6.


 朝食は、とても凝ったものを作れるような心境ではなかったので、トースターを焼き、レタスときゅうりのサラダ、粉末状のコーンスープをお湯で溶かしただけのものを用意した。


「いただきまーす」


 うららは元気良く手を合わせて、早速トースターに噛り付いた。


 俺も「いただきます」とトースターを持ったが、視線は自然とうららの方を見ていた。

 白い肌に頬は赤く染まり、癖のない黒のおかっぱに、釣り目の俺とは対照的な丸くて大きな黒い瞳、短めのズボンに素足、どこをどう見ても、人間の女の子だった。

 少し変わった点と言ったら、夏なのに黒のポンチョを着ている点だろう。それも、以前まで被っていた布のように薄手のもので、首元には嘴の名残のような黄色い模様がついている。


「おとうさん? どうしたの?」


 今まで、口を動かしながらも目はずっとテレビを見ていたうららが、ふとこちらの方に顔を向けて、首を傾げた。


「いや、なんでもない」


 そう答えて、うららから朝食へと目線を写した。

 しかし、頭の中ではずっとうららの事を考えていた。


 うららは昨日までの姿とは、全くの別人のようで、未だ戸惑いの方が強い。

 シィエーヴの手紙の説明から、俺はてっきりうららは少しずつ人間に近付いていくのかと思っていた。例えば、段々と布の裾が短くなるとか、手が見えてくるとか、喋れるようになるとか。


 それが今朝起きてみると、こうなっているとは、誰が予想できただろうか。正直心の準備は、全くできていなかった。

 しかし、こうしてうららの笑顔を見れたり、声を聴けたりすると、不思議とこれで良かったんじゃないかと思えてくる。


 ただ、これですべてが終わったという訳ではない。


「ねえ、おとうさん」

「どうした?」


 見ていた教育番組が、EDに変わったタイミングで、うららがこちらに話し掛けてきた。


「きょうはおとうさん、おやすみだよね?」

「ああ、そうだけど」

「どこかにおでかけしようよ!」

「……」


 うららの明るい声に、俺は何と答えればいいのかが分からなかった。

 彼女が魔法生物だった頃は、様々な場所へ連れていきたいと素直に思っていたが、流石に今日は難しい。

 それはまだ、シィエーヴから送られた「世間の認識を変える魔法道具」を使っていなかったからだ。


 この状況でうららと外に出たら、顔見知りの団地住民たちは驚いてしまうだろう。この子が一体何者か質問攻めにされるのが想像できる。

 親戚の子供と嘘をついても、俺の母親が家出してきたシングルマザーだと知っている相手には通じない。そもそも、俺の事を「おとうさん」と呼んでいるうららとの間に矛盾が起きる。


「休みだけど、俺の持ち帰りの仕事があるから、また明日にしような」

「……はーい」


 よって、うららには心苦しいがそう言って納得してもらう事にした。

 うららは不服そうだが、素直に頷いてくれた。


 それから、先に朝食を食べてしまった俺は、ふと、炬燵の上の水晶玉に目を向けた。

 今は食事の邪魔になるからと、端の方に寄せたそれは、最初にもらった時よりもずっと小さくなり、俺の片手で握れるほどの大きさになっている。


 もう、うららに魔力を贈る必要のないのだから、箪笥の中にしまっておくべきだと思いながら、自分の皿を片付ける。

 その後、うららも朝食を終えて、皿を流し台へと持ってきてくれた。


「ごちそうさまでした!」

「はい、ありがと」


 受け取った皿も洗いながら、果たしてうららは自分が魔法生物だった頃の記憶が残っているのだろうかと考えた。

 これまでの言動からでは、その事を忘れているようでもあるが、一度尋ねて確かめてみよう。


 洗濯機を回している間、夢中でテレビを見ている今のうららの元へ行き、彼女の隣に座った。


「なあ、うらら」

「うん?」


 うららはテレビから目を離さずに返事をした。

 俺は直接的に尋ねてみる。


「うららは昔の事は、どれくらい覚えているんだ?」

「えっ、昔……」


 前を向いたまま、うららはぼそりと呟いた。

 俺は言葉が足りなかったかと、もう少し説明を加えてみる。


「昔というか、紙の上にいた時や、こっちの世界に来た瞬間のこととか、どうだったんだ?」

「……紙の、上? ……こっちの世界……」


 ぼそぼそと、うららは俺の言葉を繰り返していた。

 その顔からは、表情の一切が消え去っている。明らかにおかしい。


「うらら!」


 俺は慌てて、その肩を掴んで揺すった。

 呆然としたうららの瞳が、こちらに向けられた。その顔から、色素が抜けて、透明になり掛けていることに気付き、俺は真夏なのに寒気がした。


 過去のことを考えるのは危険だと思い、俺は無理矢理笑顔を作って、彼女の気持ちを別に向けさせようとした。


「今日の昼飯、何がいい?」

「…………えっとね、チャーハンがたべたい!」


 しばし沈黙を挟んだが、うららは嬉しそうにはっきりと答えてくれた。

 謎の透明化も、収まっている。


「ああ、分かった。チャーハンだな」


 俺は力強く頷き、冷蔵庫の中を確認するふりをして、居間から出た。


 ……うららは魔法生物だった頃のことを、完全に忘れ去っていた。

 先程は、人間である自分にとってはありえない、魔法生物だった頃の過去を意識したため、自己の矛盾から自身の存在が危うくなっているようだった。


 自分の中の不自然さによる、アイデンティティの揺らぎが人間になりたての体に直接影響するのだろう。

 魔力の補充はもうしばらく必要だと、まだ早くなったままの胸を押さえながら冷蔵庫のドアを開ける。


 うららのあの瞬間の表情が脳裏に焼き付いていた。絶対に、かつてのことを訊かないと、密かに誓った。






















 過去のことを思い出させないようにと気を使いながら、俺は人間になったばかりのうららとの一日を過ごしていた。

 昼食のチャーハンをにこやかに頬張るうららを見て、俺もやっと一息つけたような気がした。


 食後、子供向けではない料理や家庭医学の番組もじっと見ているうららに手伝ってもらい、居間を片付けて掃除機をかける。

 炬燵の上の水晶玉を見て、うららが何か反応してしまうのではないのかと心配したが、彼女はそこに何もないように振る舞っていた。一種の自己防衛なのかもしれない。


 うららは良く笑い、明るく元気な声で良く喋る子供だった。見た目や性格は俺よりも、お袋に似ているような気がする。

 人間になれても社会に馴染めなかったらどうしようかと思ったが、この溌溂とした性格だと、すぐに友人も出来そうだ。……これは親の贔屓目かもしれないが。


「おとうさん、みて、かわいい!」

「ああ、そうだな」


 テレビのアニメキャラクターを見て、嬉しそうにはしゃぐうららを見ると、こちら顔が綻んでくる。

 こんな瞬間に、うららが人間になって良かったと心から思える。


 うららが憧れていた人間は、何でもないことに笑って、どうでもいいことを話して、おいしいものに舌鼓を打つ、そんなことを行っている姿なのかもしれない。

 俺が当たり前すぎて見えていなかった、普通の人間像にうららはやっとなることが出来たのだ。


 また、好きなものを食べた時、面白いものを見た時、うららが笑ってくれるだけで、不思議と俺も幸せな気分になれるものだった。

 このような幸せは、数学の難しい問題を解いた時にしか感じないものだと思い込んでいたが、うららが来てから俺も変化したのかもしれない。


 一日はあっという間に過ぎていき、時計は夜九時を指していた。うららはもう眠る時間である。

 夕食の後、風呂に入るのを嫌がったうららが多少駄々をこねる場面もあったが、それ以外は特に異変もなく、本当に平和そのものだった。


 布団を敷いて、二人並んで潜り込む。

 電気はまだ消さずに、日課の絵本の音読をした。


「こうして、白雪姫は王子様と一緒に、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」

「うん、よかったね……」


 夢現のうららが、満足そうに頷いて笑っていた。

 俺は音をたてないように立ち上がり、電灯の紐を握り締めた。


「電気を消すぞ。おやすみ」

「おやすみー」


 目を閉じたままのうららがそう返して、俺は紐を引いた。オレンジ色の豆電球だけが灯った状態になる。

 すぐにうららの寝息が聞こえてきたので、俺は動き始めた。


 箪笥の小さな引き出しから、シィエーヴからもらった魔法道具が入った箱を取り出す。

 中を確認すると、スーパーボールのような道具と、どこでも開けられる銀色の鍵はしっかりと収まっていた。


 うららを起こさないようにと、静かに家を出る。

 今夜も無風の熱帯夜で、外は汗ばむような暑さだった。団地の廊下から見ると、まだ電気の付いたままの家が所々に見える。


 一人で薄暗い階段を上り、屋上へと続く扉に辿り着いた。

 物心つく前からこの団地の最上階で暮らしているが、この扉の先へ出たことは一度も無かった。


 妙に緊張しながら、銀色の鍵を差し込んでみる。大きさなど全く異なっているように思えたが、あっさりと鍵穴にはまった。

 右に回すと、がちゃりという音がやけに大きく響いた気がした。


 ぎぃと軋んだ音を立てる鉄の扉を引くと、こんな夜でも屋上からこちらへと風が流れてきた。

 コンクリートの床が広がる屋上へと、一歩足を踏み入れる。


 もちろんそこには誰もいなかった。自分の足音だけが鳴っている。

 頭上には吸い込まれそうな夜空が広がっていたが、地上にはビルの煌々とした灯りが見える。

 ビルの縁から二メートル離れた場所に立ってみても、その高さに眩暈を覚えた。


 早速、箱の中からオレンジ色の魔法道具を持ち上げた。

 それを強く右手で握りながら、俺とうららがどのような関係なのか、以前から温めていた「設定」を思い出す。


 うららは俺の実子である。俺が二十歳の、まだ大学生だった頃に生まれた。

 うららの母親、つまり俺の妻はうららを生んだ直後に亡くなってしまったということにした。もちろん架空の彼女についても、名前や年齢など様々なことを細かく決めている。

 うららの年齢は五歳、誕生日は名前を付けた七月二日と定めた。


 これらの「設定」をしっかり魔法道具に刻み付けて、俺は思いっきりそれを地面に叩きつけた。

 スーパーボールのような感触の魔法道具は、跳ね返ったりはせず、地面に当たった瞬間に大量の煙を吐き出した。


 俺が慌ててしまうほどの量の白い煙は、ドライアイスの煙のように、俺の足首ほどの高さをキープしたまま、みるみる広がっていく。

 あっという間に煙は屋上を包み込み、団地の下へと流れていった。


 煙が地面を這い、建物の壁面をなぞるように登っていくのを、俺はそこで眺めていた。恐らく、隙間から建物の中にも入っているのだろう。

 世界中が白い煙に覆われていくという異常事態だというのに、特に地上で騒いでいる音などが聞こえてこないのは、やはりこの煙も魔力のある者にしか見えないからのようだ。


 まるでファンタジー映画のワンシーンのような、幻想的な光景に俺は目を奪われていた。

 これによって、うららが世間に受け入れてもらえる。外で遊んだり、学校に通ったりできるようになるのだ。

 煙が段々薄くなっていくのを見ながら、まだ実感が持てずとも、一人でそう考えていた。


 煙と魔法道具が消えた後に屋上から出て、二回しか使えないという銀色の鍵で扉を施錠すると、鍵は瞬く間に氷のように溶けてなくなってしまった。

 それからすぐに、家へと帰ってくる。一見すると、寝たままのうららも含め、大きな変化は起きていないように見えた。


 しかし、居間に入って振り返ると、襖に貼ってあったはずの「安來やすき うらら」と名前が書かれた紙が消えていた。

 どうやら、うららが魔法生物だった頃の名残は、世間の認識が変わった時点で消滅してしまったようだ。というよりも、うらら自身の認識に合わせたという事だろうか。


 箪笥の中を開けてみると、通帳やハンコと一緒に、母子手帳が入っているのも確認できた。

 開いてみると、うららが生まれた頃の体重や成長過程も記されている。


 シィエーヴの手紙に書かれていた通りに変化したことに一安心だ。

 この様子だと、俺の上司やお袋も、うららの存在をしごく自然に受け入れてくれているだろう。


 俺も眠ろうと、布団に入る。今日一日で酷く疲れていた。

 横に目を向けると、うららの寝顔があった。すやすやと、あどけなく眠っている。


 さらさらとした黒髪を、うららが起きないように撫でてみる。

 たったそれだけで、心の底から愛おしさが止めどなく湧き上がってくる。


「おやすみ、うらら」


 もう一度だけ、挨拶をして、この子に対する責任を強く抱きながら、目を閉じた。

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