8.


 九月五日月曜日、俺は終業の鐘が鳴る五分前に、机の上を片付けて帰る支度を始めた。

 すると、西森部長が自分の机から、多少恨めしそうな声で言った。


「……安來やすき君、今日はもう帰るのかい?」

「はい……。今、急ぎの案件はありませんよね?」

「まあ、そうだけれども……」


 念のために確認すると、やはりもう帰っても大丈夫なようだ。

 しかし、部長は煮え切れない表情だ。帰ってもいいが、本心では先に帰るのを快く思っていないようである。


 先に帰るのはうららのためであり、そもそもはその事を部長が奨励していたのではないかと、内心で首を捻っている。そこへ、終業の鐘が鳴り響いた。

 俺は鞄を片手に立ち上がる。周りを見回すと、何人かの同僚がさっと目を逸らすのが分かった。


 何か疑問があるのならば口に出せばいいのにと思いながらも、彼らの態度が妙によそよそしいのが気にかかる。まるで、俺が以前の人付き合いの悪い頃のようだった。

 虫の知らせというのか、胸騒ぎを覚えて、今日は買い物をする予定だったが、そのまま真っ直ぐ帰ろうと決めた。


 会社を出て、地下鉄に揺られるいつも通りの帰路でも、胸騒ぎは収まらずに、大きさを増しているかのようだった。

 早くうららの顔を見たい。地下鉄から降りると、自然に早足になっていた。




















 高里団地の敷地内に入ったときには、日は傾きかけていた。

 中庭で遊ぶ子供たちに目を向けるが、うららの姿は見つけられなかった。よく一緒に遊んでいる友人たちもいないようである。

 きっと家に帰っている筈だと、自分に落ち着くように言い聞かせながら、五号棟のエレベーターを上がっていった。


「ただいま……」


 鍵を開けて入った自宅は、やけにしんとしていた。

 物音がせず、電気も付いていないために薄暗く、エアコンも作動していない。

 きっと、遊び疲れて眠っているんだと、靴を脱ぐのももどかしく思いながら、家に上がる。


「うらら?」


 居間の襖を開ける。

 そこはいつもよりもすっきりしていて、そして誰もいなかった。


 言葉にしにくい焦りを、喉元に感じていた。

 家中のドアや襖を開けたが、うららは見つけられない。改めて玄関をよく見ると、靴すらなかった。


 うららがどこに行ったのか全く見当がつかなかったが、彼女の友人が何か知っているのかもしれない。

 唯一松尾茂明君の家の電話番号は、彼の母親と最近会った時、何かあったら連絡するようにと教えてもらっていた。


 手元に電話番号を記したメモは無かったが、それに頼らずとも番号は暗記していた。

 躊躇わずに玄関にある電話の受話器を手に取り、番号を押していく。


「もしもし?」

「すみません、安來ですが、松尾さんのお電話ですか?」


 数回のコールですらもどかしくて、茂明君の母親らしき声が聞こえてきた瞬間に、早口で切り出していた。


「はい、そうですが……」

「あの、うちのうらら、そちらにいませんか?」

「え?」


 困惑している松尾さんに構わずに、一方的に尋ねると、彼女は疑問を口にして、黙り込んでしまった。

 俺には長すぎる沈黙の後、松尾さんが尋ね返した。


「うららって、誰のことですか?」


 今度は俺が絶句する番だった。喉から水分が干上がっていくのを感じる。

 松尾さんは間違いなく、以前会ったときは俺のことをうららのおとうさんだと言っていた。それが突然、うららの事を忘れてしまうなんて、ありえないはずだ。


「……すみません、気のせいでした」


 からからの喉で絞り出すように、自分でも筋の通っていない言い訳で誤魔化し、松尾さんの返事も待てず受話器を切った。


 ただ立っていたはずなのに息が切れ、心臓は激しく脈打っていた。

 まさかまさかまさかと頭の中で繰り返しながら、もつれそうな足で居間に飛び込んだ。


 最初は気付かなかったが、うららに関するものがすっかり消えてしまっている。

 いつも机の上に会った自由画帳とクレヨン、部屋の隅のクマのぬいぐるみ、物干し竿に下がっていたはずのうららの服も、無くなってしまっていた。

 箪笥を開けてみる。うららが持ち出すはずがなく、泥棒が盗むわけもない母子手帳はどこにもなかった。


 振り返ると、襖には、消えてしまっていたはずの「安來 うらら」とペンで書かれた紙が再び現れている。それを見て、確信した。

 今の世界は、うららが俺の娘だと魔法によって認識される前に戻ってしまったのだと。

 だから、部長は俺が時間通りに帰るのに難色を示し、松尾さんはうららの事を忘れていた。


 どうしてこうなってしまったのか。それは予想がついていた。

 うららは、俺がいないときに自分の矛盾に目を向け、自己の存在が揺らいでしまったのだろう。

 それをきっかけに、この世界から消えてしまった。うららがいることが前提にかけられていた魔法も、解けてしまったようだ。


 魔法が上手く作用したことにより、うららがこの世界に受け入れられたことに安心して、彼女に対する配慮が足りていなかった。

 もっと、うららの様子に目を向けていたら。いつも明るく楽しそうにしているうららの様子に、勝手に大丈夫だと思い込んでいた。


 後悔に苛まれる途中で、とてつもない喪失感を抱いていることに気付く。

 そうか、うららと共に生きるという選択は、いつか来る別れを選択するということだったのか。


 当たり前なことを初めて意識して、俺はその別れの重みに膝をついた。

 しかしその時、ずっと炬燵の端に追いやられていた小さな水晶玉とそれを送ってきた魔法陣が描かれた紙が、視界に入った。


 まだ、まだできることがあるはずだと、俺は水晶玉を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。

 シィエーヴは、もしもうららがこの世界から消えてしまったら、世界と世界の狭間にいると話していた。

 そして、俺の中にも魔力があるのだから、道具や呪文などの補助があれば、魔法を使えるとも言っていた。


 うららがいま、世界の狭間にいるのなら、この水晶玉と魔法陣の力を借りて、そこへ行くことができないだろうか。

 もちろん、この二つの元々の用途から考えると、失敗する可能性もある。だが、それは躊躇する理由にならない。


 俺の足は自然と、うららが人間になる前から立っていた、襖の前炬燵の後ろの位置に立っていた。

 ここからだと、居間の中がぐるりと見渡せる。テレビもよく見えて、赤くなり始めた窓の外も真正面にあった。


 うららはいつもこの景色を見ていたのか。ここから、人間に憧れ、人間になることを夢見ていた。

 その夢が叶っても、たったの九日で別れなのか。それはあまりに、理不尽ではないのか。

 俺は悲しみよりも、怒りを感じていた。そんなこと、はいそうですかと受け入れられるはずがない。


 床に敷いた魔法陣の上に立ち、右手の水晶玉を強く握る。

 閉じた目の中では、うららの姿を、うららの笑顔を思い浮かべていた。

 うららのいる所へ、うららとここへ戻ってくるために。頼む、俺をそこへ連れて行ってくれ。

 自分の中に眠っているという魔力に、強く念じる。


 瞼の外で、正面から強い光が迫り、俺を包んでいくのを感じた。


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