5.
魔女の訪問から一夜明けた土曜日、掃除を終えた居間は普段通りの静けさで、子供も炬燵の後ろに立ったまま、襖を開けた俺を見上げた。
その後は何も変わらず、いつもと同じように過ごす。
子供の正体が、魔法生物という異世界の、そもそも生き物ではない存在だと知っても、俺の見方が大きく変わるわけではなかった。
むしろ、それを知り、子供の行動の目的も分かり、ほっとした気持ちの方が強かった。
昼食を摂った直後、台所で食器を洗っていると、居間から小さく何かが爆発するような音が聞こえた。
何が起きたのかと慌てて見に行くと、驚いて避難しようとしてきた子供とぶつかりそうになった。
この子をなだめながら、共に居間を覗いてみると、昨日シィエーヴが置いていき、炬燵の上に移動していた魔法陣から煙が立ち上り、その中に二つの箱が隠れているのが見えた。
煙は無臭だったが、小さな部屋はすぐに曇ってしまう。
窓を開けて換気をして、改めて異世界からシィエーヴが送ってきたと思しき荷物を見る。
魔法陣の上には、二十センチ四方の四角い箱、その上には五センチ四方の箱、さらに上には白い封筒が一つ載っていた。
恐らくは、この封筒が説明書なのだろうと、先に封筒の中を開けると、そこには二枚の手紙が入っていた。
子供がこちらを気にして覗き込もうとする中、日本語で書かれた文章を黙読していく。
『
昨日話ていた魔法道具を贈ります。
まずは、大きな箱の中身。こちらの中身は、魔力補充のための水晶玉です』
右手に手紙を持ったまま、大きな箱の方を開いてみる。手紙の説明通り、少し青みがかった水晶玉が、箱にぴったりと収まっていた。
試しに左手で持ってみると、ガラスのように冷たく、見た目よりも重さがあった。箱にそれを戻して、先を読み進める。
『この水晶玉は、置いておくだけで魔法生物の魔力を補充してくれる道具です。万年筆の程の即効性は持っていませんが、長い時間をかけて巨大な魔力を送ることができます。
そして、この子が人間になるための知識を送る機能も付いています。例えば、この水晶玉の前で発せられた情報は、必要な部分を補って、この子に入っていくようにしています。また、この子やあなたの知らない情報、人間の体の中や一般的な習慣についてなど、人間になるために重要な情報も与えてくれます。
いつもこの子の目の前に置いて、何かで遮らないでください。この水晶玉は魔力でできているので、使っていくと自然に小さくなっていきます』
一枚目の手紙を最後まで読んで、もう一度水晶玉へ目を移した。これも、魔力を持っている人ではないと見えないのか。
箱から出した水晶玉は、普段から子供が前に立っている炬燵の辺、下に転がり防止のハンカチを敷いて設置した。
それから、水晶玉に興味津々の子供を横目に、もう一枚の手紙を読む。
『小さいほうの箱は、この子が人間になった後に使ってください。
簡単に言うと、世間の認識を変える道具が履いています』
手紙の冒頭に眉をしかめながら、もう一つの箱を開けてみる。
入っていたのは、オレンジ色に紫の縞模様が入った、掌サイズの球体だった。実際に持ってみると、ゴムボールのような感触がする。
『この道具に、この子と自分との関係や、この子の設定をよく念じてして地面に落ちると、これは煙に変わり、世界中を包み込んで、世間の認識があなたの思った通りに変化します。
例えば、あなたの母親や同僚の方々は、あなたが元々シングルファーザーだったと思い込むようになります。また、子供の洋服や母子手帳など、子育てに必要なものもいつの間にか用意されています』
……そこまで読んで、これは非常に恐ろしい道具だと分かり、すぐに箱へ戻した。
うっかり下に落としてしまえば、大変なことになる。いつの間にか滲んでいた手の汗を、ズボンで拭き取った。
『これは団地の屋上から使ってください。
ただ、屋上には鍵が掛かっているようなので、一緒にどんな鍵穴にも対応できる魔法の鍵を入れました。これは、二回しか使えませんので、気を付けてください』
手紙の指摘に、もう一度小さいほうの箱を覗いてみると、箱の底に敷かれた紙と側面の間に、小さな銀色の鍵が挟まっているのを見つけた。
ところで、何故団地の屋上には鍵がかかっていることを、シィエーヴは知っているのだろうか。魔法で下見などしていたのだろうか。
数行間を開けて、俺へのアドバイスが綴られていた。
『最後に、あなたにこれからやってほしい事を書きます。
あなたは、この子に名前を付けてあげてください。性別も決まっていませんので、それがこの子の人間になるための指標になっていくと思います。
それから、この子にたくさん話し掛けて、人間に対する興味を育んでください。どんな話でも構いませんが、特にあなた自身の話がいいと思います。
この子は好奇心旺盛なので、きっと喜んで話を聞いてくれると思います』
文章の最後の方で、水滴が便箋に落ちたかのような染みがついていた。
きっと、シィエーヴは最後の最後で耐え切れずに、涙が零れてしまったのだろう。
『この子は、あなたの事を誰よりも信頼しています。決してそれを裏切らないでください。お願いします。
シィエーヴ・コンスタンタン』
手紙を読み終えた俺は、それを優しく畳むと、便箋の中にしまった。
そして、「世間の認識を変える道具」の入った箱と共に、箪笥の印鑑や通帳など大切なものを入れている引き出しにしまう。
シィエーヴからの思いは確かに受け取った。
と同時に、強い責任を感じて、珍しく緊張から心臓が高鳴っている。
一度子供の方に目を移してみると、水晶玉を観察するのには飽きてしまったようで、今日も立ったままテレビを見ている。
しかし、一見普段通りなこの光景も、子供の目の前に置かれた水晶玉は淡く輝き、この子に対して魔力を静かに送っていることが分かった。
一先ずは手紙の助言通りに、子供を名付けようと思った。
その為に、カジュアル炬燵の上に、紙やペンを並べて、お袋の本棚から漢和辞典と国語辞書を取り出す。これらを参考にしながら、名前を決めてみる。
ペットを飼ったことのない俺には、名前を付けることすら初めての経験だった。
見た目の特徴に因もうかと思ったが、黒い色と布からは、何か付けられそうにない。
ふと、シィエーヴが、子供の事を「カラスちゃん」と呼んでいることを思い出した。
カラスという言葉をそのまま入れることは出来ないが、漢字から取ることが出来るかもしれないと、漢和辞典を開く。
「鴉」と「烏」という二つの漢字があった。訓読みでは「鴉」は「ア」、「烏」は「ウ」「オ」となる。
「ア」「ウ」「オ」と横に書いてみて、「あ」「う」「お」と平仮名でも記してみた。
口の中で何度も、「あ、う、お」と呟き、「からす、からす」と重ねてみる。そしてふと、「うら、うらら」という音が生まれた。
試しに、紙の上でも「うらら」と書いてみる。人名としても、違和感が無い。
少し悩んだが、漢字は決めずに「うらら」と平仮名表記にすることにした。
それは俺自身が子供の頃、名字の「
「うらら」に漢字があるとすれば「麗」となるので、これは覚えてもらうのは大変だろうと思った。
改めて、白紙の紙に「安來 うらら」と太めの油性ペンで書く。別に名前を忘れないためという訳ではないが、こうすることで気が引き締まるようである。
名前を書いた紙を、子供の後ろに貼ろうと立った所で、やっと気が付いた。
この名前では、子供が女の子になってしまうのではないのか?
最初に名前から決めようとしていたため、子供の性別については全く考えていなかった。
まあ、この名前で少年というのも、ありえなくはないが、やはり少女である方がいいのだろう。
……俺自身、「三春」という名前で、色々と言われた立場ではあるのだから。
俺が襖にセロハンテープで紙を張ろうとしている所を、子供は珍しくテレビから目を離して、じっと眺めていた。
表情は見えずとも、長い付き合いからか、相手が不思議そうに思っていることは伝わってきた。
貼り終えた俺は、振り返って子供の顔を見た。そして誇らしく、胸を張って宣言する。
「今日からお前の名前は、うらら、だ」
子供は名前をもらえるという意味を知っているのか、非常に嬉しそうにこの場でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
やはり、初めてもらった自分だけの名前は、この子にとって心躍るもののようだ。
「良かったな、うらら」
しばらくして落ち着いてきたうららの頭を撫でると、彼女は無邪気にこちらを見上げてくれた。
子供に「うらら」と名付けてから、俺の生活は微妙に変化していた。
シィエーヴからのアドバイス通り、うららには以前よりも積極的に話しかけるようにしている。
ただ、平凡な人生を送ってきた俺の話をしても面白くはないだろうと思い、俺の幼いころによく読んでもらった絵本を読み聞かせた。
これらの絵本は、お袋が「絵本は一生の宝だから」と、俺が成長しても捨てずに置いといてくれたものだった。それが、今になって非常に役立っている。
寝る時は、俺の布団も居間に運び、以前の布団ももう一度出して、うららと二人で寝るようにした。
シィエーヴの話では、うららが呼吸や食事を行えるようになったのは、俺が見ているのを真似たからのようである。よって、俺が寝ている所を見れば、彼女も睡眠ができるようになるのではないかと考えた。
それを試した一日目、うららは居間で横になった俺を不思議そうに眺めていたが、二日目には早速自分から布団の中に潜り込んできた。
三日目には寝息をたてるようになり、朝は起こすまで寝ていたが、四日目には自然と布団から出るようになった。
うららの中で、人間に変わる準備は着実に進んでいるようだった。
睡眠に関する変化もそうだが、目に見えて分かりやすいのは、表情が増えたことだった。
いや、相変わらず布を被ったような見た目なのため、顔が見えるわけではないので、正確には感情表現が増えたというのだろうか。
例えば、絵本を読み聞かせている時に、突然次のページに怪物が現れた時は、驚いて小さく跳ねた。
また、子供向け番組の体操曲に合わせて、楽しそうに体を揺らしたり、足だけでステップを踏んだりすることもあった。
一度、気まぐれにショートケーキを買ってきた時は、いたく感動したようで様々な角度からケーキを眺めて、一口一口を噛み締めるように食べていた。
動きのレパートリーも増えてきた。
俺が「ただいま」と玄関を開けた時は、嬉しそうに駆けてきて出迎えてくれるのは、もう当たり前になっている。
夕食の支度をして、居間に運んできた時に、うららがいつもの場所にいないことがあった。一体どこに行ったのかと慌てていると、押し入れの方から音がする。
開けると、ひょっこりうららが顔を出した。どうやら、かくれんぼをしているつもりだったらしい。
また、ベランダに洗濯物を干しに出ると、うららが一緒に出てくることが増えた。
ベランダを意味もなくうろついてり、俺の動きを眺めていたりもしていたが、空を見上げていることが多かった。
俺も空を見上げる。からりとした空気に、夏の初めの日差しが射し込んでくる。雲の合間からは、青い空が見え隠れしていた。
描かれてから、白い紙の世界で暮らしていて、ここに来てからも東京の街並みしか知らないうららは、四季折々の美しい風景も、経験したことのない者だろう。
俺自体はそもそも出不精な方だったが、うららが望むのなら、行きたいところへと連れていきたいという思いが芽生えている。
「うらら、人間はなったら、一緒に散歩しような」
Tシャツを持ったままうららを見ると、とても嬉しそうに頷いてくれた。
こうして、うららは様々な変化を見せながら、ゆったりと日々は続いている。
シィエーヴが言っていた通り、魔力の補充には水晶玉によってじわじわと行われていた。日を追うごとに、水晶玉は小さくなっていた。
そして、八月二十七日の土曜日、その日は何の前触れもなく訪れた。
休日ということもあり、俺はいつもよりも遅くまで眠っていた。
そんな俺の肩を、ゆさゆさと揺らす人物がいた。
「おとうさん、おきて、あさだよ」
聞き覚えのない女の子の声が俺を呼んでいることは分かったが、まだ眠気が強く、ゆっくり瞼を上げる。
すると目の前に、耳が隠れるまでの黒いおかっぱ頭の少女が、大きな黒い瞳で、少し怒ったような顔で座っていた。
その色白な肌が、よく見たものだと気づいた瞬間、俺は慌てて飛び起きた。
唖然として、布団の上に正座した、黒のポンチョ姿の幼稚園生ほどの少女を、俺は無言で眺めている。
「おとうさん、おはよう」
未だ混乱している俺を置いてけぼりにして、人間になったうららは満面の笑みを浮かべた。
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