愛を忘れた茹でダコ

神楽坂

愛を忘れた茹でダコ

「それでは、乾杯」

 黄金色に輝くビールをなみなみと湛えたグラスを軽くあて、小気味良い音を鳴らす。その音は店に充満している心地よい喧騒の中にすぐさま消えてなくなる。

 美和の目の前にいる男は弓の弦のように背筋を張り詰めるわけではなく、反対に老いた猫のように背中を丸めるでもなく、柔和で、何気ない背筋を保ちながら、品よくグラスを口に傾けた。

 美和はその仕草を上目遣いでちらりと確認し、適度に品を崩さない程度に、男の品の良さに合わせるようにグラスを傾け、喉にベルギービールを流し込む。液体が通り過ぎたあとの口の中には濃厚な麦芽の味が残り、舌を刺激する。うまい、と声に出すことなく頭の中で響かせた。別に「うまい」という言葉を口にすることは美和にとっても、正面の男、萩原にとっても悪いことではないが、とりあえず自らの人物像を演出するためにも、美和はその言葉を心の中の引き出しの奥にそっと収納した。

「やはり、金曜日の夜はビールを飲まなければ始まりません」

 グラスを置いた萩原の頬は既にほんのりと赤みを帯びている。店の熱気に紅潮しているのか、異常に酒に弱い体質なのか、それとも私の眼差しに照れを感じているのか、美和は考えを巡らせる。

「斎藤さんも、お酒はよく飲まれますか?」

「んー、相手に合わせて飲む量を決めますね。大酒飲みの人と相手をするときはとことん付き合うし、下戸の人だったら私もウーロン茶でペースを合わせる、って感じです」

「相当なキャパシテイがないとできない芸当ですね」

「いえいえ。飲み過ぎて記憶がなくなることなんてしょっちゅうですよ。記憶がなくなったときにどこで何をしてたのかを正確に把握するためにⅠCレコーダーを持ち歩いてるくらいですから」

「本当ですか?」

「まさか」

 美和と萩原は小さく笑い合う。

 なんとテンプレートに沿った流れなんだろう、と美和は思う。三〇代独身の男女がビールを媒介にしながら時折微笑み合いながら身体をアルコールに浸らせていく。その流れに身を任せていく。何も考えずに、何も生み出さずに、エンタメ性を欠きながら、それでいてどこか心地よいコミュニケーションの形。

「今日は、急に誘ってしまって申し訳ありません」

 萩原は恐縮そうに言う。

「私も今日は予定がぽっかり空いていましたし、ちょうど良かったです。こんなおしゃれなお店まで教えてもらっちゃって」

「ここ、酒も肉料理も抜群においしいんですよ。僕も上司に教えてもらってから通うようになって。一人でもついつい足が向いてしまうんです」

「居心地もいいですし、渋谷とは思えないくらい周りが静か」

 それは正直な評価だった。愚かな若者と汚れた空気と渦巻く欲望で構成されている渋谷という街にもこんなオアシスはまだ現存するんだ、と美和は感心する。

「もう少し先に行くと大学生がまた増えたり、原宿方面に行くと賑わいが押し寄せたりして、もうここしかないっていう場所にこのお店があるんですよ」

 萩原はまた適度な上品さを保ってグラスを傾ける。ビールを飲み下すたびに上下する小さな喉仏がなんともセクシーだ。綺麗に髭を剃った顎も、つるりとしていてまだまだ若さが張り詰めている。

 萩原という男は、美和がここ数年で酒を交わした中で最も「好青年」な男の一人だった。

 美和が務める会社の得意先の社員であり、半年前から仕事での付き合いが始まっている。初めて萩原と会ったときの印象はよく覚えている。有名商社の営業職として日夜東京の街を駆けずり回っているはずなのに、そんな素振りは一切見せることなく上手く立ちまわっている。身だしなみを整えているのはもちろんのこと、言葉遣いも常に上品であり、周囲への配慮も完璧にこなしている。萩原の会社に比べると数段も小規模な会社に勤めている美和に対しても一切横柄な態度をとることもなく、平等、対等な立場を守っている。美和も一〇年近く社会人として働いているが、ここまでストレスを生じさせない人間にはなかなか出会ったことはない。

 今日、萩原の会社で仕事を終えたときに「ちょっと一軒寄っていきませんか?」と言われたときも非常に自然な流れであり、なんの抵抗もなく「いいですよ」と返答してしまった。返事をしてしまってから「私ってこんな軽い女だったっけ」と小さく後悔してしまうくらいの抵抗のなさだった。その悔しさがまだ美和の中には沈殿している。

 様々な肉料理が盛り合わせになったプレートが運ばれてきたのと同時に萩原はメニューを私に提示し、次の飲み物の注文を促す。私の酒の残量まで的確にチェックをしているのか、とまた感心をさせられる。乾杯してから一五分ほどしか経っていないのにもう二回感心している。こんな飲み会は初めてだ。

 美和はもう一杯ビールを注文すると、萩原も同じものを注文する。

「今日は、僕が斎藤さんの飲む量に合わせますから。マイペースに飲んでください」

「そう言われると無尽蔵に飲んじゃいそう」

「大丈夫ですよ。もし記憶が飛んだら、僕が斎藤さんの発言を一語一句メモしておきますから」

「裁判の証拠にでもするつもりですか?」

「場合によっては」

 二人は笑う。無個性で、没個性で、からりとした笑い。店内にうっすらと流れているジャズのソプラノサックスに掻き消されるくらいの、慎ましやかな笑い。

 萩原は美和の倍ほどの給料はもらっているはずだ。しかし、その身なりからは過剰なラグジュアルは認められず、かといって発想に乏しいファッションを纏っているわけではない。髪のセットの仕方、ネクタイピンの質、ベルトのバックルの輝き、腕時計のベルとの革の質感、どれをとっても間違いなく一級品である。しかし、それらは押しつけがましくなく、それぞれのパーツがそれぞれの持ち場で最も素晴らしい働きをしている。

 萩原がこのファッションや気遣いをどこまで意識的にやっているかがわからないところも、この男の特徴であると美和は考える。もちろん、どこの美容院に行って、どこのブティックで買い物をするかは萩原自身が決めているはずなので、そこに萩原の意志が一切介在していないことはあり得ない。それをどこまで「下心」を持ってやっているか、だ。

 今日のように同年代の異性と二人きりで酒を交わすことを想定してこのファッションを纏っているのか、そこを見極めることは美和にとっても難しい。だからこそ、萩原は「好青年」であった。

 過去には内に秘めている下心を完璧に隠そうとするあまり、かえってそこばかりが強調されるような男も数多く出会ってきた。もちろん、下心を全開にして接してくる男もいた。萩原のような男はやはりレアケースと言わざるを得ない。三〇代独身の男が醸し出す独特な焦りや、気負いも感じられない。もし、意図的に全てのことをやっているのだとしたら、商社マンをすぐにでも辞めて舞台の演出家になるべきだと美和は密かに思った。

 そして、私が同性愛者でなければ、と心から思う。

 何も考えずにこんな素敵な男性の腕に抱かれて、まどろみながら脇の下の甘い匂いを嗅ぎ、永遠の愛を囁き合うことだって、悪くはない。悪くないはずだ。悪くはないとはわかっているが、美和にもどうにもならないことだった。

 残念なことではない。美和にとっては引きしまった筋肉の中に抱かれるよりも、ほどよく贅肉のついた柔らかい白い肌を抱いている方が性的快感を得ることができる。試しに男性に抱かれてみたこともある。比較的すんなりと男の身体を受け入れることはできた。やってやれないことはないんだな、と思いながら腰を動かすリズムを体で感じていた。しかし、そのリズムを脳で感じることはできなかった。汗が分泌され、カロリーが消費していくだけで、溺れるような快楽も飲みこまれるような性欲が押し寄せてくることはなかった。マラソンをしているような感覚。規則的なリズムに体を押し込めているだけの行為だった。

 舌をぐねぐねと絡ませたり、お互いの乳首をまさぐり合ったり、性器の中に他者を受け入れたりする現象は男としても女としても一緒だ。起きている現象は同じ。同じペースで弄られ、同じテンポで攻められれば、同じ快楽を得ることができるはずだ。

 なのに、異質としかいいようがない。男にされるそれと、女にされるそれはまったく別のものだった。

「休みの日は何をされていますか?」

 美和は気分を変えるためにも何気ない会話を振る。

「最近は美術館に行くことが多いですね。もともと世界史が趣味で勉強していたのですが、文化面の方に興味が向かっていまして。できるだけ生で観るように努めています。斎藤さんは何をされてますか?」

「日がな一日読書をしていますね」

「意外だな」

「あら。本を読んでるような知的な女には見えないですか?」

「いや、そんなことはないですが。斎藤さんだったらもっと街に繰り出すような感じかと思ってました。普段の働きっぷりを見ててもバイタリティに溢れてますし」

「今の私は何枚も厚着してますから。家に帰ったらバイタリティお化けの服を全部脱いで、ぐでぐでの茹でダコに戻っちゃいます」

「本を読む茹でダコですね」

「八本の腕があっても、茹であがっちゃってて使い物になりませんけど」

「でも、そんな茹でダコになってる斎藤さんも素敵なんだろうな」

「残念ながらビールとは合いませんけどね」

「日本酒持参していけば大丈夫です」

 よく頭と口が回る男だ、と美和はまた感心する。

 アルコールが進んでも、顔に表出することはなく、統率された口調は決して崩れることはない。浮遊感に満ちた会話。それでも、美和は異性として萩原に惹かれることはなかった。

 なぜだろう、と疑問に思う。なぜこんなに素敵な男性に抱かれてみたいと一切思わないのだろう。男に飢えた美和の女友達からしてみればこんなに羨ましいシチュエーションはない。

 今、美和にはセックスフレンドのような関係の女性は一人いるが、特定の恋人はいない。元々目移りしやすい性格ではあるものの、二年も特定のガールフレンドがいないことは美和の人生の中でも珍しい。

 しかし、人生を死ぬまで共にしたいと思うことができる人物と出会えたとしても、前途は多難と言わざるを得ない、と美和は思っている。

 確かに同性愛者に対する人権意識は日々向上しているし、社会的な制度も変わりつつある。同性愛者だけではない。あらゆるマイノリティに対して救いの手を差し伸べる人々は年を経るごとに多くなっている。高校時代、自分が同性愛者であることに深く悩まされた過去を持つ美和にとって、十数年経った今の方が生きやすいことも確かだった。

 しかし、マイノリティはマイノリティだ。

 民主主義の原則で動いている世の中では、多数派と少数派という言葉は絶対的な物差しになる。美和は少数派から逃れることはできないし、どれだけ世間の人々のサングラスの色が薄くなったとしても、それが完全に無色透明になることはない。社会制度が整備されるとニュースに毎度取り上げられるということは、それは「当たり前」のことではなく、ニュースバリューを持った「事件」なのだ。

「当たり前を当たり前と思ってはいけない」と言う人がいる。しかし、美和にとってみればそんな言葉は嘘でしかない。「当たり前」は「当たり前」だからこそ機能するのだ。「当たり前」のことを「当たり前ではないのだ」と意識し続けていれば、人間の社会は機能不全に陥る。

 どうしたんだろう、と美和はそこまで考えて目を閉じた。

 こんな心地よいお酒の席で考えることではない。

 私は週末の仕事終わりを、完璧なセンスを持っている男性と共に、この上なくおいしいベルギービールとこの上なく芳醇な香りのソーセージを食べて過ごしている。こんなに幸せなことはないじゃないか。

「僕は、茹でダコになった斎藤さんの方に興味がありますね」

 萩原の目が僅かにゆらめいた。

「変わった趣味ですね」

 美和はごまかすようにビールを喉に流す。

「僕が見ているのは品行方正で、隅から隅まで気配りを行きとどかせている斎藤さんだけです」

「過大評価ですよ」

「いえ、これは僕だけの評価ではなく、僕の同僚の総意でもあります。隙がなく、笑顔が凛々しく、明晰な斎藤さんという像が確立している」

 装った私だ、と美和は断ずる。

「だからこそ、僕はゆでダコの斎藤さんを見てみたい」

 萩原は視線をゆっくりと動かし、右腕で頬杖を突く美和の目を捉えた。

「そうすれば、僕は他の人間とは違う斎藤さんを見ることができるから」

 どこまでも真っ直ぐな目で美和を見つめる。

「僕だけの斎藤さんを、見ることができる」

 こんなに愚直な視線を私は知らない、と美和は思う。

「茹でダコの美和さんを、僕は愛したい」

 美和は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。

 いつも鏡に映っている営業用の凛々しい顔をしているかもしれない。

 ファムファタルのような妖艶な笑みを浮かべているかもしれない。

 二つの瞳から涙がこぼれているかもしれない。

 しかし、萩原の真っ直ぐな表情を見ても、自分の表情を認識することはできない。

 このまま萩原の愛を受け入れるという選択肢も大いにありうることだ。自分と萩原なら常にウィットに富んだ会話を続けることも、ささやかな笑いを享受し合うことも、美術展へ共に行って宗教画の歴史的な変遷について深く語り合うこともできる。

 性行為だって、美和は悦びを感じることはできないけど、遂行することは可能だろうし、うまくいけば子どもを授かることだって叶わないことではない。美和のセクシュアリティは女性に向かってはいるものの、生殖機能に関しては完全に女性のものだ。経済的にも萩原と現在の美和の収入があれば比較的裕福な生活を送ることは決して夢ではない。

 萩原の発言が遊び半分だという可能性もある。しかし、美和の脳がそれを否定している。この目は本気だ。数々の男の目を見て来たが、ここまで微動だにせずに美和を離さない視線に出会ったことはなかった。

 最大公約数の幸せを手にできるのであれば、自分のセクシュアリティを捨てることだって選択肢の一つだ。

「でも、萩原さん」

 美和は萩原の視線を逆に鷲掴みにする。

「私は、萩原さんが思っているような人間ではないかもしれない」

 店内のジャズの音が遠のいていく。

 口に残っていたビールの味が薄らいでいく。

「とてつもなくおいしくない茹でダコかもしれないし、もしかしたらたこじゃなくていかかもしれない。萩原さんが見たいと思っている私なんて、どこにもいないかもしれない」

 そこで萩原は初めて視線を外し、ビールを一口飲んで、小さく息を吐く。

「僕は、どんな美和さんだって受け入れます」

 大げさでもなく、仰々しくもなく、萩原は言った。

「どんな茹でダコであっても、僕は愛したい。いかであっても、たらこであっても、茹でた角材であっても、僕は愛したい。僕だけの美和さんが、僕の隣にいてくれれば、僕はそれでいいんです。それ以上のことを僕は望みません」

 萩原の心に、美和の心は震えた。

 まじりっけなく、どこまでも純粋で、嘘を含んでいない言葉にしか聴こえない。

 多分萩原だったら、同性愛者である私のセクシュアリティすらも受け入れることができる。

 それをわかった上で私のことを渾身の力で愛することができる。

 美和の中にはある種の確信があった。

 この人なら、うまくやっていけるかもしれない。

 今まで快楽に身を任せて女性と体を交え、でも心のどこかではこのままじゃだめだと思っていて、その負い目を抑圧するためにまた女性と体を重ねた。

 そんな連鎖をこの人なら止めることができるのかもしれない。

 ベルギービールの泡が消えかかり、ジャズの音が再び聴こえ始める。

 だが、その音はどんどん増幅されていき、耳を覆う。

 ライドシンバルとバリトンサックスの音ががんがんと脳の中に響き、トランペットとエレキベースの音が体中にこだまする。

 美和は思う。

 頭では全てわかった上で、思う。

 このまま萩原と一緒になってしまえば、私の体と心は萩原の善意に飲み込まれる、と。

 萩原は確かに美和の全てを受け入れられるだろう。同性愛者だとわかった上でも愛することができるだろう。

 その関係の中にはどこまでも「受け入れる側」と「受け入れられる側」という構造が、歴然とした構造が見出される。

 同性愛を嫌悪する人間、女性を蔑視する人間、三○代独身を蔑む人間、それらの人間とは確かに相いれることはできない。これまでの人生で幾度となくぶつかってきたし、何度も何度も傷つけられて、どれほどの涙を流してきたかもわからない。

高校時代、一番の親友であると思っていた友人に自分は同性愛者であることを告白した次の日から教室では化物扱いされた。

 会社の中では女性は同僚の男と結婚するための花嫁候補として扱われた。

 得意先のお偉いさんからは「そろそろ結婚しないと賞味期限切れちゃうよ?」と言われた。

 今となってはどれもこれも愛しい思い出だが、忸怩たる思いを募らせたときもあった。

 しかし、相いれない人間とぶつかることで、自分という存在を確かめることができた。

 まるで自傷行為のように、自分のことを蔑む人間に傷つけられ、心が血を流すと、その生温かさとじくじくとする痛みを感じることができた。他者とは違う自分を実感することができた。

 傷ついて初めてわかるアイデンティティが決して健全なものであるとは思わない。でも、美和にとってそれは確固たる自画像であり、自分が最後に縋りつくものだった。

 目の前にいる男は、そんな過去の人間とはまったく異質な存在だ。

 美和の全てを受け入れ、美和の全てを愛し、美和の全てを我がものしようとしている。

 ただ、美和のアイデンティティは萩原の愛によって飲みこまれる。

 萩原の愛と善意という底なし沼にずぶずぶと沈み込み、萩原に同化し、最後には斎藤美和という個人は消えてなくなる。傷つくことなく、血を流すことなく、自分を実感することなく、自分の自画像を永遠に失ったまま生き続ける。

 それは果たして、幸せなことなのだろうか。

 ある種ではこんな幸せなことはない。

 しかし、その幸せは美和を喰い滅ぼすものになるかもしれない。

 じゃあ、私はどうすればいいのだ。

 悪意によって自分を確かめることに疲弊し、理想の男性に寄りそおうと思えば自分が消えることを心から恐れる。自分の心が救われるには一体どうすればいいのだ。

 このまま大好きな女性の体に溺れ続けていれば、全ては過ぎ去っていくのだろうか。

 幸せとはなんなのか。

 幸せを手に入れるためには代償を払わなければならないのか?

 無償の幸せなどこの世の中に存在しないのか?

 最大公約数の幸せなんてどこにもないのではないか? 

 幸せという価値観にまで資本主義の原理原則は適応されてしまうのか?

 わからない。わからなくなる。

 手に持っているグラスの中の液体が汚物のように見えてくる。

 目の前にいる男は、依然として美和のことを捉えて離さない。

 その顔が崩壊を始める。

 口は曲がり、目は裂け、耳はへこみ、鼻はもげる。

 崩壊しているのは自分の顔だということに気づくまでに時間はかからなかった。

 萩原を目の前にしていると、自分がどれだけ異常な人間であるかということがまざまざと思い知らされる。

 なぜ選択しなければならないのか。選択しなければ幸せはやってこないのか。

 答えは見つからない。答えなどという不安定なものはとっくに天井から流れてくるジャズによって押し潰されていた。

 私はなんなんだ?

 私は何が欲しいんだ?

 私は、どこに行くんだ?

 そして、目の前に暗幕が下がってくる。

 全てが閉幕していく。

 


 ふと目を開けると、そこは見慣れた天井だった。

 電気がついた殺風景な自分の部屋。読み捨てられた本と積み上がったビールの空き缶。

 がんがんと痛む頭を抱えながら枕元に置いてある携帯電話を手に取り、通知を見る。そこには萩原の名前があった。

『急に机に突っ伏してしまったので驚きました。多分、お仕事でお疲れだったんですね。無理に誘ってしまって申し訳ありません。勝手ではありましたが、タクシーで斎藤さんのご自宅まで付き添って、ベッドまでお連れしました。記憶が飛んでいたら僕に申しつけてください。タクシーの中の寝言であればお教えします』

 書き言葉であっても紳士たる態度を決して崩さない。どこまでも完璧な男だ。美和は感心する。何度も、何度も。

 美和はベッドの上に大の字になって時計を見る。朝の四時半。今日は何もする気にならない。

 こんなに酒に溺れたのは本当に久しぶりだった。前後不覚になり、視覚がだんだんと暗くなっていったことくらいしか記憶にない。確か萩原に愛を囁かれたはずなのだが、それに対して自分がなんと応えたのか、明確なことは思い出せない。

 まぁ、いいか。思い出せないものを思い出そうとしても仕方がない、と美和は思い直す。

 美和は携帯電話の電話帳の画面を開いて「是政くん」という欄をタップし、耳にあてる。

 ひたすらに呼び出し音を鳴らし続け、一分ほど経ったところで応答があった。

『何時だと思ってるんだよ』

 不平と眠気に満ち満ちた声が電話の向こうから聴こえてくる。

「四時半だね。朝の四時半。おはよう。起きる時間だよ、是政くん」

『人間の起きる時間ではない』

「うるさい。早起きは五〇両の徳というだろう」

『勝手に額を増して慎ましやかな日本文化を穢すな』

「口答えをしなくていいんだよ、是政くんは」

 美和の心は落ち着きを取り戻す。

 こんなときは、気負いも感じず、胸のときめきを覚えることのない友人と電話をするに限る。

「ゲイの是政くんの幸せって一体何?」

『なんだよ急に』

「いいから答えて。ゲイである是政くんの幸せって何。答えなさい」

 沈黙が横たわる。

 電話を持っていない手で目元を触ると、そこには濡れた形跡があった。

 私は泣いていた? 私は何に泣いていたのだろう。

『自分が好きな男と出会ったときはゲイでよかったとは思う』

 そう言って是政は電話を切った。

 至極簡単な答えだった。普段はマイナス思考に苛まれている是政の言葉に無性に癒されている自分がいることに美和は驚いた。

 このままでいいのかもしれない、と思うのと同時に、どこかにいる自分がまた問題を先延ばしにしたな、と憎まれ口を叩く。

 こうやって朝の四時半に電話をして、適度な返答をくれる友人がいるだけでも、自分はまだ救われている部類に入るのかもしれない。

 とりあえず、今は茹でダコの自分を謳歌しよう。

 なぜなら今日は土曜日だからだ。

 カーテンの隙間からはじんわりと朝日の欠片が漏れてくる。

 土曜日の朝をじっくり味わえることは、人生に用意された最も大きな喜びの一つだ。

 美和は起き上がり、むせるほど苦いコーヒーを淹れるために、キッチンへと向かった。

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愛を忘れた茹でダコ 神楽坂 @izumi_kagurazaka

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