9.


 体が宙に浮いているような感覚がして、俺は目を開けた。

 そこは見慣れた居間ではなく、どこまでも真っ白な中に、時折大小が異なる金色の光が瞬く空間だった。まるで明るすぎる宇宙のようだ。

 俺自身の体も、無重力の中のように漂っている。魔力を使ってしまったのか、右手の中の水晶玉は一回り小さくなっていた。


「うらら? うらら?」


 果ての見えないこの空間が、シィエーヴの言っていた世界の狭間だという確信はあったが、肝心のうららの姿が見当たらない。

 呼びかけてみても、返事は無かった。


 後ろにいるのかもしれないと、足は立ち泳ぎ、腕は平泳ぎの要領で動かしながら、体を半回転させる。

 そして見上げた先には、


「うらら!」


 人間になる前の、黒い布を頭から膝下まですっぽり被ったような、魔法生物の姿のうららが、俺から見て真横になった状態で浮いていた。

 嘴と色白な爪先は上に向けて、布の裾は風もないのに微かに膨らみを持って揺らめいている。

 怪我などをしているようには見られないが、俺の声に全く反応しない。


「うらら! うらら!」


 俺は何度も名前を呼びながら、手足を不格好にばたつかせながら、うららがいる上の方を目指す。

 このような空間では分かりにくいが、俺とうららは十メートルほど離れているようだった。


「うらら……」


 無重力のような場所で進むということは想像以上に体力を使い、段々と勢いを失っていたが、うららを呼ぶことだけは息苦しくなっても続けていた。

 そして、俺が六メートルほどうららに近付いた時に、彼女の魔法生物としての身体に変化が現れた。


 布が徐々に体の下へと移動していき、すぽんとうららの頭が抜けて出てきた。現れたのは、穏やかな寝顔だった。

 一方、黒い布は少しずつ小さくなり、うららが初めて人間になった時に着ていたポンチョになった。色白の腕が見え、足元は短いズボンを履いている。


 俺は肺いっぱいに空気を吸い込んで、何回目か分からないがもう一度うららの名を叫んだ。


「うらら!」


 うららがゆっくりと目を開けた。寝ぼけたような顔を、こちらに向ける。


「……おとうさん、どうして……」


 俺の一メートル先で漂ううららは、涙目になりながら、蚊の鳴くような声で問いかけた。

 不安を滲ませるうららに、俺は笑顔を見せた。


「うららを迎えにきたんだ」


 うららに向かって手を伸ばす。この距離なら、うららにも届くはずだ。

 しかし、うららは悲しそうに首を振るだけだった。


「おとうさん、ありがとう。でも、わたしはもう、あの世界には帰れない」


 うららの瞳から、涙の粒が溢れた。

 それは周りに光る星のように、きらきらと輝きながら、上空へと登っていった。


 俺はうららの涙を見て、胸を締め付けられるような苦しみを覚えた。

 涙を零し続けながらも、うららは口を開いた。


「わたしは、全部思い出しちゃったの。本当は、おとうさんのむすめじゃないことも、人間じゃないことも。人間じゃないわたしが、あの世界にいるのはおかしいでしょ?」

「だから、自分で自分を消してしまったのか」


 苦しみに喉の奥が引っ付きそうになりながらも、俺は声を絞り出した。

 うららは小さく頷いて、自分の考えを述べる。


「むかしのきおくがなくて、みんなをだましているわたしは、あの世界にいちゃいけないんだ。……おとうさん、短い間だったけれど、楽しかったよ。ありがとう」

「うららは、本当にそれでいいと思っているのか?」

「え?」


 うららから礼を言われた時、俺は今までの動揺が嘘のように落ち着いて、彼女に切り出すことができた。

 それとは反対に、今まで涙を流しながらも覚悟を決めたような顔をしていたうららは、戸惑ったように視線を泳がせている。


「まだうららは、あの世界でやりたいことが山ほどあるんじゃないのか? それを諦めて、本当に消えてもいいと思っているのか?」

「……ううん。もっと、テレビを見たいし、友だちとあそびたいし、ショートケーキも食べたいし、お父さんとお出かけもしたい。でも、でも、わたしが、あの世界にいることは、」


 本心を吐露して、しどろもどろになってしまったうららの手を、優しく掴んだ。

 温かく、血の通っているその左手に、俺はほっとする。


「きっとうららは、水晶玉から普通の人間はこういうものだと教えてもらったから、それを守らなくちゃいけないと思っているんだな。だけど、あの世界には普通から外れちゃっている人もたくさんいる。俺だってそうだ」

「そうなの?」

「まあ、その話はまた今度な」


 俺は苦笑して誤魔化しながら、左手はうららの手を握ったまま、水晶玉を持った右手を彼女の背中に回して、俺の目の前に立たせてあげた。

 泣きやんだうららは、それでも少し自信がなさそうに下を向いている。


「人間じゃないわたしが、あの世界にいてもいいのかな」

「世界には七十億以上の人間がいるんだ。元魔法生物が一人増えたってどうってことない。ただ、」


 俺が妙な所で言葉を切ったので、うららは不思議そうに顔を上げた。

 その世界一愛しいきょとんとした顔に、俺は笑いかける。


「うららがいなくなって悲しくなる人間が、ここに一人いるってことは覚えていてほしいな」

「……おとうさんっ!」


 俺の手を振り払ったうららは、そのまま俺に抱きつき、わっと泣き出した。

 その背中を優しく擦りながら、俺はうららに尋ねた。


「さあ、うちに帰ろう」

「ゔん!」


 涙声のうららが俺の服に顔を当てたまま頷いた瞬間、右手の中の水晶玉がひときわ強く輝いた。

 その光は、俺の手から漏れ、俺たちの姿も包んでいき……




















 気が付くと、俺は自宅の居間に立っていた。

 当たり前のように、抱きついたうららも一緒だった。


「……帰ってこれたようだな」

「……うん」


 俺の呟きに、鼻水を啜りながらうららが頷く。


 外は夕暮れで、オレンジ一色になっていた。それは部屋の中も真っ赤に染め上げている。

 居間を見回すと、長い影を落としているが、うららの持ち物が戻ってきているのが分かった。うららが戻ってきたことにより、魔法も以前のように復活したらしい。


 掌の中の水晶玉はすっかり消えてしまい、足元の魔法陣は細かく破れてしまっていた。

 もう二度と、道具に頼って世界の狭間に行くことは出来なくなってしまっていたが、もう大丈夫だという自信があった。


「おとうさん、ただいま」

「おかえり、うらら」


 笑ううららの黒い髪を、何度も撫でた。

 そういえば、初めてうららを触ったときも、頭からだったなと思い出しながら。


 いつもの部屋なのに、夕暮れのこの瞬間はまるで違う場所のように美しく、その中で泣きやんだうららと一緒に笑い合っていた。


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