリをした裏切り者かもしれんし、お前の男かもしれんなあ」
「何言ってんの? あり得ないし。つか……あり得ないし」
「ああ、言っておくが雇ったのは一人ではないぞ。それと先ほど、監視してどうするのか、と君は訊いたな。監視役の報告は全て私と、教師陣に届くことになっている。お前の担任のことではないぞ。指導部やその上の人間たちのことだ」
上月が少し目を張るのがわかった。
「当然彼らはお前の周囲の教師にもその伝達された情報を教えるだろう。それから一応言っておくがお前の所業を教師たちは知っているぞ。今は静観してお前に新たな動きが認められた時に罰すると言っていた。なあ、ここの教師陣は優秀だな!」
「知らないし。つか先生が知ってるわけないでしょ? そんなんあり得ないから。馬鹿じゃん」
「ふむ。まあ教えてやってもいいか。……先日の集会で学校に監視カメラが仕掛けられていたのが見つかったそうじゃないか」
「それが? 今関係無いでしょ」
「いやいや。そんなことはないさ。あの犯人が私だというのは手紙に書いた通りだ。しかし、あの全校集会での盗撮犯騒ぎは、私が進言して行われたものなのだ」
「はあ?」
「私が仕掛けたといったのだ」
ポケットから記憶媒体を取り出す。
「……先ほどの質問に答えると、教師がお前の犯行を知っているのは私がその中身を見せたからだ。それと同じものは既に教師陣の手にもある」
「バラしたの!」
「そうだ。私の話をちゃんと考えてみろ。他にいないだろう。お前の見えない敵を作ったのも悪行を暴露したのも私だよ。それでだ。彼らは私が映像を提供した時に盗撮を知った。しかしなぜ私が犯人だと知りながら監視カメラ云々などという発表をしたかお前はわかるか?」
「知らない! もう何なの!」
「あれは私が優秀な教師たちに提案した策略なのだよ! その経緯はこうだ」
私は車椅子の座椅子の淵まで身を乗り出し、上月に迫るように語りかける。
「彼らは、犯人であるお前をすぐにでも捕まえたかった。だが盗撮紛いのことをやって得た証拠は誇り高き彼らには到底望ましくなかった。一方彼らには事件は事件として発表する義務がある。その事件には、発表することで一生徒の利益になる側面も存在した。あるいは不利益を取り除く側面だ。それによって私は彼らに黙認され、事件は無かったことになったのだよ。つまり、お前を捕らえることでこの学校の風紀が人知れず改善される可能性の代わりにな」
上月が目を逸らす。
「ならば、と私は意見させてもらったよ。発表は、本当の事件と似たような──例えば『監視カメラの発見』というものにすれば、犯人を警戒させないだろうと。嘘だ、という顔だな? そう思いたいのはわかるが、残念ながら嘘ではない。全て本当なのだよ。信じられないか? ならばなぜ学校は未だに警察を呼ばない? 捜査依頼は未だ検討中のままではないか。お前は一度でも学校で警官を見たか? 当然だ。最初から呼ぶ気など無いのだからな!」
「そんなの、なんでわかるのよ」
「なぜだと? 話を聞いていたか? お前の首と引き換えに許されたと言っただろう。私も、彼らには警察を呼ばない方が得策だと言ったよ。呼んでしまえばお前のような俗な人間はそれだけで気を縮め、犯行を一時的にやめてしまうからな」
彼女は私を睨みつけたが、言葉はついて出てこないようだ。
「警察はまあわかりやすい例だが、ともかくこのまま特に何もなければ、お前は下らない
これは本当だ。
教師たちの言葉を聞き返すと面白いほどに。
「なるほど教師陣がお前よりも瀬上さんをとったのも頷ける。彼女の評判はなかなかのものだからな。つまり、彼らはお前を捕まえたいのだよ、現行犯でな。お前は排除されるべき悪だと、見放されたのだ! 彼らはお前の犯行を今か今かと待ちわびている。わかっていると思うが、先も言った通り私のスパイたちがお前の犯行を目撃するだろう。彼らはお前の現行犯を、待ちわびる教師陣に報告するようになっている。『先生上月さんが』とな! そうすれば彼らは、待ってましたとばかりに飛んでくるだろう」
「──捕まったお前は素行の悪さという材料もあって面談を受ける。名目ときっかけさえあればなんでもいい。彼らはお前を重く裁きたいと思っているのだから。その後しばらくすると親が召喚される。お前がここ以前で懲りればそれで終わりだ。だがお前はきっと懲りはしない。反骨心と自尊心が合体してしまっているからな。そうなれば次は謹慎、退学ということになるのだろうな」
上月の目が少し潤むのが見える。もうひと押しだ。用意した台詞も今少しばかり残っている。どうやらアドリブを演じる必要は無さそうである。
「さあどうするのだ? このままではお前は捕まってしまうだろうなあ、可哀想に! これまでの人生を無意味なものにしてしまうのだろうなあ、可哀想に! ああ、だがしかしどうしようもない! それは全て自業自得なのだから! 教会で十字架でも握りしめて懺悔室で震えるしかお前に手段は無いだろう。さあどうする。包囲網は今後更に強化する用意があるぞ? さあ、スパイは誰だろうな! どんどん増えるぞ! どうする。さあどうするのだ? 涙で罪は消えぬ! その手をどけてみろ! 顔を上げて答えてみろ! 懺悔くらい聞いてやるぞ。さあ!」
「うるさい! ホントうるさい! 意味わかんないから!」
「泣き喚けば償えるとは思わないことだ。お前は典型的な女だよ。お前の善悪は常に不公平だ。残忍さを好み、自分を歪んだ鏡に映して満足する。そして何といっても悲劇が大の趣味だ。何を気取っていたのか知らないがな。お前はいつでも自分で自分を慰める、普通の、つまらない、ありきたりな女だよ。消えろ! そして考えるがいい、自分がこれからどうすべきかを!」
「くっそ、死ねよ! ふざけんな! 誰だよ! 死ね!」
なんとも理智に富んだ捨て台詞を残して、彼女は走り去っていく。
彼女はこれからどうするだろうか。衆人の恐怖に気づき大人しく過ごすだろうか。それとも私の言ったように醜い自尊心で不安に反抗するだろうか。それにすら反して全てを投げ捨ててしまうだろうか。図々しくも変わらず日常を過ごすだろうか。全て法螺であることを冷静に見抜き誰かに相談するだろうか。
しかし私にはそんなことはもはやどうでもよかった。
「いやぁ、お疲れ様です、博士さん。あなたもなかなか酷いことをしますねぇ。彼女、しばらくは友達とこれまでのように話せないでしょう」
「あんなものただの法螺話だ。あの女にも興味は無いさ。虚構でも人生は狂うことがあるという教訓だよ。ところで末、君の感想を聞かせてくれ。私の演説は面白かったか?」
「それはもう。博士も随分楽しそうじゃないですかあ?」
「楽しいわけがないだろう。今にも吐瀉物が喉を上ってきそうだ。気持ちが悪い。なぜ私は改悛の期待も出来ないような女に時間を割いたのか。まったく分からない」
「そうですかあ? 演説中の博士さんの顔には演技以上のものがありましたよ?」
「楽しそうに見えたのなら、それは私が未熟者だというだけのことだ。子どもが虫を踏み潰して遊んでいるのと変わらない」
「上月さんを虫扱いですかぁ」
「笑ってやるな、私は別にあの女を貶めるつもりで言ったのではない。あれは普通の汚物だからな」
「これはまた酷い。博士さんはああいう人を否定したいだけってことはないですよね?」
「否定か。私が軽蔑しているのはこの社会だ。あの女じゃない。だからこそ私の言う普通とは、汚物なのだよ。一方であの女は自分から汚物になったわけではない。生まれついての汚物だったというだけのことだ。それが才能か障害かという議論に意味はない。否定も軽蔑もする必要はない。なにせ汚物だ」
我ながら下手な言い訳だと思う。
説教によるものなのか蔑んだことによるものなのか、私が悦を感じ高揚しているのは確かだ。
なぜ私はああも饒舌になっていたのか。
これでは、説教ではなく攻撃的な蔑みである。末は見事それを看破している。
「どうしましたあ?」
「いや、なんでもないさ。では瀬上宅まで頼む」
「ええ、ええ。構いませんよぉ。お釣りが来るほど素晴らしい劇でしたから」
「茶番劇ではなかったかな」
「それは誰を主人公にするかによりますよ。博士がそうなら、これは間違いなく茶番でしたねぇ」
「それも今後の展開次第だろう。逐次報告を頼む」
「ではお釣り分はそれでチャラということで」
「よほど気に入ったのだな」
末はニタニタと意味ありげな笑い声をあげる。やはりこの男との会話は気色が悪い。これ以上何も喋ってやるものか。
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