「おかえり」がきこえる日
夢月七海
第一章 夕暮れの部屋
1.
目が合った、ような気がした。
残業が二日続いた後に久しぶりに定時に帰れた日、夕方五時過ぎに人でごった返したビル街を歩いている時だった。俺が何気なく右手側を見た時に、ガラス張りのビルと茶色い壁のビルの間、人が一人分通れるくらいの隙間の十メートルほど先、僅かに開けているようなビル群の真ん中の空間に、それは立っていた。
最初、瞬時に目が合ったと感じたが、肝心のそれのどこに目があるのかは分からなかった。それは、一メートルちょっとの身長の子供が、頭からすっぽりと黒い布を被っていたからだった。体の見えている部分は、脛から下の色白の足だけで、それも靴を履いていない素足のままだった。頭の口元には、横倒しになった黄色い楕円の突起がついている。
あの子供が一体何なのか分からずに、俺は足を止めたままじっと相手を見詰めていた。何かの仮装なのかと思ったが、今日は六月の初めで、ハロウィンとは程遠い。幼稚園などのお遊戯会での格好なのかとも思ったが、違和感が残る。
俺は、数分間そのまま謎の子供を観察していた。相手側の目線は全く分からないが、こちらを見ているような確信だけは、何故だかはっきりとあった。
往来の中を突然立ち尽くしている俺を、人々はいかにも邪魔そうに避けて通っていく。時折俺の視線の先を辿って、ビルの隙間を覗く通行人もいたが、驚いて足を止める者はいなかった。よっぽど急いでいたのか、それとも気にしている俺の方が異端なのか。
俺もふと、自分が進行方向にしていた前の方を見た。梅雨が近付いて湿りがちになってきた東京の空気に、うっすらと青い色をした空が覆っている。左手側の車道には、長い渋滞が鬱陶しそうに連なっていた。緑色の眩しい街路樹がそれを挟んだ歩道側には、俺と同じ進行方向の人が多い。この先が地下鉄の出入り口になっていて、帰宅ラッシュの真っ最中だからなのだろう。
つまりは、拍子抜けするほど当たり前すぎる日常の風景だった。だからこそ、ビルの隙間に立っていたあの子の存在が、際立っていく。俺は視線を元に戻した。
しかし、丁度その瞬間、黒い布を被った子供も、右に九十度回転すると、迷わず真っ直ぐ走り去ろうとしている所だった。俺は「あっ」と声を出していた。こちらが別の方向に向いた時に、飽きられてしまったと思ったのだろうか。心配になるほど細くて白い足を、勢いよく上げて走っていく。
子供の姿は、完全にビルの影の向こうへ行ってしまった。惜しいと思ったが、それを追い掛けるほどの勇気は無かった。俺も帰ろうと、右手の鞄を持ち直し、真っ直ぐ歩き始めた。
その日はそのまま家に帰った。時々あの子供の事が頭を過り、可笑しな子だったとは思ったが、それ以上は何もない、数日後には忘れているような出来事だと考えていた。
……その時までは。
翌日も定時に帰れた。
地下鉄に続く石タイルの道を歩いていく。特に寄り道をしようとは思わなかった。冷蔵庫の中にはまだ、買い溜めた食料が残っていてはずだし、特に必要なものも思いつかなかった。
そうしている間に、手前に文房具の会社のガラス張りのビル、その隣に様々な商社が入った少し古い茶色の壁のビルが見えてきた。そういえば昨日、このビルとビルの隙間の先に、変わった子供がいたんだっけと思い出して、今日は意図的にそこを覗いてみた。
すると、やはり昨日と同じ十メートル先に、あの子が立っていた。黒い布を被った格好も、白い足だけが見える立ち姿も昨日と全く同じで、俺はそれが気になると同時に少し心配にもなる。まさか、あの子供は家に帰っていないとか、そういう訳ではないのだろうか。
今度は、体ごと相手に向けて、向き合ってみた。一度眼鏡を掛け直してみるが、相手の姿は変わらない。またしばらく無言で見つめ合っていたが、今日は子供の方から動きがあった。
両足はしっかり地面に固定したまま、ラジオ体操の動きの一つのように、体はこちらに向けたまま、大きく上半身を右に曲げた。今度は左に曲げる。それから右足だけで立ち、左足だけで立つ。
俺は困惑して、瞬きを繰り返すだけだった。この子供の動きの意図が、全く読めない。いや、この格好や何故ここにいるかなど、最初から分からないことだらけだった。まるで、自分の姿が、俺に見えているかどうかを確認しているかのような、子供の奇妙な動きは続いている。
その間も、俺の後ろを歩く人々から、突き刺さるような視線が背中に集中している。彼らは、あの子の事が全く気にならないのだろうかと疑問を感じながらも、振り返る余裕はなかった。
子供は右足を軸にして、大きく円を描くように一回転した。少しふらつきながらも、両足で踏みとどまる。直後に、今度は左を向き、布の裾を翻すと元気よく駆け出していった。
俺は首を動かしてそれを追ったが、すぐにビルの陰に隠れる。あの子供の家は右側にあるのではないのかと思いながら、俺は左手側に向いた。
二日連続で見かけるのは、多分偶然ではないはずだ。それならば、明日もまた出会えるのかもしれない。それはそれで、愉快なのかもしれないと、少しだけ思っていた。
昨日、一昨日は定時で帰れたが、今日は一時間ほど遅くなってしまった。
日は大分傾きかけ、雲のない空はオレンジ一色になっていた。道行く人々は地面に長い影を写して、足早に進んでいく。
俺も少し早めに歩いていたが、あのガラス張りのビルが見えてくると、自然と速度を落とした。あの子は今日もいるのだろうか。さすがに、俺が遅くなってしまったため、もう家に帰ってしまったのかもしれない。
そんなことを考えながら、ビルの隙間を覗き込んでみた。途端に、あっと声が出た。
布を被った子供は、歩道に出るぎりぎりまでに来ていた。驚いて目を丸くしている俺を見上げている。表情が見えなくても、俺に会えて喜んでいるように感じられた。
改めて、この至近距離でこの子を見てみるが、どこに目があるのか全く分からなかった。布に穴らしきものは開いておらず、光を吸い込むような黒い色だけが広がっている。嘴のような黄色い突起は、固そうだということ以外は何で出来ているかなど分からなかった。
「ずっと俺のことを待っていたのか?」
相手の目線に合わせるようにしゃがんでみる。すると、子供も体は動かさずに、頭が動いて、俺の顔を追ってくれた。
しかし、返事は無くて、少し落胆する。近くで見ても性別は分からなかったため、声だけでも聞いてみたいと思ったのだが、少し恥ずかしがり屋のようである。
「家はこの近くか?」
もう一度尋ねてみるが、反応は無い。言葉が通じていないのではないのかという不安が沸き上がってくる。
それともう一つ、背中に刺さる冷ややかな視線が今までよりも多いような気がする。さっきまでお喋りしながら歩いていた女性二人組が、俺の真後ろを通る瞬間は黙り込んでしまうほどである。
まあ、こんな変わった格好の子供がいたら、驚くのも仕方ないなと、内心で溜息を吐いた時だった。
「猫でもいるのですか?」
左側から、スーツ姿の女性が、俺の頭上からビルの間を覗き込んだ。
「あ、いえ、猫ではなく……」
俺が慌てて説明しようとすると、子供を見ていたはずの女性の目が泳ぎ、顔色が見る見る青褪めていった。そして、俺の方を信じられないといった表情で見下ろすと、駆け足でその場を去っていった。一度こちらを振り返ったが、その顔には恐怖しか浮かんでいない。
俺は口を開けたまま、彼女の一連の動きを眺めていた。今の反応は、まるでこの子供の事が、全く見えていなかったような……。
今一度、子供の方を見る。先程の女性の動きではなく、俺の視線の動きを追っていたため、再び見つめ合う形となった。もしかして、この子供は幽霊なのだろうかと思いながら観察してみるが、足ははっきりとある上に、別に透けている訳でもない。実は、今まで世間に流布されてきた幽霊像の方が、誤っていたのという訳か。
しかしながら、二十六年生きてきて、まさか幽霊を見ることになるなんて思ってもいなかった。そもそも俺は、幽霊の存在には懐疑的だったのだが、霊感というものはそれとは無関係に備わるものだろうか。
この子供が幽霊だとしたら、このビルの路地裏にいることも、真っ黒な布を被って素足でいる理由も、分からないままだが不自然ではないように感じられる。
さて、幽霊に人間が触れることが出来るのだろうか。俺は好奇心に駆られて、試しに子供の頭に手を置いてみた。
……すると、俺の手はすり抜けることなく、子供の頭の上に載った。掌に、シーツのような布の感触が伝わってくる。頭の形は、人間と同じようである。しかし、掌を布の上で動かしてみても、髪の毛の感触は全く無かった。
この間、子供は嫌がる様子を見せず、微動だにせずに俺を見ているだけだった。触覚がないのではないのかと不安になるほど、抵抗せずになすがままだ。
まだ、この子供対する興味は尽きないが、もうそろそろ視線が辛くなってきた。傍から見たら、俺は道の隅にしゃがみ込んで、何もないビルに向かって手を伸ばして真剣な顔をしている変人なのだろう。
誰かに警察を呼ばれる前に行こうかと、やっと俺は立ち上がった。子供も俺を見上げる。
「じゃあな」
また明日もここにいるのだろうと、何気なく相手に声をかけた。そして、そのまま地下鉄のホームに向かって歩き始める。
ビルの隙間から数メートル離れた時、後ろからぺたぺたと足音が聞こえてきたような気がして、俺は振り返り、驚愕した。
あの、幽霊なのかもしれない子供が、俺のすぐ背後をついてきた。試しに数歩だけ歩いてみるが、つかず離れず追い掛けてくる。そしてやはり、子供の事を見ているのは、この沢山の人の中で俺だけのようである。
わざと走って振り切ってしまおうかという考えが一瞬浮かんだが、後ろの子供が妙に嬉しそうにつま先立ちしたり戻ったりしているのを見て、それをするのは非情な行為のように思えてしまった。
この子には帰る場所がないのならば、冷たくあしらう事も出来ず、俺も一人暮らしなのだから幽霊に憑かれても大丈夫だろうという気持ちで、再び歩き出した。
今日の夕焼けの中の帰り道は、素足の足音がずっと聞こえていた。
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