7.5.



 外ではまだ蝉の声が聞こえてくる、晴れ渡った月曜日の朝だった。

 九月の二週目でも汗ばむ日々が続く中、うららは父・三春みはるが会社に行くのを見送りに玄関で立っていた。


「おとうさん、きょうはおそくなる?」


 気恥しそうに切り出すと、靴を履き終わった三春は立ち上がって振り向いた。


「いや、すぐに帰ってくるよ。何かあるのか?」

「ううん。なんでもない」


 照れ笑いを浮かべながら、うららはくねくねと体をよじる。何故だか、昔から一人ぼっちにいると妙に心細く感じるのだ。

 三春はそれを不思議そうに眺めていたが、踵を返してドアを開けた。


「じゃ、いってきます。外で遊ぶときは、鍵閉めるのを忘れるなよ」

「はーい。いってらっしゃーい!」


 外に出た三春に、うららは彼が見えなくなるまで手を振っていた。


 それからうららは、午前中はテレビを見たり絵を描いて遊んだりして過ごし、三春が用意してくれた弁当を食べた。ちなみに今日は、焼き鯖と枝豆とみそおにぎりが入っていた。

 午後も同じように過ごしていたが、安來やすき家に電話がかかってきた。取ってみると、友人の松尾茂明しげあきからのものだった。


「うららちゃん、外で遊ぼうよ!」

「うん! すぐにいくよ!」


 電話を切ったうららは、三春がいつも言っているように窓が閉まっているかをきちんと確認して、家の外に出た。

 ドアの鍵もしっかりかけて、ネックストラップがついた鍵を首から下げる。


 エレベーターで一階まで下りて、うららはホールから外へと飛び出した。

 青い空がどこまでも広がり、まだ暑さのこもった風が吹いてくる。うららは薄手のポンチョを翻しながら、友達たちが待って居る中庭へと駆けだす。


 すでに中庭の滑り台の周りには、彼女の友人たちが集まっていた。と言っても、四歳から五歳までの子供が四人である。

 かつて三春が子供だった頃よりも、団地の住民の数はずっと減ってしまい、特に少子化の影響で子供の減少は著しい。それでも、このように近所に遊べる場所とすぐに集まれる友人がいることは、現在ではとても貴重だった。


 友人たちはうららの姿を見つけると、笑顔で手招きしてくれた。

 走っていたうららは彼らの前に急ブレーキをかけ、息を切らしながらも待ちきれないという様子で口を開いた。


「おまたせ!」

「いつもうららちゃんが一番おそいねー」

「五号とうの五階に住んでるから、しかたないよ」


 一番棟の二階に住んでいる女の子・石田のぞみがからかうようにそう言うと、すかさずうららを誘った茂明が助け舟を出してくれた。


「ねえ、きょうはなにしてあそぶの?」

「どうしよっか? おにごっこは前にやったし……」

「色おにしたい!」

「かくれんぼ!」

「ドロケイは?」


 最後に出た茂明の提案に、他のみんなも喰い付いてくれた。


「いいよ!」

「やろうやろう!」

「じゃあ、ドロボウチームとケイサツチームとで別れようよ!」


 そうして二手に分かれた五人は、ブランコの側を牢屋と設定して、警察チームが十数えている間に泥棒チームは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。警察チームの一人になったうららも、きゃあきゃあ騒ぎながら走り回る。

 中庭には幼稚園や小学校から帰ってきた子供たちで賑やかさを増していた。明るい声が眩しい青空に吸い込まれていく。


 泥棒チームの茂明が滑り台に上り、うららもそれを追い掛けてきた時だった。茂明が長年使われ続けてあちこちが凹んでしまった滑り台を滑り終えて逃げていくのを見た時、うららは「あっ」と声を上げた。


「しげあきくんのズボン、あながあいてるよ!」

「えっ、ウソっ!?」


 自分が追いかけられているのも忘れて、茂明はそのまま立ち止まり、ズボンを無理矢理引っ張って、ズボンの穴を確認しようとしたが、上手くいかなかった。

 滑り台を下りて、彼に追いついたうららが、「ほらここ」と、擦り過ぎて布地が薄くなったズボンの右側を指差した。


「しげあき、またズボンに穴あけたのー」

「ほんとだー」


 他の子たちも、捕まっていたはずの子まで集まってきて、茂明のズボンの穴を見て、ゲラゲラと笑い合っている。

 しかし、うららだけは、何気なく聞こえた一言が心に引っかかっていた。


「また?」

「この前夏休みに草すべりした時に、茂明くんのズボンに穴が開いちゃったの、おぼえてない? たしか、うららちゃんも一緒だったよね?」

「うん……」


 望からそう説明されると、そんなこともあったような気がするが、はっきりとは思い出せない。

 うららは胸の内がもやもやとし、それが段々と重みをもっていくのを感じていた。


「あの時と同じズボンじゃない?」

「ちがうよ! あれはすてたから!」

「それより、早く着がえたら?」

「言われなくても、そーするよ」


 まだにやにや笑いを浮かべながらからかう友人たちに、茂明は羞恥心から半分怒って言い返す。そのまま踵を返して、自分の家へと走っていった。

 そのやり取りをうららは、輪から外れたような孤独を感じながら無言で眺めていた。


「うららちゃん、続きやろうよ」

「あ、うん」


 望に尋ねられて、うららもはっとしたが、周りの子と同じように走り出しても、まだ気持ちはそわそわと落ち着かなかった。

 もはや、今はドロケイどころではなくなっていた。望が話してくれた、夏休みに重明のズボンに穴が開いた出来事を必死に思い出そうとしていた。


 うららは一人、滑り台に登った。眼科では友人を含めた子供たちが、それぞれ好きなように遊んでいるが、うららの事を気にしている人は一人もいなかった。

 三方を長方形の団地に、左手側を緑の生い茂る桜の木々とオレンジの石畳の道に囲まれた中庭からは、団地よりも高いビルが立ち並ぶ街並みがぼやけて見える。この光景もうららには見慣れたはずだが、どこか気もそぞろになるのはどうしてだろうか。


 うららはぼんやりとしながら、自身の記憶を辿ってみる。

 しかし、先々週の土曜日、父が自分のリクエストに応えてくれて、昼食にチャーハンを作ってくれた日より以前のことがはっきりと思い出せない。

 今まで、色んなものを見て、経験してきたはずだ。ただ、この目で見て来た筈の、桜吹雪や青い海岸などの光景は、まるで写真のような薄っぺらさで思い浮かんでくる。


 唯一思い出せるのが、ビルに囲まれた路地裏だった。

 くすんだ灰色の壁やそれに付いたいくつものパイプ、生暖かい風を吐き出すエアコンの室外機、排気ガスと梅雨入り前の空気が混じった匂い、素足に感じるコンクリートの刺激などまで思い出せる。しかし、何故そんなところに、裸足で立っていたのは分からない。


 そして、路地の先にある大通りに、自分と向き合うように立つ父親の姿を思い出した。殆どの通行人が足を止めずに去っていく中、スーツ姿の三春だけが、こちらを見て不思議そうな顔をしていた。

 それを見て、自分の中で「嬉しい」という感情が爆発したのを、彼女は思い出してしまった。ずっとずっと、誰かにこうして見詰めてもらいたかったという要望が満たされて、安堵していた。


「ああ……」


 うららは子供らしからぬ溜息を吐いた。見上げた空の遠くでは、烏が黒い点々となって飛んでいる。

 心の中で渦巻いていた疑問がすべて解消された。自分が何者だったのか、どうしてここにいるのかも、分かってしまった。


 ふと、視線を下に向けると、自分の手が段々と透けていくのが見えた。もう指先は、完全に消えている。

 自分の記憶や他の人々の記憶は、殆ど作られたものだと知った。まるで無理矢理嵌め込まれたパズルのピースのように、この世界にとっては不自然な存在であるとしてしまった。


 もう、ここにはいられない。私はありえない存在だとそう悟った。

 恐怖などは微塵もなかった。むしろ、違和感が解消されたことによる安心に満ちていた。

 短い間でも、「人間」として生きていられて、嘘偽りなく嬉しかった。


 瞼を閉じると、両眼から涙が零れ落ちた。

 そのまま、その子供は、残暑の青空に解けるように、消えた。












 ……ズボンを履き替えた茂明が戻ってくると、先程と変わらずにの友人が走り回っていた。

 しかし彼は違和感を覚えて、同じチームの望みと並走しながら彼女に尋ねた。


「ねえ、もう一人いなかったっけ?」

「えっ? いつもこの四人だったよ?」


 虚を突かれたような顔で望に言い返されて、茂明もそれもそうかと納得する。

 ただ一瞬だけ、背後の滑り台の誰もいないてっぺんを振り返った理由は、茂明自身にも分からなかった。

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