終章、神隠し
1
三年後、早春。
春例祭の季節がまた西都に近づいている。祭場となる御所では、例年の神楽殿の建設がちょうど始まったばかりだ。人工(にんく)が掛け声とともに担いだ資材を運び込むのを眺めて、藤尾は淡紫の袷を翻した。
「高桐くん」
勾欄に腰かけ、同じように神楽殿を眺めている男を見つけて声をかける。執務室から逃げ出してきたのだろう。すっかり馴染んでしまった御寮官の正装をぞんざいに着崩しているのがいかにも高桐らしくて、口元が綻んだ。
「今年の舞姫は決まったの?」
「残念ながら、まだだな。もう三年誘っているのに、断られ続けているんだよ。同じ日に別の神社で神楽をやるかららしい」
「春虫くんの?」
「まったく、あのさびれた神社のどこがよいのか。ここまでくると、是が非でも落としたくなるってもんだ」
当代一と謳われる舞姫を指して、高桐が嘯いた。もう二度も断られているというのに、高桐は何故か毎年同じ舞姫に神楽の打診に行っている。それをどこか楽しんでいる節すらあった。
「そうね。ナンテンの舞は心が洗われるものね」
「御寮員の馬鹿が、ときどき一夜を買って、危うく殺されかけているらしいぞ。まったく、油断も隙もあったもんじゃない」
「そういうあなたも、三年前蝶子ちゃんにかすめ取られて惜しかったって思ってるんじゃない?」
「そんなことはないさ。俺は過去の美人より、目の前の美人に燃える性分でね。そういや、おまえももうすぐ常野の家に嫁ぐそうじゃないか」
「ええ」
先日届いた嫁入り衣装を瞼裏に思い浮かべて、藤尾は笑った。春虫が戻ってから三年間、先延ばしにされていた婚姻も、ようやく目途がついた。待たせてごめん、と真摯に見上げてきた少年に、藤尾は首を振った。滅紫の袷も、今はもう桐箪笥の奥にしまってある。
「あっという間だったわね」
藤尾は三年を経てもさして変わらぬ御所を見つめた。変わったところといえば、かつては二本だった橘と姥桜が、三年前の春例祭を境に一本の樹に転じてしまったことくらいだろうか。この摩訶不思議は、都でもひそかに噂され、連理の桜橘などと呼び慕われていると聞く。
三年前の春例祭のあと、亀山田を残し、蛇ノ井と鳥野辺の二御寮官は職を辞任した。はじまりの男神が開いた門は、女神を降ろした蝶子によって閉じられたため、神隠しは防ぐことができたが、はじまりの男神があらぶる神に転じた責は負うべきでしょうと、蛇ノ井は肩をすくめたし、鳥野辺もまた律儀にそう言って聞かなかった。
――久方ぶりのおやすみです。六海の地でも詣でてきますよ。
そう言ったきり、もう三年間音沙汰がない兄を、しかし藤尾は存外案ずることなく待っている。どうやら、兄には旅の同行者がいるらしく、それがやはり三年前に職を辞した、下御森神社の『御社様』だというから面白い。朋友と母の眠る地で、ふたりが何を語らい、何を見つけて帰ってくるのか、土産話が楽しみだった。
むしろ、二御寮官の辞職でとばっちりを食らったのは高桐で、三年前に御寮官に抜擢されて以来、日々東へ西へと駆けずり回っているようだった。
「まったく、どいつもこいつもこんないい男に見向きもしない。これなら蝶子をさっさと嫁にしておくんだったよ」
「まだ遅くないのではなくて?」
「いいや、遅い」
高桐は腕を組んで、愉快そうに笑った。
「藤尾。三年というのはな、根の国に流されたあやかしが、めぐりめぐりて黄泉路を通り『あちら』に還るその時間なんだよ」
瞬きをする藤尾の横で、高桐は心地よさげに伸びをする。絡まり合った桜橘の枝にはたくさんの蕾が膨らんで、そのひとつが早くも白い花を咲かせていた。
*
花が舞っている。
ナンテンの舞はいつもそうだった。まだあたりは春を迎える前の冬の根雪が残る時分であるのに、ひとたびナンテンが扇を広げて舞うと、風は澄み切り、空の蒼は張りつめて、その中をひらひらと舞う花のまぼろしがよぎるのだった。
とん、てん、しゃん、しゃん
さぁらりん、かぁらりん
鉦タタキの音に合わせて、ナンテンの水引で締めた白い裾が翻る。ナンテンの足が地を踏むたび、雪が解け、たおやかな手首が翻されるたび、春風を呼ぶかのようだった。
春虫はぽかんと口を開けて、ナンテンの舞を見つめている。もう十八になる青年であるのに、春虫はときどき初心な少年の表情をすることがあって、今も初恋をした男の子のように頬を染めているのだった。
「ナンテンの舞はきれいでしょう」
隣に座った蝶子は日よけの傘を肩にかけて、常野神社の舞殿に立つ、友人である舞姫の姿に目を細めた。ナンテンの舞は今日も、しなやかな獣の美しさと、花鳥の果敢なさ、健康的な明るさと、深い翳りの間を行き来して、見る者の胸を穿つ。
「なんで今まで見せてくれなかったのさ」
春虫が不機嫌そうに口を尖らせるので、「春虫がぜんぜん、興味なさそうにしていたんじゃない」と蝶子はわらった。
「こんなにすごいって聞いていたら、見に行ってた」
「ふうん、惚れた?」
「惚れないよ! 藤尾さんに言うなよ、蝶子」
思わず声を荒げてしまってから、周囲の者に冷ややかな視線を向けられたことに気付いて、春虫は口をつぐんだ。
(藤尾さんに言うなよ、だって)
頬を染めた春虫の横顏が愛らしく、蝶子はひっそり笑みをこぼす。気が緩んだはずみに小さく咳をしていると、「平気か、蝶子」と春虫が心配そうな顔をして、二、三度背をさすった。
「熱があるだろう」
「だいじょうぶ」
一時、女神をその身に降ろしながらも、蝶子は無事『こちら』に戻ってきた。おそらく女神が与えた加護のおかげだろう、との話だったが、しかし、その身体も三年前からゆっくりと衰弱に向かっている。今ではずいぶん寝台から離れられない日も増えてしまった。それでも、ナンテンの舞を見るのは蝶子の楽しみのひとつで、今日も苦い薬をたくさん飲む代わりに、外出の許しをもらったのだ。
扇を持つナンテンの手が祈るように天へと閃いた。花が散る。風が止まる。草を踏みしだく微かな音が背後で鳴ったのに気付いて、蝶子はからりと日傘を回した。草を這う小さな青虫が視界をよぎる。その先――朝露に濡れた若草に二本の足が立っていた。
「春虫、ごめんね」
奉納を終えたナンテンの手から扇が落ちる。ナンテンを見つめたまま、「なに?」と返した春虫の背中を蝶子はそっと抱きしめた。
「だいすきよ」
囁き、蝶子は身を翻した。舞が終わる。風が再び流れ、大地に光が満ち満ちる。
「アオ!」
わらって、蝶子は腕を広げた青虫化生へとその身を飛び込ませた。
扇が置かれて、舞姫が神々に深くこうべを垂れる。
一時呆けていたひとびとがわっとどよめいた。
「蝶子……?」
隣にいたはずの姉の気配がなくなったことに気付いた春虫は、首を傾げて背後を振り返った。朝露に濡れた若草のあたりに蝶子が肩にかけていた日傘が落ちている。春虫がそれを拾い上げると、小さな笑い声が木陰からして、繋ぎ合わせたふたつのようにも、もうたったひとつのようにも見える手のひらが白い光にたまゆら浮かび上がり、消えた。
――常野蝶子は十八で神隠しにあった。
父の姉なのだというそのひとは、今は肖像画に姿をとどめるきりで、繭子は一度も会ったことがない。けれど、繭子の母親は友人だったという蝶子の話をたくさんしてくれたし、母の話の中の蝶子は病弱だったなんてことが嘘みたいに、勇敢で、凛々しくて、かっこよかった。だから、繭子は蝶子が大好きなのだった。
「弟かなあ、妹かなあ」
繭子の母親はふたり目の子どもの出産を控えている。寝台にこもりがちになっている母親のために、庭に花を摘みにいった繭子は、ひらりと頭上に気配を感じて、首を傾げる。
(おとうとだよ、まゆこ)
くすりとわらう声がして、頭を撫でられる。繭子が瞬きをしていると、手のぬしは大きな手のひらと繋ぎ合って、またいずこやへ消えた。
むかし、むかし。
今はもう語り継ぐばかりのむかしのこと。
これはそんな、神さまとひとが恋をしていた頃のはなし。
蝶々と青虫 糸(水守糸子) @itomaki
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