気づいた唇
花岡 柊
気づいた唇
なんていうか。
ああ、こういう人、素敵だな。
そう、逢うたびに思っていただけだった――――。
シンプルなスーツだけれど、ネクタイには気を遣っている。靴はいつも綺麗に磨かれていて、背筋がピッと伸びていた。先輩にはきちんと挨拶ができて、後輩には上目線になり過ぎないように少しだけ崩した自分を見せる。そんな風に、さり気なくできる気遣い。
彼とは出社時刻がいつも大体一緒で、エレベーターに乗り合わせることが度々あった。
部署が違うし、仕事上も絡むことがないから、話すことなんて全くない。だけど、度々会うものだから、きっと向こうも思っていたんだろう。
あ、また、逢ったと。
エレベーターで乗り合わせた時に、軽く会釈をしたのは何度目だろう。どちらが先に頭を下げたのかも憶えていないけれど、気がつけば逢うたびに会釈をするようになっていた。
その会釈だけの毎日から話すきっかけとなったのは、ついさっきのこと。
昨日、春物の新作リップを手に入れた私は、心なしか気分が浮いていた。グロスのような艶の出る桜色のリップは、まだ肌寒いこの季節でも気分を春色にしてくれる。
弾む足取りでエレベーター前に向かったら、丁度ドアが閉まり行ってしまった。
あ~あ。なんて、逃したエレベーターに向かって僅かに思ってみても、リップの効果が効いているから。
こんなこともあるよね。なんて、気持ちも大らかになっていた。
次のエレベーターを待っていると、少しばかり急ぐような足取りが近づいてきた。その足音には、聞き覚えがある。振り向かなくてもわかるんだ。
きっと彼だ。
足音が止まり、少し距離を置いて立つ横を見れば、ほらね。彼だ。
私に気づいた彼が、笑顔つきで会釈をする。
いつもなら私も会釈を返すだけなのに、気分が乗っているせいか。なんとなくできた、二人っきりという今この瞬間のせいか。会釈のほかに、つい弾んだ挨拶をしてしまった。
「おはようございます」
声に出してしまってから、自分でも驚いた。
彼も、まさか私が声をかけてくるなんて思っていなかったのだろう。少しだけ面食らったような、ちょっと驚いたような彼の顔が私をみた。
その瞬間に、どっと押し寄せる恥ずかしさ。
何を調子に乗っているんだ。と思わず、下を向きそうになったところで彼が応えてくれた。
「おはようございます」
瞬間、花が咲いたみたいに恥ずかしさが吹き飛んで、満面の笑顔になってしまう。
我ながら、とても現金だ。
まだ残る照れくささに、少々のはにかみを浮かべて降りてきたエレベーターに乗り込むと、自然と距離が縮まった。
「似合いますね」
彼との距離が近いというだけでも心臓が騒いでいるというのに、すぐそばで聞こえた彼の囁くような声に驚いて、つい顔を直視してしまった。
目と目が合って、逸らすこともできずに顔が熱くなる。
言われたことが何に対してなのかを考えることもできないくらい、頭の中かは嬉しさでパニックになっていた。
「口紅」
付け加えられた一言に、少しも考えずにお礼をいっていた。
「ありがとうございます」
自分の顔が真っ赤になっている気がして、恥ずかしさに俯いてしまいたくなる。
嬉しさと恥ずかしさに破裂しそうな心臓を宥め透かしていると、フロアに着いたエレベーターのドアが開いた。
「じゃあ、また」
背筋をピッと伸ばして歩いて行く彼の背中を、私はずっと見つめていた。
フロアに降り立ち、一人冷静になってみると。“似合う”といわれた口紅の嬉しさもさることながら。彼が私のことを気にかけてくれていたから、今日の口紅がいつもと違うことに気づいてもらえたんじゃないか、とポジティブに捉えて頬が緩んだ。
「嬉しいな」
弾むように小さく漏らすと、自然と足取りも軽くなる。
次に逢う時には、もう少し話ができるといいな。
艶やかに光る桜色の唇をきゅっと結び、私は嬉しさに口角を上げた。
気づいた唇 花岡 柊 @hiiragi9
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます