3.社会人2年目

 



 なぜ桜は、毎年同じように咲くのだろう。

 世の中のあらゆるものが移ろい、二度とは還らないのに。


 そんなことを考えながら、速足で緑道を進む。見事な桜並木で、薄く色づいた花弁がアーチを作っている。

 前方に立ち止まって、やや上向きにスマホを構える男の人がいた。被写体は、きっと桜の花。その横を、私はするりと追い抜いていく。色づいた春を、なるべく視界に入れないように。


 会社に着いてパソコンを立ち上げると、机に置かれていた書面が目に入った。


 『お花見のお知らせ』

 愛想よく花びらのイラストが散る、新入社員歓迎行事のお知らせだった。

 

「お花見かぁ……」

 思わず声に出してしまうと、隣の席から反応があった。

「お花見、嫌いなの?」

 首元で髪を一つに結ったこの先輩は、さばさばした性格で、話しやすい女性だ。


「いや、違います、日程を調整しなきゃいけなそうで……」

「そう。今年はちょうど満開になりそうで楽しみだね」


 柔らかく笑う彼女にはもちろん言えない。本当は、桜を見るのがつらいのです、とは――



 桜と向き合えば、どうしても「テツ」を思い出す。

 慎ましく照らされた薄紅色の木の下で、恋人同士となったあの時のこと。

 指を絡ませた登下校。 

 紺のブレザー、凛とした背筋、少し見上げる上背。

 近くて遠かった彼。


 今でも大好きな、私の憧れ――「テツ」。




 お花見当日にしっかりとした雨が降り、歓迎会は居酒屋で行われることになった。前日にお店を探すはめになった幹事たちを気の毒に思いながらも、私は密かに安堵あんどした。


「あれハナさん、グラス空いてますよ! 僕が注ぎましょうか?」


 チェーンの居酒屋の大部屋で行われた歓迎会。酔いが回ってくる頃合いに、同期の男性社員が一人、ビール瓶を片手に近づいて来た。

 

「いや、大丈夫です、次のドリンク注文してるので」


 酔っ払いの相手が面倒で、軽い嘘でいなそうとしたが、彼は隣に陣取ろうとする。私が思わずムッとしたのに気付いたのか、すぐそばにいた先輩が助け舟を出してくれた。


「ハナちゃんに興味があるの? かわいそうに」


 彼女は笑いながら、軽い調子で言う。


「彼氏と同棲してるんだよ、ハナちゃん。今のうちに諦めたら?」


 別に俺はそんなつもりじゃ、とぶつくさ言いながら、同期の彼は危うい足取りで他の座卓に移動した。そしてまたその先で騒ぎ出す。


 私はこっそりお礼を言った。

「ありがとうございます」

「いいよ、自分で言うと角が立つもんね」

 小さく頭を下げると、からかうように笑って、先輩は続ける。


「今日も一次会で帰るんだっけ? 遅くなると、彼氏がうるさいもんね」




 雨は上がっていた。

 自宅へと続く桜並木の道を、ひしゃげた気持ちとともに歩く。

 春の陽気が湿ったアスファルトを温め、蒸した匂いを立ちのぼらせていた。雨に流された桜の花弁が道の脇に溜まっている。踏みにじられて滲んだ茶色が視界に留まった。


 同棲している彼氏、と先輩は言ったけれど、それは不正確だ。

 社会人になり、私はすぐ実家を出た。ワンルームのアパートを借りて、なんとか自分のお給料だけで生活している。

 

 そこに彼が居ついているだけ。

 毎晩のように、ハナが好きだ、愛してると言う彼が。


「ハナがいないと死んじゃうよ、俺」


 そうじゃない。私が欲しいのはそういう言葉じゃない。私なんかに依存するような、そんな男はイヤなのに。


「偉いね、ハナは、ちゃんと働いて」


 そのじっとりと粘着質な言葉が、視線が、声が、苦しいほどいたたまれない。

 

 彼は今頃、小さなソファに薄い背中を預け、テレビでも観ながら私の帰りを待っている。




 ふと夜空を仰ぐ。

 こんな春の夜は、大切な思い出が、桜の花びらにのってはらりはらりと美しく電灯の光に舞う。

 

 ――面白いこと言うね。

 

 柔らかく笑った「テツ」は、過去の憧憬どうけい

 ひとときの清らかな姿を脳裏に焼き付け、私の気持ちを強烈に惹きつけていった。


 やがて地に落ち、腐っていくだけなのに――




 アパートのドアを開けると、鼻先にタバコの匂いがした。


「おかえり」

 聞き慣れた声は、部屋の奥から。

 ソファでくつろぐ体をひねり、彼がこちらに顔を向けると、私の背中をぞくりと冷たいものが通り抜ける。うなじから下へ、氷で背筋を撫でる様に。


 その姿を見てしまうと――もう、私はどうしようもなくなってしまう。


「ただいま、テツ」


 テツだ。


 誰にも媚びず、群れず、泰然と笑っていた高校生の「テツ」。


 その「テツ」の延長線上で、彼と全く同じ顔で、声で、姿で、私の前に立つ23歳のテツがいる。


「遅かったね、待ってた」


 やめて、その姿で私に執着するのを――




 何が彼を変貌させたのだろう。

 地に落ちた花弁が静かに色褪せ朽ちていくように、あなたは徐々に腐敗した。


 美大での4年間、彼の作品はさしたる評価を受けなかった。高校や中学校の教員採用試験にも挑戦したけれど、美術の教員の需要はほとんどない。卒業後、バイトをしながら通信制大学で小学校の教職免許を取得しようとした。けれど私は、彼が途中でその挑戦を投げ出したことも、バイトを辞めたことも知っている。


 少しずつ失敗や挫折を重ねながら、彼はあまり人に会わなくなっていき、同時に私に依存するようになった。気持ちの上でも、生活の上でも。

 

 大好きだった無敵の「テツ」は、もう失われてしまった。

 なのにテツはここにいる。


 私はいったい、この事実をどうやって――


 思考はそこでふさがれた。テツが、が、私の唇を甘く吸う。

 

 彼自身の唇で、いとも容易たやすく私はこじ開けられてしまう。生あたたかい舌が、私の声も息も思考もこそげとっていく。


「今日は付き合って7年目の記念日だね」


 甘ったるい声が脳に溶ける。ソファに体が沈む。あぁだめだ、抵抗できない。

 まぶたを閉じてしまうと、闇の中で艶やかに桜が舞い散る。その濁流に飲み込まれ、息苦しくなって小さくあえいだ。


 ねっとりとした舌がう私の内側に、もう一人の私がいる。

 あの頃、「テツ」の背中ばかり見ていた私が。


 私はこのまま、彼を受け入れ続けるのだろうか――




 奪われかけた思考に必死にしがみつきながら、私は思うともなく思う。


 永遠に同じ人を――たとえその人の大切な何かが失われても――それでも愛し続けることは、美しいことなのだろうか。


 むしろそれは、胸が痛むほど醜いものなんじゃないか、と。




 ほんの一瞬目を開くと、彼の瞳の色が飛び込んできた。

 彼がかつて描いた、広大な宇宙の黒。


 まだ、あれほどの絵を描ききる力が、この瞳の奥に残されているのだろうか――


 いや、たとえそうじゃなかったとしても……私はまだ、こんなにも彼が愛おしいのだ。


「ねえ、テツ」


 私は腕に力を込めて、彼の体からいったん離れた。

 深く呼吸をし、今度は彼の目を真っ直ぐ見つめる。


 流されるだけじゃダメだ。

 ちゃんとこのテツと向き合おう。


 憧れてた「テツ」じゃなくて、この23歳のテツと。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

永遠の愛は、胸が痛むほど、 風乃あむり @rimuro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ