4 暗躍する偏屈者。1-上
翌日、私は山道を瀬上さんに押され、上りは辛く下りは恐ろしい急坂の山を一つ越えて彼女の学校にやってきた。
「じゃあ博士、わたしはここで」
学校の昇降口で瀬上さんと別れる。
多くの人の行き交う場所での見送りの挨拶は、それ自体が淡白なものであっても人目につく。きっと彼女も、すぐに何かしら訊ねられて困り果てるに違いない。我ながら罪なものである。
「瀬上さん、あの人誰? 彼氏?」
「違いますよ。ただのニートです」
……さて、図書館はどこか。
校舎の案内板を頼りに進んでいくと、ガラス扉の向こうに半地下構造になった大きな空間を見つけた。スロープを降りて覗いてみると、なかなかに広い。高い天井にシーリングファンのある、二階建ての図書館である。
蔵書もそれなりに多いようだ。学校なので私好みの古い本があるかどうか不安だが、ここは外の寒さとは無縁の快適空間だ。しばらくはここに入り浸るとしよう。
「ちょっと、あなた」
「む」
ドアを開け、目の前の宝物庫へと入りかけた私を、司書らしき女性が呼び止めた。
「あなた、どう見てもここの生徒じゃないけど、どうしたんですか?」
「どうしても何も、本を読みに来たのだが」
「そうじゃなくて、あなたは誰なんです?」
「私はここの生徒の知り合いだ。……私が誰であろうと構わないと思うのだが。ここは図書館であり、人が本を読みに来るのは当然だろう」
「いえ、ここは公共の施設ですから、身分を証明し──」
「そう、正にそれ。ここは公共の場なのだから私が直接この学校と関わりが無くとも純粋に本が読みたいというのであればそれを受け入れる義務を持つ施設だろう。それとも、司書というのは読書を望む外部の人間を機械的に阻む仕事なのか」
「ここは学校です。生徒の安全のためにも、あなたが誰なのかはっきりさせないといけないんです」
「生徒の安全を謳うのであれば、厳重なゲートと、銃を持った警備員を配置するなどアメリカンな対応を取るべきだ。私にその責任を押し付けるのは勝手ではないか? それに、私を不審者扱いするのであれば、今ここで追い返すよりも、この図書館内に拘束し、貴女が監視する方が良いだろう。もちろん私は断じて不審者ではないが」
「……とにかくダメです。帰って下さい。使いたいなら事務室で手続きをして来て下さい」
「待て待て。それはまったく筋が通っていない。理由を明確にしてくれねば納得出来ん。貴女の言葉では説明不足かつ矛盾している。ちょ、ちょっと待て、私は本を──」
バタン!
「……まったく本の守手たる司書がなんたることだ。論理がなっていないだけではなく読者を拒むとは。何が生徒の安全だ。守ったのは生徒など誰ひとりとしていない、貴様一人の安穏とした空間の独占だけではないか」
まったく腹に据えかねるが、いつまでも文句を言っているだけでは凍えてしまう。私は至極素直に事務室に向かうことにした。
事務室は二階にあったが、都合よくエレベーターのある学校だったので特に困ることなく到着した。周囲の環境とは異なり、ここは近代文明の恩恵を充分に受けている社会である。
「図書館の使用許可を貰いたいのだが」
「生徒さんの関係者でしょうかー」
「瀬上さんの友人だ」
「わかりましたー。じゃあココにお名前をどうぞー」
「うむ」
「……はい、はい。じゃあどうぞー」
あっさりしたものである。生徒の安全が聞いて呆れる。本当にこれをする必要があったのか。社会というのは実よりも名をとる癖があっていけない。
無為な時間と行動の後、私はさきほどの図書館に戻ってきた。今度こそスルー出来るものだと踏んでいたのだが、またも呼び止められ口論になった挙句、司書はようやく事務室に連絡を取り、納得が行かない様子で私を受け入れた。
「さて、何か良い本は無いものか」
ふむ、蔵書はやはり学生向けのものが多い。図鑑や辞典、新書の数が多いようだった。しかしながら、私は本の中にまで現実社会との接点を求めるのは御免被る。
司書の恨めしそうな視線をよそに館内をしばらく徘徊し、最も心をくすぐられた『世界の作家』という棚から、薄い詩集を二冊と、イギリスの伝承についての本を一冊とった。
良い重みである。
その中で、ある言葉が妙に鋭く、天啓のように私の目に飛び込んできて、預言めいたその一節は
『「すてきですな。恋が美しい極地にあって、まだなんの汚点も持たない瞬間に、まっさかさまに山から落ちるのは。たしかに脚の一本くらい折る値打ちがありますよ。」と彼は言った。彼は笑いながらグラスを飲み干した。しかし「どうして作曲なんかする気になったんですか」と言った時には、彼はまた暗いもの思わしげな顔をしていた。』
私はその本を裏返し、控えめな装飾の表紙に記されたその題をしっかりと記憶した。
その後何冊か読み終え、車椅子の操作にも慣れてきた頃、少なくない数の生徒が扉をくぐってくるのが見えた。ふむ、カップルなどもいるようだ。彼らの甘い甘い胸焼けのする性根は気に食わないが、余暇を読書に使おうというその態度だけは認めよう。
学生の頃の私は、本などからっきしだったものだ。幾千幾万の世界が広がる世界を知らなかったのは、私の人生の中で大きな損害、大きな恥である。対象は過去の自分だが、これも無知の知に入るだろうか。あるいはアテネの神託は翻らないものか。
「おや、もう昼時か」
目頭を揉み壁にかかる時計を見ると、既に十二時を回っていた。
自分が来た時分にはもぬけの殻だった館内にも、少しばかりは文学少年少女の姿が見えた。
彼らは趣味・読書という、ありふれていながらも減少傾向にある貴重な生徒たちなのだろう。彼らのような者がもっと増えてくれればと思うのだが、あの怠慢な司書ではそれも期待出来まい。
まったくあの手の人間は「若者の読書離れが」などと騒いでおきながら、いざとなると自由・個性、という言葉を盾にそれを防ぐ手立てを取らない怠慢者なのだから滑稽である。若者のせいにすれば自分たちが正当化されるとでも思っているのだろう。世の中欺瞞だらけである。
他所事を考えていると、何度目かのチャイムが鳴った。気づけば館内には再び私だけ残っていた。優雅な時である。さて、と酒と麻薬を肯定するかのような反骨極まる異端の書物に手を伸ばそうとすると、不意に肩を叩かれた。
「おや、これは瀬上さん」
「終わりました。帰りましょう」
「早いな。まだ三時ほどなのだが」
私は目線をわざとらしく時計に向けて言った。
「今日は期末試験ですから、短いんです」
「なるほど。して、そちらは?」
見ると、瀬上さんの後ろに──私が言うのも何だが──線の細い、しかし意地の悪そうな垂れ目の、お世辞にも端整とは言えない顔の少年が歪めた口元に手を当て、体をうねらせて瀬上さんの後ろに立っていた。
「ああ、こちら末くんです。文房具を一式忘れてしまったので、隣だった彼に貸してもらったんです」
「それで、なぜここに?」
「事情を話したら手伝ってくれるというので」
「手伝う?」
「へへ、あなたのその車椅子ですよ。女の子一人で山道を押したり引いたりするのは大変でしょうからねぇ。へへへ」
「ふむ、そうか」
「博士、さっきから顔が怖いですよ」
「おっと、すまない。眼鏡が無いのでよく見えないのだよ」
指摘された私は、細めた疲れ目を閉じて指で揉む仕草をしてみせた。
「あれ? 見えてないんですか? 眼鏡落としたんですか、なんで作り直さないんです? もしかしてワケアリで?」
「瀬上さん。この遠慮も礼儀もない彼は一体何なのだ」
「何と言われても、他人以上友達未満です」
「ええ、そんなことないじゃないですか。近々で乳繰り合った仲でしょう?」
私はぎょっとしたが、瀬上さんはこの末とやらの方を向き直り、右手を腰に当て時をも止めんばかりの眼光で彼を睨みつけた。
「末くんが言っているのは、もしかしてあの卑猥なシャーペンのキャップの話ですか?」
「あ、もう。ネタばらしが早すぎますよ。へへ」
どうやら椀状のキャップをつけたシャーペンを彼は所持しているようだと私は瞬時に察した。そして彼はそれを瀬上さんに貸したのだろう。あるいは貸そうとしたか。いかんせん破廉恥な輩である。
普段は表情をさほど崩さない瀬上さんだが、呆れているのか憤慨しているのか、いつにも増して顔の色が消え失せている。
「サテサテ、それでは帰りましょう! こんな辛気臭い所とは早いところさよならバイバイですよ」
「瀬上さん、頭が痛くないかい」
「さっきから騒音がわたしの耳を劈いてます。耳栓はお持ちでないですか」
「残念ながら」
「本当に残念です」
「んん? ボクには何にも聞こえないですけど?」
「ああ、人間の多くは自分の見たいものしか見ないのだと大昔のシーザー皇帝も言っていたからな。きっと耳もそうなのだろう」
────
心配していた山下りの恐怖が私に襲いかかることはなく、私たちは至って無事に山を降りることが出来た。
「私が言うのも変だが、ご苦労だったな、末くん。少し休んでいったらどうか」
私は痛む足をさすりながら、精一杯の礼儀を以て心にもない世辞を彼に浴びせた。
すると、瀬上さんもそれに賛同した。 「そうですね。お茶でも」
「あ、ホントッスか。へへ。じゃあお言葉に甘えちゃおっかなあ」
瀬上さんが戸を開けると、末は遠慮せず大きく開いた目でまじまじと、じっとりと舐めまわすように中を眺めていた。指先をくねくねさせる様子は見ていて気持ちのいいものではない。彼はどうも変人という
「末君、相変わらずですね。何か興味を引くものでもありましたか」
「へへへ。今のところは何もー」
「博士、部屋で休んでいていいですよ」
「ふむ、ではそうさせてもらおう」
「あれ? お話しないんですか?」
「本を読みたいのでね」
彼は明らかに私の苦手なタイプと見受けた。彼と会話するのには骨が折れそうである。折る骨はもう無いが。
会話の相手役を瀬上さんに譲るのはなんとも忍びないが、彼女ならば末相手にも顔色一つ変えないだろう。
車椅子での移動で少し痛む脚を苦労してベッドに上げ、車椅子の後ろから本を取り出す。
そういえば、瀬上父は今日も仕事だろうか。
昨日はこのぐらいの時間には帰ってきたが……。
パーン!
窓の向こう、山の方から、張り詰めた冬の空気を引き裂くような乾いた音が響き、私はうっかり本を取り落としそうになった。
「今のは……?」
「今のはなんですかねえ?」
扉の向こうから末の楽しげな声が聞こえる。
「たぶん、父だと思います。今朝、猟銃を持って出て行きましたから。趣味なんです」
農作業では飽き足らず、わざわざ山に入って生命を射止めに行くのが趣味とは。私には猟奇的にしか思えないのだが、まあ致し方あるまい。本性に、他への攻撃性の強い加虐体質を持つのだろう。そういう人も決して少なくはない。
私には理解出来ないが、それを否定するのもはばかられる。人間誰しもが
私にも、自分の仮面の付け外しと新たな仮面を生み出すことに悩んだ時期があった。しかし、隔絶した世界では無意味な懊悩だったと今では思う。
なに、彼の紳士に関しては私の方から距離を取れば良いだけのことだ。これまでしてきたことと、何ら変わりはない。
「面白そうですねえ。ボクも一度連れて行ってもらいたいです」
「末君はうるさいですから、無理だと思いますよ」
「あらら。では、ボクがあなたに撃たれるというのは? 射止めてくれても構いませんよ? ウェルカムマイハートと出迎えてさしあげます」
「末君に自殺願望があったとは知りませんでした。でも私は自分の手を汚したくありませんので大人しく自殺して下さい。あ、でも自殺幇助なんかに巻き込まないでくださいね」
「これは手厳しい」
雑音をシャットアウトし、借りてきた本に神経を集中させる。実家の隣で大きな工作機械がアスファルトを耕していた時も、私は変わらず本や株式に意識を向けていた。そういえばそれもこの冬の時期だったような気がする。
部屋が恋しい思いはまだまだある。こんな本数冊で慰むものではない。ifを言っても何にもならないのは分かっている。後悔が先に立たない世界を恨み、それを私はせめてもの抵抗とするのである。
「博士さ~ん」
しばらくすると、話すことも無くなったのか、末がニヤニヤと私の部屋を覗きに来た。
この男の笑みは、どうも生理的に受け付けかねる。
「君か。瀬上さんは?」
「ダイニングにいますよお。それより博士さん、お話でもしませんかあ?」
私が本を読んでいるのが見えないのだろうか。
これみよがしに音を立てて頁をめくる。
「何を話すというのかね。出会ったばかりで。先ほどの礼ならもう述べたハズだ」
「そうですねぇ、例えば、博士さんがココに来た道程とか」
「それなら一言で済むぞ。私は拾われたのだ。瀬上さんにな」
「拾われた。ほう、面白いですねぇ。一体何があったので?」
「攫われて、捨てられただけだ」
「ほほぉう! これがホントの捨て子ですね。随分大きな子どもですが」
喧嘩なら他に売ってくれ。気が滅入る。なぜ私が身の上話のようなことを喋らねばならないのか。この男は私に興味を抱いるように見えて、きっとその実はそうではない。
彼にとって私は瀬上さんに近づくための口実だったに違いない。気を使って牽制せずとも、私ではなく彼女に話しかけていればいいのだ。私は若人の恋路を無粋にも邪魔したりはしない。興味が無いのだ。まったくこの会話には意味が無い。こういう時間が私は一番嫌いなのだ。手元には未知の知識世界があるというのに、なぜ無為な時間を過ごさねばならないのか。
それでも相手にするのが俗に言う付き合いというものなのだろう。だから社会などごめんなのだ。
「あれ、怒っちゃいました? 冗談です冗談」
「私は怒らないよ。君たちとは隔絶しているからな」
怒りはしないが、代わりに人並み以上の批判を私の感情の落とし
「隔絶とはまた大袈裟ですねぇ。しっかしなぁるほどあなたは博士の名にふさわしい偏屈だ。瀬上さんの命名センスは大したものですよぉ」
末は一人納得して口元を歪める。口角を吊り上げ、歯を見せるように笑う。
ふむ、猿の威嚇にも見える。そうだ、私はどうもこの男に猿のような野蛮性を感じているのかもしれない。
好き勝手に生き、好き勝手にかき乱し、好き勝手に楽しんでいくような、無遠慮さを私は嫌っているのだろう。彼と分かり合うことは、きっとあるまい。
「その脚、折れてるんですよね?」
「ああ。これが治らねばここを出て行くことは出来ない。色んな意味で気が引けるのだが、しばらくはここで世話になるしかない」
「となると、半年くらいですかねぇ」
「そうだろうな。とにかく働いて世話になった分の金を返さねばならん。本来なら労働などまっぴらごめんなのだが」
「それはそれは。ご愁傷様、というのも変ですかねえ」
へへへ、と大きな目を線にしておかしそうに笑う。
ああ、我ながら冗長であった。
「君は、帰らなくていいのかね」
「いやあ、それが実は晩御飯まで頂くことになっちゃって」
べー、と舌を出す末。
となると、私はこの男の顔を今しばらく眺めておかねばならないのか。それは、正直御免被る。本を読みたいという欲求よりも、この男による生理的悪寒からの脱出への希求の方が私の中で大きくなりつつあるぞ。
「外の空気が吸いたくなった。ちょっと散歩にでも行ってくると瀬上さんに伝えてくれ」
「え、でも確か、目が見えなくて腕も折れてるんでしょう? 危ないですよー」
悪い視界。左腕と両脚は使い物にならない。加えて車椅子というのは扱うのになかなかコツがいるようで、まだ慣れない。確かに一人で出歩くのは危険だろう。
だが、この末という男の心配は口先だけのように思えた。
「大したことはない。この家の辺りをぐるりと見たいだけだ。それに、私がいなくなれば好都合だと思うのだがね」
「何を言ってるんです?」
人によっては冷淡非道に思われるかもしれないが、私は別に女を襲うのを外道とは思わない。そこに理由があれば、それはそうなるように出来ていたのだ。運命論など馬鹿げているが、社会よりはよほど信じる価値があるだろう。それに、諦めは肝心だ。
苦労して車椅子に移る時も、末は少しも手伝わなかった。
私が言うのもなんだが、この男は普通の神経を持ち合わせていないようだ。
外に出ると、空は赤くなっていた。昨日よりかなり厚着──服は瀬上父のものらしいものを借りた──なのだが、やはり肌寒い。
川のせせらぎは今日も変わらず澄んでいる。広い畑の向こうの山々は檻のようで、ここが牢獄のようにも
清々しい風景は私への皮肉だろうか。外はどこでも同じだ。こんな風に姿を偽っても地獄は地獄である。開き直ったように煩雑で
憂鬱に暮れるにのにも飽き、家からそこそこ離れた所で本の続きを読んでいると、主人公の脱獄囚が背中に榴散弾を受け錯乱しているところで声が聞こえた。
「おーい!」
誰かと思って見やると、昨日の──ヤマさんがこちらに走ってきていた。
背中に猟銃を担ぎ、脇にも何かを重そうに抱えていた。瀬上父の猟に同伴していたのだろうか。とすると、あの抱えているものがその成果だろうか。大きな獲物を自慢しにでも来たのか。
ヤマさんが近づいてくると、私の予想はほぼ当たっていたことがわかった。彼が抱えていたのはそれは大きな獲物だった。だが、どうやら自慢しに来たわけではないようだった。
「あんちゃん! 嬢ちゃんはいるかい!」
悲痛な声で叫ぶ彼は、獲物──瀬上父を引きずりながら、泣きべそをかいていた。
フレンドリーファイアという言葉が私の脳裏を過ぎった。
一瞬身体が硬直し、自分でもわかるほど目を見開いていたが、ヤマさんの方は既にかなりの冷静さを欠いているようだった。何も考えられず、とにかくここまで運んできたのだろう。この様子ではロクな対処はできまい。
「落ち着け、あー、ヤマさん。おい、聞こえているか」
「あ、ああ、大丈夫だあんちゃん。俺は、俺は──」
「うるさい、喋るな。いいかよく聞け。瀬上さんなら家の中だ。一緒に男がもう一人いるから、家についたら大声で二人を呼んで三人で慎重にベッドまで運ぶのだ。そこで服を脱がせ、傷口をキツく縛るのだ」
ヤマさんは、早った下手な鐘のようにうんうんと頷く。
「一度縛ったら緩めるな。そうしたら貴方ともう一人の男は、大量のお湯と清潔な布を用意する者と、医者を呼びに行くものに別れろ」
「運んで、縛って、お湯と、布と、医者……」
「そうだ。いいか、落ち着け。待て、これを使え──っと」
私は右腕で車椅子から身体を持ち上げ、自ら地面にべしゃりと落ちた。
「瀬上父はこれで運べ。急ぎすぎて落とすなよ。なるべく揺らさずに行くのだ」
「お、お、おう」
瀬上父を乗せた車椅子を、ヤマさんが押していく。家の近くで私まで聞こえるほどの大声で瀬上さんたちを呼んでいる。
必死な彼には悪いが、当たり所によっては即死というのもありえる。
ヤマさんが何と見間違って瀬上父を撃ったのか知らないが、そんなものは言い訳にもならない。彼は自責に駆られること間違いないだろう。
仮に瀬上父が生きていたとしても、彼らの間には大きな溝が開くはずだ。少なくとも、二人とも猟銃は捨てるだろう。でなければ私は彼らが
動かない両足と左腕、くじ抉いた右腕を地面に放り投げていると、ヤマさんと末が家を飛び出す様子が見えた。
ヤマさんは相変わらず走ればコケそうな慌てぶりだが、指示を受ける末は今にもスキップで駆け出しそうな風であった。川の水を汲みに行ったようだが、この上流の水であれば衛生面に問題はなかろう。
私はそれらを眺めながら、急ぎ打つ心臓の音とは裏腹に、特に心配も感慨もなく、地面に肘をつき痛む身体で本を読み進めるのだった。
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