7. 


 終業の鐘が鳴ったが、まだ終わらせたい仕事があるためにパソコンと向かい合っていた。


「安來君」


 すると、俺の席に西森部長がやってきた。

 驚いて振り返ると、片手にはなぜか新商品のお菓子を持っている。そして妙に、険しい表情を浮かべていた。


 俺はどぎまぎしながら部長に尋ねる。


「何かあったんですか?」

「君、もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか?」

「いえ、まだもう少し残っているので……」


 仕事に厳しい部長からのお達しに、俺は戸惑いながら答えた。

 すると、部長は相好を崩して、珍しく優しい言葉をかけてくれた。


「それは今すぐやらないといけない仕事ではないのだから、明日に回してもいいよ」

「あ、ありがとうございます」


 正直、俺は困惑を通り越して混乱していた。納期が遠くても、始めた仕事は最後まできっちり仕事を終わらせることがモットーの部長が、そんなことを口にするなんて、未だに信じられなかった。

 しかし、その理由は、あっさり部長が教えてくれた。


「ほら、早く帰らないと、うららちゃんが待っているんじゃないのかい?」


 部長が出入り口を顎で示しながらそう言ったので、俺はやっと納得できた。

 うららが人間になってから六日、今日から九月に入っていたが、シィエーヴからの魔法道具のお陰で、部長や同僚たちも元々俺がシングルファーザーであるかのように接してくれていた。


 働いている会社がスナック菓子の開発・販売をしているため、子供のいる社員には優しい制度が整っていた。終業後も、子育て世代から帰らせてもらえる。

 うららが保育園に通っているという設定を、うっかり付け忘れていた俺にとっては、非常にありがたいものとなっている。


 五十代で子供も独立している部長も、うららがいる前と後では全く俺への接し方が変わっていた。

 もちろん、本人はその変化には全く気付いていないのだが、俺だけはまだその変わりように慣れていない。


「それじゃあ、お言葉に甘えて……」

「あ、ちょっと待ってくれ」


 机に向かい直って、片づけを始めようとした俺を、部長が再び呼び止めた。

 見ると、申し訳ないが多少気持ち悪いほど、にこにこしながら持っていた自社製品であるお菓子の袋を差し出した。


「これ、今日発売の新商品だが、うららちゃんのお土産に持って行ってくれ」

「ありがとうございます」


 部長の善意だと分かっていながらも、緊張しながらその袋を受け取った。うちでは定番になっているスナック菓子の青のり味だった。


「しかし、今年でうららちゃんも五歳か……。ん? 誕生日は来ていたよね?」

「はい。七月に迎えました」

「今がやんちゃ盛りじゃないか?」

「ええ。先週も公園に行きました」


 部長がまるでうららがもっと幼いころから知っているように話すのが奇妙だったが、それを顔に出さないようにと努める。

 そして、公園の話題を出した瞬間に、部長が強く興味を持っていることに気付いた俺は、鞄からスマートフォンを取り出した。


「写真、何枚かあるのですか、見ますか?」

「おお、見たい見たい」


 部長はすぐにスマートフォンの画面を覗き込んできたので、俺も急いでギャラリーを開く。

 たくさんの画像の中から我ながら一番よく撮れていると思う、滑り台の上からこちらにピースサインを出しているうららの写真を押した。


「今、こんなに可愛くなっているのか。そして、相変わらず君に似ていないなー」

「そうですね」


 俺は苦笑を押さえながら答えた。

 それはうららと俺が似てないと指摘されたからではなく、部長は今初めてうららの写真を見たのに、やはり昔から知っているかのような反応を見せたのが可笑しかったからだった。


「……しかし、君も大変だね。これから小学校に入るのだろう?」

「はい。これから、より大変になっていきますね」


 いくつか写真を見せた後、ぽつりと部長が呟いた。

 俺も神妙な顔で頷く。たったの六日間だが、子育ての楽しさと辛さは確かに味わっていた。


 ふと、部長は俺の目を見据えた。その顔に、同情の色が浮かぶ。


「君も若いのに妻と……本当に苦しかったろう?」

「ええ……まあ、あの時はばたばたしていて、幸い感傷に浸る暇もなかったんですけどね。うららは母親がいないことをあまり気にしていないようですし、団地の周りの人たちが手助けしてくれましたから」


 俺は気まずさから、目を逸らしながら答えた。

 愛する妻を失った夫の感情を、演じられる自信が俺にはない。とりあえずは、それらしいことを言って、事実も織り交ぜて、今はもう大丈夫だということを示すことにした。


 ふと、部長が壁にかかった時計を見ると、もう終業時間から十分以上が経っていた。


「ああすまない。思ったよりも話し込んでしまったね」

「いえ、気にしていませんよ」


 本当に申し訳なさそうな顔をした部長に、軽く手を振る。

 あまり飲み会などに参加しない俺にとって、部長とこうして話し込んでしまうという経験も新鮮なものだった。


 鞄を持った俺に、部長は笑顔で手を振った。


「それじゃあ、うららちゃんによろしく」

「はい。ではまた明日」


 俺は会釈をして、廊下に出た。

 部長の先程の口ぶりから、彼はうららとあったことがあるということになっているようだ。


 しかしながら、うららがいる前とは、部長をはじめとした上司や同僚たちの態度がまるで違っているなと、エレベーターを待ちながら考えていた。

 車内で人付き合いが悪くて、多少浮いているきらいがあった俺だが、うららが俺の娘になってからは明らかに周りからの印象が変わった気がする。


 仕事中はさほど変わらないが、休憩中や終業後に話し掛けられることが多くなった。その話題の殆どは、当たり前のようにうららに関することである。

 恐らくは、飲み会にあまり顔を出さないという過去はそのままだが、それはうららがいたからだという理由付けがされたため、印象が百八十度変化したのだろうと、エレベーターで一階に下りながら分析する。


 それから、うららの母親、ひいては俺の妻に当たる人物が亡くなっているという設定も、周囲から「若いのに苦労している」と同情を買ってもらっているようだ。

 俺は、妻とは離婚しているという設定では、うららに会いに来ないのは可笑しいと思われてしまうだろうと考え、亡くなっていることにしてしまったのだが、それが功を奏したらしい。

 皆、目に見えて優しくなっているのだ。正直これは助かると同時に戸惑っている。


 今日も部長にその話題を出されたときに一瞬焦ってしまった。

 大体の人はこのことに触れないようにしてくれるが、関係が近しい相手は遠慮気味にだが言ってくることがあるようだ。

 となると、団地で良くうららのことも見てくれる伊藤さんも危ない。いや、それよりもお袋の方が積極的に触れてくるのかもしれない。

 今後のためにも、設定を練っておかなければならないなと痛感した。


 設定と言えば、うららの保育園についても完全に失念していた。うららが人間になる前に近所の保育園について調べて、そこに入っていることにすればよかったのだが。

 父子家庭なのに子供が保育園に入っていないというのは、待機児童が問題になっている昨今でも違和感を抱くが、一先ずはそのことを指摘する人はいないのでほっとしている。


 会社を出てから四十分後、高里団地の敷地内に入った。

 九月に入っても残暑が厳しい日々が続くが、中庭の遊具では半袖の子供たちが遊んでいるのが見える。


 その中の一人、鬼ごっこをしていた青いTシャツを着たスポーツ刈りの少年が、こちらに気付いて手を振った。


「うららちゃんのお父さん、こんにちはー!」

「茂明君、こんにちは」


 大声で挨拶してくれた彼に対して、俺もぎこちなく手を振り返す。

 この少年は四階に住む松尾茂明君で、うららと同い年の友達だった。しかし、彼の近くにうららの姿は見えなかった。


「うららはどこに行った?」

「うららちゃんは先に帰っちゃったよ」


 俺の質問にそう答えてくれた茂明君だが、横から鬼役の子が走ってきたのを見て、「やばいやばい!」と言いながら再び走り出した。

 「ありがとなー」と俺が声をかけても、そのまま走っていってしまった。


 茂明君の話から、うららはもう家でテレビを見ているだろうと予想した俺は、そのまま五号棟に入り、エレベーターのボタンを押した。

 エアコンの付いていない一階ホールでは、エレベーターを待つ間だけでも汗をかく。


 五階に辿り着き、エレベーターが開くとふわりと夏の風が吹いた。ここから見える中庭の緑も鮮やかだ。

 紅葉の季節はまだ先だが、いつかはうららと秋の野山を登ってみたいなと考えていた。結局今年は海に行けなかったから、尚更そう思う。


 五〇一号室の鍵を開けて、ドアを開ける。中からエアコンの冷気が流れてきた。


「ただいま」

「あ! おかえり!」


 すぐさま、居間に座っていたうららが、こちらに振り返って笑った。

 奥からは、テレビの音が流れている。


「今日も暑かったな」

「うん。でも、そとでしげあきくんたちとあそんだよ」


 ハンカチで汗を拭いながら今に入ると、うららはにこにこしながら教えてくれた。

 俺は台所に移動して、冷蔵庫から麦茶を取り出す。


「うららも麦茶、飲むか?」

「うん、ちょーだい」


 テレビにげらげら笑いながらうららが答える。

 俺はガラスのコップとプラスチックのカップをひとつずつ取り出して、麦茶を注いだ。


 ちなみにこのカップは、世間の認識を変える魔道具を使った後に現れた、うらら用のカップである。

 今うららが来ている紺色のTシャツも、同じく魔道具によって現れた服だった。


「はい」

「ありがとう、おとうさん」


 俺の渡したカップを、うららは笑顔で受け取る。

 そうして、二人とも喉の渇きを潤していたが、俺はうららに切り出した。


「うらら、今度の休み、どこに行きたい?」

「えっとね、ゆうえんちにいきたい!」


 うららはこちらを見上げて、目をキラキラしながら答える。


「そうかそうか。どこかいい場所を探しておくよ」

「やったー!」


 はしゃいで万歳をするうららを見て、俺は満足げに何度も頷いた。

 あまり値段が高くて遠い場所へは連れていけないが、うららの希望は出来るだけ叶えたかった。


 それにしても、二週連続で外出するには、とても久しぶりな気がする。

 この二カ月ほどはうららがいたため、中々家を空けられなかった。しかしそれ以前も、俺は出掛けるのよりも、家で数学の問題を解いている方が好きだった。


 うららにとっては、外に広がるどんな景色も、刺激的なものなのだろう。彼女は自分の記憶を補完しているが、周りにあるのは見たことのないものばかりなのだから。

 先週公園に行った時も、滑り台もブランコもまるで初めて乗ったように新鮮な反応を見せていた。いや、恐らく実際に初めてだったのだが。

 よって、友達と中庭で遊ぶのも大好きのようだ。……その割には、家でテレビを見ている時間も多い気もする。


 飲み終えたコップを流し台に置くと、そこに空っぽになった弁当箱が置いてあるのが見えた。

 今日もうららは弁当を完食してくれたことが分かると、妙に晴れやかな気分になれる。

 保育園に行けなくても、うららの昼食用にと平日は弁当を用意するようにしていた。弁当作りは初めてで、慣れないことも多いが、うららが一度も残したことが無いのが支えになっていた。


「うらら、今日の弁当はどうだったか?」

「きょうもとってもおいしかったよ! いちばんハンバーグがおいしかった!」


 弁当箱を洗いながら尋ねると、うららの嬉しそうな声が聞こえてきた。

 今日は初めてハンバーグに挑戦したが、評判は上々で何よりである。


 そういえば、うららはいつも好き嫌い無く何でも食べる。特にアレルギーも設定していない。

 しかし、一番好きなものも多分あるはずだ。俺はコップも洗い終えて水道の蛇口をひねった後に、もう一度うららに訊いてみた。


「うららは一番好きな食べ物は何だ?」

「ショートケーキがいちばんすき!」


 振り返ってみると、うららは本当にわくわくした顔で答えてくれた。

 もしかしたら、ショートケーキを食べられるかもしれないと期待しているようでもある。


 俺は頬が緩むのを感じながら、話を続ける。


「確かに、昔からショートケーキをうまそうに食べていたな」

「うん! すごくおいしくて、だいすき!」


 俺はまだ魔法生物だった頃のうららが、初めてショートケーキを食べた時の姿を思い出していた。表情が見えなくても、ケーキの味に感動していることが良く伝わってくるような反応をしていた。

 うららは何度も頷いている。そして、俺に期待を込めた目で真っ直ぐに見つめていた。


「まあ、ケーキはないが、今日部長からもらったお菓子があるぞ」

「わあ……うれしい!」


 俺が鞄の中から部長からのスナック菓子を取り出すと、うららは一瞬だけがっかりしたようだったが、気を取り直して笑顔を作った。


「これは夕食の後だな。今度部長に会った時に、お礼を言うように」

「はーい。わかったー」


 いつものように素直に頷くうららだったが、やはりその顔に失望が浮かんでいる。


「よし、分かった。遊園地の帰りにケーキを買っておこう」

「ほんとに! やったーー!」


 たまにはいいだろうと思い俺がそう言うと、うららは立ち上がって大きく万歳した。


「なんか、遊園地行きよりも嬉しそうだな」

「えへへ~」


 俺の指摘が図星だったようで、うららは照れ笑いを浮かべながら座り直す。

 その後は何事もなかったようにテレビを見ていたが、頬はまだほんのりと赤かった。


「楽しみだな」

「……うん」


 うららは小さな声で言ったが、遊園地が楽しみだという気持ちは、口元の笑みから零れ落ちていた。


 たった六日前から始まった、俺の娘であるうららとの日常は、こういう小さな喜びに溢れている。

 それが続いていく幸せを一人で噛み締めながら、俺はやっと着替えようと自分の部屋に入っていた。


 ドアを閉める直前、居間とダイニングではうららの笑い声が朗らかに響いていた。


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