8 暗躍する偏屈者。2-上

まったくヒュプノスとタナトスとはよく言ったもので、全員がだらしなく瀬上宅でまるで死体のように、そして無秩序に転がっていた朝。


私は健全にも、早朝から瀬上さんの登校に連れさせてもらった。末は遅刻であろう。いい気味である。未成年が飲酒などするのが悪いのだ。酒がとにかく悪だとする世間の意見には納得出来ないが、ヤツに限っては例外である。


私達は例のごとく昇降口の辺りで別れた。あの怠慢な司書に不満げな顔で迎えられ、今日も私は図書館で本を読むことにした。この生活がしばらく続くのだと思うと、私はなんだか学生の頃に戻ったような気がして少し面白いのである。


毎日何のためになるのかもわからず愚直に登校し、教えられるままに授業を飲み込んでいた。私にとっては、授業も友達も遊びも、その全てが何の役にも立たなかったのであるが。


それを特に嫌な思い出とは思わない。

やり直したい、などと戯けたことも思わない。そもやり直したところで私には同じ道しか辿れまい。どうせまたあの下らない連中を見下すに決まっているのだ、くたびれ損である。私は疲れることは嫌いなのだ。


昨日借りた小説を返し、分厚い伝奇物の文字を追って何度目かの鐘を聞いた頃、瀬上さんが迎えにやってきた。


「時がすぎるのは早いな」と彼女に語りかけると、彼女はうっすらと微笑んだ。


今日もこれ以上ない平穏無事で退屈な一日だったと、押される車の上で嘆息していると、瀬上さんに話しかける影があった。


「あら? 瀬上。そいつ、だれ?」


背の高いスラッとした女生徒。

行く手を遮り片口角を吊り上げている。どうも友好な関係を築きに来たわけではなさそうだ。言うなれば……格好の獲物を見つけた狐といったところか。


その全身からは卑しい風が吹いているようであり、いかにも俗物の臭いが漂っていた。


穏やかではない空気だが、彼女は私ではなく瀬上さんとの対話を求めているようだ。私が口を挟むのは筋違いというものだろう。


「こんな部外者がなんでこの学び舎にいるの? もしかしてあんたの仕業? 大変。変な事件が起こったら全部あなたのせいよ?」


「博士はそんなことしませんよ」


「博士? なに、変なニックネーム。メイドごっこ?」


「いえ、違います。ところで、何の用ですか? 上月さん」


「……アンタ、話聞いてた? 部外者を連れ込むなって言ってんだけど」


「関係者ということで学校の許可はとってあるのだが」


つい口が出たが、これは必要な情報だろう。


「アンタには聞いていないの」


「そうか、そうであったな。これは失礼。──貴様ほどではないが」


「は? なにそれ」


「おや、今度は私に話しかけているのか? 何か用事だろうか」


「……馬鹿にしてるわけ?」


「それはこちらの台詞だが」


「ふざけんなよ」


「それもこちらの台詞だろう」私は大げさに首を傾げてみせる。


「このっ──」女は手を振り上げた。


「おっと、暴力か? 事件を起こしたのは私ではなく貴様だったな。残念だ」


「っ──」


「博士」


「ああ、これはすまない。つい悪い癖が出てしまった。行こうか」


「ごめんなさい、上月さん。悪く思わないでくださいね、彼の言うとおり、悪い癖なんです」


「はぁ? 待ちなさいよ!」


見逃してやろうというのに、弁え《わきま》の無い女だ。この女の発言には知恵も機知も礼もない。自分の愚かさに気がついていないのか。


姿形は多少良いようだが、それを鼻に掛けた貴様の心はスヴァルトヘイム地下の小人の世界の住人のそれと変わらないほど醜い。熱い鉄と金槌がお似合いだ。


「アンタ、わたしを誰だと思っているの?」


「知らぬ。私は部外者なのだろう? 何を期待している」


「この──」


「おいおい、そう易易と怒りを露わにするものではない。自分が相手より高貴だと主張するならばもっと余裕を見せ、徳を説き、感心を誘うものだ。間違っても罵倒など浴びせない。まあそう怒るな。少しは綺麗な顔をしているのに勿体無いだろう」


「アンタ、何様のつもり!」


「こちらの台詞だ。貴様は悪女ファムファタルでも気取っているのか。はたまたミンネを捧げられる姫君のつもりか。どちらでも構わないが、どちらも貴様には似合っていない。せいぜい強情女ベルタルダといったところだ」


「博士」


「ああ、すまない。行こうか」


「意味わかんないこと言いやがって、馬鹿が!──覚えておきなさい、瀬上」


「なぜ彼女なのだ? 貴様の自尊心を傷つけたのは私だろう?睨みつける相手が違うだろうに。瀬上さんはむしろ私をたしなめているのだ」


彼女の制止で私の衝動がどれだけ抑えられていることか、どれだけ貴様の矜持が保たれているかわからないのだろうか。


私は屁理屈をこねるだけが取り柄の空虚な人間だと自信を以て卑下できるが、それでもこの女の頭の中ほどではない。まったく下には下がいることがわかる。このような人間がいるから、私が自分の価値を見失えないのだ。頼むから消えてくれないものか。


「博士」


「すまない」


「ところで上月さん。何かわたしにご用向きですか? お手伝いしますよ」


「ふ、ふざけないで。瀬上、あなた明日からまた知らないわよ」


彼女は捨て台詞を吐き、待たせていたらしい男の腕をとっていずこかへ消えた。そこまでして突っかかる意味があったのだろうか。私にはそれらしきものはまったく見いだせないのだが。


騒々しい女に、らしくもない説教の徒労を費やしただけだ。しかもあの女はそれに学びはしないだろう。生産性皆無、くたびれ損である。


「では行こうか、瀬上さん」


「はい。……博士はとことん、悪癖持ちですね」


「とどめを刺したのは君だろう」


「そんなことありませんよ。わたしは用を訊いただけじゃないですか」


「いやいや、あのタイミングでは強者の余裕をすら感じた。──上月、というのか。あれは」


「そうです。わたしのクラスメイトです。まあ、博士にはどうでもいいでしょうけれど」


「いや、憶えておこう」


「それは……どうして?」


野分のわきに外をうろつくのも雷雨にうたれるのも性分ではないのでね。予報の情報は頭に入れておかねば」


「ふふっ」

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