3

 そのとき、太陽が南の天を射した。

 蝶子は目の前で起きていることを信じられない思いで見つめる。

大青虫が息絶えたと思った直後である。体液に塗れたその背が内側から光を帯び、やがてそれは目を開けてすらいられないほどのまばゆい光の奔流となった。光は庵の内側を旋回し、やがて庵だけでは持ちこたえられなくなって、壁板や茅葺き屋根を吹き飛ばす。しばらく宙をさまよっていた光源はしかし東の方向を見て止まると、その場から消失した。


「まずいな」


 とっさに式神で自身を庇ったらしい高桐が、光源が去ったほうを仰いで舌打ちした。


「『はじまりの男神』が目覚めた。アオの器がなくなることで目覚めてしまったんだ」

「そんなはずはないわ。矢は確かに男神を射たはずなのに。男神の持つ力に捻じ曲げられてしまったの?」


 膝をついた藤尾が呆然と呟く。高桐が指差すほうを見上げると、御所の斎庭の方角に光の柱が立っているのが見えた。雲が垂れ込めているわけでもないのに、蒼天に雷が走る。


「おい蝶子、わけがわからんぞ! 急に地面が揺れてひっくり返っちまった!」


 地下道から飛び出したヒルコが唾を飛ばして叫ぶ。


「ん、もしや、あれ……」


 蝶子たちの見上げている方角に遅れて気付いたらしい。しゃっくりを鳴らした。


「降り立った! 降り立った! はじまりの男神が降り立ったぞ!」


 ヒルコは力なく座り込んでいた蝶子を抱え上げると、一足飛びで光の柱の方角へ向かう。


「橘が降り立った! 降り立ったってぇことは扉が開いたということだ。渡りが始まる。渡りが終わる前に、我らの願いを聞き届けてもらわねばなるまい!」


 見れば、御社様や八部衆をはじめとしたあやかしたちもまた御所の前に集まってきていた。先ほどまで神楽がもよおされていた舞殿だが、客人の姿はない。神御寮が総出で警護にあたっていたため、早々に避難をさせることができたのだろう。

 筵がかけられた橘は今うっすらと輝き、その前に人影が立っていた。春例祭で連れてきた舞手のひとりらしい。眸を開いてはいるが、焦点が合わず、千早の飾りもだらしなく開いてしまっている。


「わたしのつがいの女神はどこだ」


 女が呟いた。妙齢の女性であるはずなのに、性別も年齢もわからない、奇妙な声音だった。


「幾年のめぐりを経て、わたしはこの地のものとなり、目を覚ました。それなのに、わたしの妻神となる女神の姿が見えん」

「『はじまりの男神』とお見受けいたします。『こちら』と『あちら』の渡りをつかさどる大神とは、あなたさまのことでしょうか」


 八部衆とともに先にたどりついていた御社様が、地に額づいてかしこみ問うた。対する女は鷹揚にうなずく。


「いかにも。わたしはかつて御渡りをつかさどっていた。今もわたしが目覚めたために、『あちら』への扉が開いている」

「かつて? 御渡りをつかさどっておられたのはかつてと仰せられますか」

「渡りは、今はしていない。わたしはすでに、『こちら』のまろうどではない」

「では、なんだと仰せられる。本来『こちら』のまろうどであるはずのあなたさまが、青虫化生の胎から出た意味は」

「五十年前、飢えた青虫にわたしはわたしの血肉を恵んでやった。わたしの妻神はこの地に属するもの。『あちら』へともに渡ることはできぬと言う。ならばとわたしは青虫化生に食われ、その胎内で眠り、歳月をかけてこの地のものへと転じたのよ。青虫化生の魂が根の国へと向かったことで、眠っていたわたしが目覚めた」

「ならば、あなた様はこの地に残られるのですか」

「いかにも。そしてこれがわたしが起こせる最後の渡りとなろう。この地に残るやおろずの神々よ。『あちら』へ渡りたくば渡れ。扉は開いている。ただし、こたびこそが最後だ。わたしは『あちら』へは還らない。この地からもまもなく失われる」


 まるで空が裂けるようだと蝶子は思った。最初はひび割れに過ぎなかったものが、徐々に広がり、大きくなっていく。


「させませんよーう」


 嗤って、蛇ノ井が橘にかかった筵を引き剥がした。現れたのは、今にも倒れかかりそうなほっそりした橘の老木である。その老木に向かって蛇ノ井は携えた化生斬りを薙ぐ。

 悲鳴が上がる。

 ヒルコか、八部衆か、それともはじまりの男神か。はじまりの男神を降ろした女の纏う空気が、急に重く揺らめくように変じたのに気付いて、「だめだ!」と蝶子は叫んだ。強い腐臭が漂い始める。かつて旧玉垣神社で、真野の大神が現れたときと同じだった。


「だめだ! 橘を斬っちゃだめだ!」


 だが、蛇ノ井の一閃のほうが速かった。蝶子の腕ほどしかないほっそりとした樹が枝葉ごと倒れる。天に生じていた罅が唐突に消えた。ああ、と呻いて、ヒルコが地面にへたりこむ。その地面がべこり、と沈んだ。


「ひっ」


 女を中心とした大地に亀裂が走り、御寮員たちをのみ込んで陥没した。地面に生まれた穴は、あたりの柵を、建物を、木々を、ひとを飲み込んで、どんどんと広がっていく。舌打ちをして蛇ノ井があとずさろうとしたが、その足元もまた沈んだ。


「兄さん!」


 藤尾が飛び出して、手を伸ばす。

 あたかも天変地異の様相だった。晴れ渡っていたはずの空には暗雲がたちこめ、稲妻が蜘蛛の巣のように走る。


「蝶子!」


 座り込んでいた蝶子の身体を高桐が引き寄せる。


「ぼんやりするな! 飲み込まれるぞ!」

「高桐」


 それで我に返り、蝶子は天を仰いだ。はじまりの男神は女の身体から抜け出ると、青虫化生の姿に転じてうねり、咆哮を上げている。あれははじまりの男神であり、死した青虫化生の身体でもあるのだろう。


「行かないと……」

「おい、蝶子」


 高桐の腕から抜け出て、ふらりとあらぶる神のほうへ踏み出した蝶子を、高桐がつかんだ。


「だめだ、そちらに行っては。戻れなくなる」

「ごめん、高桐。でも行かなくちゃ。あれはわたしを待っているの」

「蝶子?」


 高桐は初めて見るもののような目をして蝶子を見た。くつくつと近くで別の忍び笑いが立つ。藤尾に身体を支えられて、蛇ノ井もまたあらぶるはじまりの男神を見上げていた。


「それなら、蝶子くん。これを持っておゆきなさい」


 差し出されたのは、化生斬り『常野丸』だった。真野の大神に砕かれ、鍛え直した女刀は、アオと一緒に神御寮の手に渡っていた。蝶子は瞬きをして、黒鞘におさまり、沈黙をしている女刀を見つめる。


「わたしは失敗しちまった。御寮官失格だあね。見てのとおり、さっきので足をやられてしまった。使えない刀を持っていたってしょうがない。常野丸は蝶子くんにお返ししましょ」

「御寮官。ですが、わたしは……」

「切り開いてみなさい、それで」


 金を帯びた眸を細め、蛇ノ井は口端を上げた。


「言ったでしょ。神もひともありゃしない。自分が切り開いたものが、運命だと」


 女刀は、女である蝶子を厭う。


(春虫)


 だから、蝶子は祈るように思った。


(春虫。わたしに力を貸して)


「では、お返しいただきます。御寮官」


 常野丸をつかみ取り、蝶子は身を翻した。あらぶる青虫化生に向かって走る。大地はたびたび揺れて、まっすぐ走ることすらままならない。陥没した箇所からまた亀裂が這って、そのひとつが蝶子の足下に達した。


「――っ」


 蹴躓いて、蝶子は地面にぶつかった。握っていた常野丸が手から離れ、数歩先に転がる。


(ちょうこ)


 どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえて、蝶子は目を瞬かせた。


(ちょうこ、こっちだよ)


「春虫?」


 声に引き寄せられるようにして常野丸に手を伸ばす。指先が鞘の表面に触れた。あとすこし。あと――。大地が揺れたはずみに跳ね上がった常野丸が蝶子の腕に転がり込んだ。手のうちのものを握り締め、蝶子は天を仰ぐ。


「女神よ」


 抜き払った常野丸を天へと掲げ、蝶子は言った。


「常野蝶子はここだ。降りられよ!」


 どうか。


「降りて――」


 祈るような気持ちで目を細め、蝶子は声を張った。


「降りて来い!!!」


 ひらりと、蝶子の額に落雪が触れる。

 否、雪にあらず。曇天から舞い落ちるのは、無数の花びらだ。掲げていた常野丸が空に溶け入る。女刀は今は蝶子の中にいた。女神もまた蝶子に降りている。蝶子はこぶしを握り締めて、青虫化生を仰ぐ。大地を、木々を、ひとを、ものを、飲み込んだ青虫化生はもとの身体よりずっと膨らみ、今にも胎がはちきれそうだった。

 ばかだなあ、と蝶子は思う。ばかだなあ、アオは。そんなにたくさん食べても、きっとちっとも腹が満たされることなんてないのに。


「ここだよ」


 手を差し伸ばし、蝶子はわらった。


「わたしは、ここにいるよ」


 不意にこちらを見定めた青虫が大口を開いて襲いかかる。飲み込まれるその刹那、蝶子は小さな前脚と指を絡めた気がした。小さな前脚は冷たく、やはり震えていて、蝶子の指を見つけると、きつくきつく握り返してきた。夢かうつつか。青虫の身体から離れたはじまりの男神に、女神が寄り添う姿がよぎった。大地を荒らしていた破壊の力が急速にしぼみ、開いた穴が閉ざされていく。


「扉が閉じる!」


 ヒルコが叫び、下御森神社の者たちが呪いに蝕まれた身体をそちらにかざすのが見えた。まばゆい光が空を覆う。目を開けていられず、蝶子は抱きしめたものだけを離さないようにして、ぎゅっと眸を閉じた。このままずっと震える前脚と指を絡めていたかった。


「蝶子」


 ひらりと額にやさしい何かが触れる。


「蝶子。いた」


 再び目を開いたとき、空は嘘のように澄み渡っていた。陥没した大地に残された御寮員やあやかしたちが支え合って、身体を起こす。蝶子の腕の中には、常野丸の鞘だけが残されていた。ああ、と蝶子は泣き笑う。目の前では、斃れた橘を支えるように姥桜の大木が立ち、二樹は枝を絡め、うねり、ひとつの樹のようになりながら、天に向かってそびえていた。


「蝶子!」


 地平の向こうから、自分と同じ顔つきをした少年が走ってくる。りん子ちゃんや丸じい、クスコおばさん、たくさんのひとびとを連れて。おかえり、とだから蝶子は相好を崩した。

 おかえり、春虫。

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