9 暗躍する偏屈者。2-中

翌日から、なにやら瀬上さんの様子がおかしかった。


朝には綺麗だった制服に、帰宅時には泥をかぶって帰ってくるのである。


本人は特にそれを気にしている風でもなく、「車に泥をはねられてしまいました」と端的に返すばかりだ。この村のどこにそんなに車が通っているというのか。


その後も数日間、瀬上さんは同じ調子で転んだり山道で猪に追われたり、はたまたツチノコ狩りに田畑を駆けたりした。


今日はいよいよ早退するといって、彼女は午前中の内に迎えにやってきた。やはり頭からつま先まで泥を被っていた。彼女曰く、季節外れの熊に襲われたらしい。


嘘は構わないが、そんな格好で迎えに来られては困りものである。


「それはそれは、災難だったな」


私はとぼけてみせる。

事情も文脈も知らぬ人間が、深入りするつもりはない。


「はい」


「しかしこれは酷い。派手に転んだのだろう。怪我は」


「大丈夫です。さあ帰りましょう」


「ふむ、そうか」


さらに翌日には、大雨の中、柄の根元から折れた傘を持って校舎を出てきた。


「すみません、折れてしまいました」


「……そうか、折れてしまっては、それは、仕方ないな」


「帰りましょう」


この日は、二人でずぶ濡れで山道を下った。


これは私の怪我によくよく響いた。冷えた傷は、ジンジンと体の奥を押し広げるような鈍い痛みを感じさせた。


そして瀬上さんはというと、この濡れ鼠が祟ったのか風邪で寝込んでしまった。これでは学校にも行けない。まさかブードワール部屋で寝ている彼女を無理矢理起こした挙句押してもらうわけにもいくまい。


さてところで、である。

懸命な諸君に問うまでもなく、また彼女の下手な嘘に問うまでもなく、普段の瀬上さんのきびきびした働き振り、器量の良さから察するに、さすがに何日も続けて彼女があのようなドジを踏むことはあるまい。


ただのよそ者の私が勘ぐるのも妙な話である。


が、他ならぬ瀬上さんのこと、散々世話になっている負い目から少々気にかけても、それは私がそうしているのではなく自然と生まれ来る感情といえるのではないだろうか。


行動の主体が私ではなく私の感情にあるのならば、それはもはや私の責任を離れている。


「ごめんくださーいぃ」


昨日から降り続く雨の中、玄関から嫌な声が良いタイミングで聞こえた。

この偶然、私は微笑まずにはいられなかった。


────


「まったくう。今日は瀬上さんと一緒に登校しようと思ってたのにー。博士さん、重いですねえ、あなた体重何キロですぅ?」


「私には脂肪も筋肉もあまりない。軽いものだよ」


「あー、博士さん運動とかしそうにないですもんねえ。ダメですよお? 若いうちに色々しとかないと。若さこそこの世で一番ですから。ふふふ」


「君のような人間が快楽主義者なのだろうな。その内、感覚だけが魂を潤す、とでも言い出すだろう」


「あ、それ良いですねえ」


「これは余計なことを教えてしまったかもしれない。君は若き美少年アドニスを汚すようなことはするなよ。……ところで、末君」


「はい?」


「少し、君に働いてもらってもよいだろうか」


「別にイイですけど、何するんですか?」


ニヤついた声だ。


「分かっているのだろう。ここのところの瀬上さんについてだ」


「やっぱりそれですか。彼女の身に何が起こっているのか調べてこいって言うんでしょ」


「そうだ。察しがいいな。まあ大方の察しはついているが。……金は一日一万。それ以上は出来高しだいだ」


「お金がもらえるんですかあ? それはそれは、嬉しいですねえ。お金なんてもらった日には、ボクはいい仕事をしますよお、へへへ」


「快楽主義者は仕事も一流でなければダメだからな。早速今日からお願いしたい」


「えー、明日からじゃダメですかあ? 今日は楽しみにしてる番組があるんですけどお」


「報酬を今私が考えているところから三割下げてもいいならば」


「今日から働きます」


「よし。だが、役に立たない情報ばかりならば払うものも払わんぞ」


「だいじょうぶですよー。任してくださいっ」


図書館に着いたところで末は楽しそうな顔をして走り去っていった。


ふう、と息をつき、車椅子の足掛けに力なく乗っている脚をさする。

どうもあの男の操縦だと足が痛くてかなわない。やたらと前輪が小石を踏みつけ、骨に鈍痛が響くのだ。


痛みと司書の顔に気分を落としながら、私はもはや定位置となった館奥の机の一角についた。あまり気の進むものではないが、これからしばし、仕事である。


────


その日、瀬上宅にて、私はせせらぎしか聞こえない屋外に瀬上父を連れ出した。


寝込んだ娘を慣れないながらに看病する、いかにも田舎の頑固者らしい父親を、まったく私らしくもない、今から説得しようとしているのだ。面倒なことこの上ない。


しかも、私がやろうとしていることは金の無心であった。


「紳士よ、娘のために金を使う気持ちはあるか」


「なんだ、急に」


「私は、使った方が良いと思うのだが」


「そんなもの当たり前だ。それがどうした」


「私はこれから、瀬上さんのためにあることを行う。しかしそれには少し金が要ることになった。しかし瀬上さんに請求するわけにもいかない。紳士、あなたが出してくれ。さほど多くはない」


「何を言っているんだ。金を出せというのなら、お前の借金に加えるぞ」


「あなたの娘のためだ。私のための金ではない。私に付けられては困る。私は断られても大して何も困らないのだ。むしろ私は無関係なのだからな」


「何の話をしているんだ。理由も話さずそんな無心をして、出してもらえると思っているのか」


「紳士よ、貴方も父親ならば娘のことくらい察せ。最近の彼女は少しおかしくはなかったか? 私は、そのワケを貴方に知らせない瀬上さんの意図を測りかねているが、それが彼女の選択なのだろうから、私からは何も言わない」


「ダメだ。物言わぬものが信用されると思ってはならん」


「ではこれはどうだ? 借金にしてもいい、私はその借金を娘のために使ってやる。私はそれを貴方への貸しとする。それでチャラだ」


「煙に巻こうとしてもダメだ。お前が今やっていることは強盗に等しいのだぞ」


「強盗? はっ、私にとって最悪な言葉だ。私は最近それを世界で二番目に嫌うようになった。私は強盗のような無礼も不利益も誘拐も働くことはない。なぜならば私は労働が嫌いだからだ。彼らは愚かだが、私よりも勤勉だよ。だから私は強盗ではない。私が貴方に持ちかけているこの話は、私が労働を働くのではなく、善意を働くことについてなのだ」


「ぼうず、お前の話は全然わからん。何を言っているんだ」


「金を出したほうが娘の身のためだと言っているのだ。強盗ではない」


「物言いの違いがわからん」


「わからず屋だな貴方は。私の善意が変わらない内に決めた方がいい。私以外に彼女の問題をどうにか出来る者はいないのだから」


「それが何のことなのかと言ってるんだ。説明しろと言っているだろう」


「その質問には答えた。瀬上さんの意志を尊重して黙秘しているのだと」


「何かあれば娘は相談してくる」


「ではそれは貴方の思い違いだ。貴方は自分の娘のことがわかっていない。いや子どものことがわかっていない。あなたの時代のように、正直に生きていれば革命を成し遂げられたような頃とは違う世界なのだ、この現代は。それともあなたは傲慢に満ちた革命を良しとした旧い人間で有り続けているのか」


「何の話だ。要領よく話せ。娘に何があるというのだ」


「貴方は娘を愛していないのか」


「馬鹿を言うな」


「それはそうだろう、貴方は子どもを省みるまともな親なのだからな。だが……やはり貴方は旧い。思っていることとやっていることが違う」


「何も話さず文句ばかり言うのであれば、金など出さん」


「そうやって硬直していくがいい。だがそれは貴方の目を曇らせるぞ」


「先から誰に口を聞いている」


「瀬上さんの父親だ。貴方が次に『誰がここに住まわせてやっていると思っているのか』と問おうとしているならば、私はそれにあなただと堂々と答えよう。だが同時に瀬上さんでもある。私の支えである貴方の収入と瀬上さんの頑張り、その2つだ」


風が吹き、ざわざわとあたりに音を立て、ピタリと止んだ。


「これでも家長のあなたには敬意を払っているのだ。それに、言わせてもらうならば私は貴方に頼む前にここに住まうことになった。心配りはありがたいが、自分の意地のためにそれを追い出したいというのならそれで構わない。──」


「──それは当然の権利だ。私たちの間には何の契約もない。その時は私は貴方の目の前でそこの川に身を投じよう。私は手足もロクに動かなければ折りたたみの帆船スキドブラドニルの類いも持っていない。息つくまもなく溺れ死んでやろうとも」


「馬鹿なことを」


「私が意地になっていると思っているな。そうだろう? だが、それは私から見た貴方と同じだ」


「お前が娘にそこまでするとして、その理由はなんだ」


「……恩は働いて返せと言ったのは貴方だ、紳士よ」


そこで彼は悩ましげなオージンのように腕を組んだ。

相変わらず背筋はピンと伸びている。歳に見合わぬこの若さ、黄金の林檎を碧眼の女イズーナから受け取っているに違いない。


「……良いだろう。事情は聞かん。だが金を使うところは見せてもらう。私用ならばその場で取り上げる。そして買ったものは使った後、全てこちらに引き渡せ」


「担保というわけか。だがそれで構わない。私達にメリットは必要ない。それは瀬上さんのものだからな」


そこで私は未だに心底から納得の行った様子ではない瀬上父に笑いかけた。


「なに、そろそろあの男が来るはずだ。瀬上さんには悪いが貴方の疑問はそれで解消される。隠しておいてな何だが、これは親権を持つ貴方が知るべきことだ。……まあ、その疑問は不安に変わるだけかもしれないが」


そこで突然、山の方──学校の方角──から、あの気に食わぬ気持ちの悪い声がその訪問を告げた。


────


「あなた、自分が何したかわかってるんですか?」


数日後、私は瀬上さんの学校にいた。図書館ではない。

部外者、それも問題を抱えてきた者として来客室に通されていた。


「貴様こそ、自分の生徒が何をしているのかわかっているのか? 残念だがいま貴女が睨むべきは私ではない。」


目の前でやたらと眉間にしわをよせて私に明らかな敵意を向けている女性は、紹介によると、瀬上さんの担任教師とのことだった。


「外部の人間がこんなことをして──」


「内部の人間ならば許されるか? 尚更許されんだろう。であれば、貴様たちの誰がこの正義をしただろうか? 誰もしないだろう。それは正しい。貴様たちにも生活があるからな。ならば出来るのは外部の人間がやるしかあるまい」


人間は所詮人間である。

いくら民主主義を謳っても、体を張って組織の自己改革に取り組もうとする異分子を演じる魂の貴族はこんな場所にはいない。


この連中の妄執パラノイアは全て自分と同一視したその身分と自分の関係が保証されるところにのみ生まれるのだ。愚かにもその同一視した身分が社会的な歴史と信頼によって保証されていることを忘れている。


「今はそんなことを言っているのではありません」


「そうだ、こんなことを言いたいわけではない。貴様の生徒が貴様の生徒にこんなことをしている。そして彼女は寝込んだ。あの大雨でな。これを問題視しているのだ」


「そうではなくて──」


「そうではない?」


私は大仰に腕を振り、首を振る。


「そうではないとはどういうことだ! 貴様は本当に教育者か! 守るべきは子どもよりも規則か! 下らん。貴様に教鞭をとる資格などない! 恥を知れ!」


「まあまあまあ、ちょっと落ち着いて」


担任教師の隣に座る禿頭の太漢──これがさらに上の、教頭という地位にある人間らしい──が口を挟んだ。


「いえね、教育云々の前にあなたは犯罪を犯しているんですよ」


「まるで婉曲な権力者の物言いだな。いつでも私を潰せるとでも言うような。……良かろう、潰すがいい。どこへなりとも突き出せ。私はそれをしかるべきところで反省しよう。だがそれはあとの話だ。貴様らはこの情報から何を反省するのか」


私は、動く方の手で机を指して叩いた。


「……はぁ」


まるで厄介なものを見るような目で二人は私を見る。


ああ、私は確かに厄介者だろう。だがその厄介の対象に、今机にのっている写真やデータまで入っているのが気に食わない。まったく腐っている。気味が悪い。


これだから社会は汚物にまみれているというのである。汚物に教えられたものが汚物にならないわけがない。継承された汚物が社会を構成する。世界は隅々まで汚物まみれだ。私の部屋サンクチュアリに篭っていた私は、皮肉にも外に出て篭る理由を再確認した。やはり私を生み出したのは私ではない。


「今回は見逃してあげますから、二度とこんなことしないでくださいよ」


「私はそんなことを求めていない。厄介払いをするなら私ではなくこの下手人にすべきだ」


私は苛立ちをアピールするように、机を小突き続ける。


「確かに日頃から問題の多い子ではありますけどね、そんなこと関係無いんです。あなたは自分が何をしたかわかってないんですか」


「本当にね。いい加減にしないと警察呼びますよ」


「そうするがいいと言っている。私には反省の準備は出来ている。その上で、そちらはこれを見て思うところはないのかと聞いているのだ」


私はあらためて、自分が持ち込んだ、机上のものを指す。


そこにある複数枚の写真には、瀬上さんの机、ロッカー、下駄箱などに、何やら到らぬ悪事を働かんとする者と、まさにその瞬間が写っていた。


データの方は、それを補強する内容、すなわち映像を映したものだ。不貞をはたらく下手人は瀬上さんと同じクラスにいたという発見である。それを彼らの下に持ち込んだのである。


有り体に言えば、いじめ現場と下手人の証拠だ。そして彼らの指す「犯罪」とは、これを収めた盗撮行為のことである。


もちろん私がこの足でこれら全ての作業を完遂出来るわけはない。下手人探しの下手人は末である。これらを彼から受け取った時、私は失望以外の何物も得そうになかった。


周囲への失望はいつも私の思考を正当化させていく。

この感覚が死ぬほど気持ち悪い。


「……はぁ。わかりました。瀬上さんは優秀な生徒らしいですからね、一応気にかけてあげますよ」


私にはこの男の言葉の真意がわからない。とは、何を考えているのだ? いや、何も考えてはいないのだ。


あえて言うならば、どうこの場をはぐらかすか、ぐらいのものだろう。社会そとにはこんな唾棄すべき人間ばかりだ。


「ふざけるのもいい加減にしろ。貴様らに誠意というものはないのか」


「犯罪者の方に言われる言葉ではないですねえ」


「またそれか。同じようなことしか言えんのか。ならば私も同じような問いを返そう。いま本質はどこにある? 私の罪か。違うだろう。それは私に預けてくれればいいのだ。懺悔も償いも、それは私の役目だ。貴様らはどうするのだ」


「瀬上さんの件は充分配慮させていただきます。今後このようなことがないようにね。全校集会での注意喚起も行います。なので今日のところはもうお帰りください」


「そうだ、それでいい。さあ警察を呼ぶがいい。犯罪者はここにいるぞ」


「もうお帰りください」


「貴様は自分の言葉をもう忘れたのか。そんな頭でよくも指導者になれたものだな」


「もういいですから。お帰りください」


「私が車椅子に乗っているからと遠慮しているならそんなものは無用だぞ。障害者というわけではないのだからな。手負いの犯罪者ほど簡単な標的もいまい」


「いや、いいですから。もう出て行ってください」


困った様子で禿頭を掻く教頭。隣ではやはりため息をつく担任教師が私を睨みつけている。


敵は私ではなく貴様ら自身だということになぜ気づかないのか。貴様らの精神はこの間も見る間に汚れていっているというのに。


「そこまで言うのなら引き下がろう。だが私は腕も折っていてな。一人では帰れない。使いの者を呼んでもいいだろうか」


「好きにしてください。さ、先生。私たちも仕事に戻りますよ」


「入ってきて良いそうだ」


「……そうか」

私の合図に扉を開けて入ってきたのは、


「おはようございます、教頭先生。はじめまして。私、瀬上の父です」


「せっ!? ど、どうも」


「お、お久しぶりですね、瀬上さん……」


「待たせて済まなかった。扉の向こうは冷えただろう。老骨には響いたかと思うが」


「怪我人に言われたくはない」


「ふむ、それもそうだな。ともかく、約束通り使は見せたぞ」


「そうだな」


淡々と切り返す瀬上父だが、その視線は私ではなく教師二人を見下ろしている。いつもの畑仕事の姿ではなく黒服を着込んだ紳士の言外の圧力である。これで少しでも自分たちの立場を傲りを捨てて省みるがいい。


貴様らに教壇で高説を垂れる資格はもはやない。いや、初めから無かった。勤労者の怠慢ほど醜いものもないのだ。貴様らには青襟さえ荷が重い。所詮、指導者の器ではないのだということを肝に刻むがいい。


────


その帰途、山道で待ち伏せしていたらしい末に出会った。


「博士さん、どうでしたあ?」


「悪くなかったさ」


「さすがですねぇ。では代金の方は?」


「ああ、事前に知らせたもので妥当だろう」


「へへへ、ありがたいことですー」


「ぼうず、人の金を自分のもののように言ってはならない。出すのは私だ」


「失礼。貴方も了承していた額なので」


「あの手は、あまり好ましい手ではなかった」


「それで貴方はあの教師たちに何も言わなかったと? 紳士、貴方は義を持たない者にまで義を向けようとするのだな。ああいや、責めているのではない。それは貴いことだろう。だが、それとは違う方法を、今回のことで知ったのではないか?」


「ぼうず、最後にもう一度聞く。なぜ私の娘のために危ない橋を渡ったのか」


「何を言っているのか。私は最も理に適った選択をしただけだ。世話になっている瀬上さんが解放され、私は貴方から恩という一定の評価を得る。あなたはそれを無視出来る人間ではないだろう。いま私がこうして指摘しても貴方は図書館インデックスのように、所蔵した義を忘れることができない」


紳士はフンと鼻を鳴らした。


「それに、私はあれを危ない橋だとは思っていない」


「なに?」


「私にはその質問こそわからない。いったい何が危なかったのだ?」


「お前は捕まってもおかしくなかっただろう?」


「当然だ。私は捕まるようなことをしたのだからな」


「なら──」


「だが、ことを大きくすることは彼らも望まないはずだと踏んでいたのだ。あそこで警官を呼んだとしても、机の上には証拠品が並んでいるし、その証拠品は全てコピー元が残っているかもしれない。穏便に済ませたいと思うはずだろう。」


紳士は呆れたため息を吐き、末が笑った。


「それに私は、やむを得ず、ではなく自ら選択して罪を犯した。一方で私は、罪を悪とは考えていない。人間の闇が絡んだ法など恐るるに足らない。法が下手人を守るならば、それは法こそ自然の法を犯しているのだ。そんなものを破ることのどこが危ないというのだ?」


「そういうことではない」


「そうか? それからもう一つある」


私はピンと人差し指を立てた。


「仮に読みが外れ、私が獄屋の鉄柵の内に移されるという最悪と思われる事象についてだ。それは一般的には恐怖や絶望の代名詞なのだろう。だが私にはあそこが苦痛に満ちているとは思われないのだ。──閉ざされた環境。隔絶し更生という倫理を求められる世界。皮肉なことにあの中こそがこの世で最も綺麗な場所なのではないかとさえ思うのだ」


ここ以上に汚い所はないと思った時、誰でもそこから脱したいと思うことだろう。私にとってのそれがサンクチュアリ部屋であり、セカンドベストとして牢獄、なのだ。まあ、隣の芝を羨んでいるだけかもしれないが。


「……博士さん、結構グロテスクな物言いをしますねぇ」


「今更な話だ」


「末君に賛成だな。ぼうずの考え方は捻くれに捻くれている。そのうちねじ切れてしまうぞ」


「今更な話だ」


────


翌日である。


言うまでもないかもしれないが、私は、あの教師の皮を被った栗鼠ラタトスクのごとき人間たちの言うことなど信用していない。全く、針の穴ほども、いや先端ほども、である。


怠慢の染み付いた地位ある者。挺身の仕事中毒者ワーカホリックと対照にある者の言葉は装飾が多く、その本質はしばしば見えづらい。


そこに何か培われた価値があるのではないかと人も社会も期待するが、何のことはない、大抵そんなものは彼らの中には存在しない。本質に価値があるなら飾り立てる必要などないのだ。


卑屈な虚栄を張る人間たちが、社会へのより一層の承認を求めて不健全な飾りで空虚な自分を隠す。


だが私にそれは通用しない。

彼らは虚偽の信用を築いていない人間には無力だからだ。


放課後の時間、末が瀬上宅にやってきていた。

「全校集会が行われたら、そこでの話を私に聞かせろ」という契約を結んでいたためである。無論、費用は瀬上父持ちだ。この手足の快復後が恐ろしい。


「瀬上さんは、まだ寝てらっしゃるんです?」


部屋を見回した末が言う。


「ああ。まだ快復途中だ。それはそうと、ここに来たということは、全校集会が開かれたのだな?」


「ええ、ありましたよ。でもねぇ……。いやぁ、博士さんが契約の時考えてたことがわかりましたよー。ただねえ」


「なんだ? 金の問題ならもう私の手を離れているぞ。瀬上父に直談判することだ」


「いいえ、違うんですよお。別に不満なんかじゃないんですけどねえ」


「ならばなんだ。君がお慕いする瀬上さんが酷い扱いをされたことに腹を立てているとでも?」


「まあそれも無くはないんですけど、へへへ」


「なんなのだ、歯切れが悪い」


「いえ、怒らないで聞いてくださいよ? ボクには博士さんが少し気持ち悪くなってきたんですよ」


「なに?」


「博士さんの考え方、聞いてると、博士さんはネガティブなりに正しいことを言ってるような気がするんですけど、でもそれはだれが聞いても変な理屈なんですよ。捻くれてるっていうか。でも実際博士に使われてみると、結構それが当たる。これがすごく気持ち悪い。なんで博士さんはそんなんなんです? 普段は本ばっかり読んでる静かな人なのに、動き出すと急にビックリなことをやるし。あなた何なんでしょうねぇ?」


「まるで私が預言者か何かのような言い草だが、それは違うぞ。私の価値観が正しかっただけのことだ。この世界は汚い。それだけを軸に私は回っている。ただそれに反しているだけだ。そして預言者のように世直しの行脚には出ない。私はそんな器ではない。私は私の安寧が保たれていればそれで満足なのだ」


「やっぱり博士さんの言葉はよくわかりませんねぇ。何だかもやもやしますよ」


これ以上話しても、私の考えが末に理解されることはないだろう。そも理解される必要も無い。


「それで、集会は」


「ああ、そうですね。まあ、聞いてもらった方が早いでしょう」


そういって末が取り出したのは、小さな録音機器。慣れた手つきで末が操ると、マイクを通して響く声が聞こえてきた。


「肝心のとこまで飛ばしますよぉ」


「うむ」


「えーとお……この辺だったかな?」


末が指を止めると、昨日聞いた男の声が聞こえてきた。


『──と、いうことで、そろそろ全校集会を終わりたいと思います。


──えー最後にもう一つ、皆さんにお知らせがあります。大事なことなので、よく聞いてください。えー、先日、何者かによって校内に、複数の盗撮カメラが仕掛けられていたのが発見されました。


これは先生方の報告で発覚したものです。現在警察への捜査依頼を検討しています。速やかに対応したので、これによる被害……心配はありま……更衣室や、……靴箱────』


段々と大きくなる生徒たちのざわめきに、教頭の声は聞き取れなくなっていく。


「先生方は、今回のいじめの件については、集会で何も言いませんでした。注意喚起したのは盗撮の件だけ。──博士さん、何笑ってるんですか?」


「いやいや、これは苦悶の笑みというやつだよ。予想以上だ。まるで喜劇ではないか! いや、もはや喜劇ですらない。茶番だ。奴らの、奴らによる奴らのための茶番に他ならない! なあ末」


私の言葉に、末が目を合わせた。


「これがありがたくも教育者だそうだ。はは、笑えるじゃないか。なんとも愚かしい! 問題のすり替えどころじゃないぞ。上に蓋をしたのだ! そのさらに上に、重石のように既成事実を作り上げようとしている! そうか彼奴らにかかるとこういうことになるのか。面白い! 面白すぎて泣けてくるぞ!」


「そんなに面白いですかあ?」


「まあ、仕方ない。普通に考えて、彼らがいじめを認めることはできないさ。社会て地位に縋る汚物なのだ。ともかくこれで学校側の指導・矯正は期待できないことがわかった。残っている選択肢は一つしかないな」


「何ですか?」


「末、手紙を書いてくれ。ラブレターでも挑戦状でも構わない。あの写真を同封して例の下手人の靴箱にでも入れておけ。呼び出しは学校の昇降口の目の前だ。時間は明日の放課後すぐ。瀬上さんが登校出来るようになる前に済ませる」


「瀬上さん、明日もまだ来れそうにないんですかあ?」


「いや、さすがに明日にはもう治っているだろう。私がもう一日だけ様子を見るよう進言しておく。幸い、瀬上さんは何が何でも学校に行かなければならないと言うような人ではないからな」


「そーですか。でも、手紙は博士さんが書いたほうがいいんじゃないです?」


「私が書くと文面に怒りが滲み出そうだ」


「確かに。これまたよくわからない手紙になりそう」


「では、明朝も迎えを頼む」


「いいですよお、代金さえ貰えれば。それじゃあグッバーイ」


腕をヒラヒラはためかせ、ニヤニヤとうすら笑いを浮かべながら、快楽主義者は木戸の向こうに消えた。


────


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