3.


 子供が家に上がり込んでから、早くも八日が経ち、土曜日を迎えた。


 朝起きるとまず、和室の方で様子を見る。子供はいつもと同じように、カジュアル炬燵の後ろに立っていた。

 子供が昨晩全く動いていないということは、敷かれた布団に入っていた形跡が見当たらない事から推理できる。これは最初の夜から変わらない事であった。

 休日に布団を干したが、もう無意味ならば押し入れに戻して今後は出さないようにしようと考えながら、和室を横切ってトイレに向かった。


 朝食は二人分を作り、子供と一緒に和室で食べる。ちなみに今日はベーコンエッグだった。

 時折、子供が俺の夕食を横から勝手に食べてしまうことがあったので、もうこうなったら最初から二人分の食事を用意した方が楽だと考えたからだ。

 未だに食事の必要性があるのかどうか分からないが、俺が仕事のある日は朝食と夕食とを、子供はいつも一心不乱に自分の目の前に置かれた皿を突いていた。


「うまいか?」


 尋ねてみても、返事は無い。最早落胆することはなくなっていた。

 声に反応しているため、聴覚は持っているようだが、喋ることが出来ないのだと、俺はそう捉えていた。


 食後にはテレビをつける。それは完全に子供のためだった。

 この子のテレビに対する関心は驚くほどで、試しに一度子供とテレビの間に立ってみると、初めて自ら動いて、テレビが見える位置に移動するほどだった。

 チャンネルや番組によって選り好みはしないようだが、やはり子供だからか、Eテレへの関心はと一番強かった。目の前に食事が置かれても、しばらく眺めているくらいだった。


 子供がテレビを見ている間、俺は家事をこなしていく。これは子供が現れる前と変わらない。

 昼食と食器洗いまで終えると、完全に暇になってしまった。普段なら好きなように過ごしているが、今日はそうはならない。


 果たして、この子供の正体は一体何なのか。

 時間が開くと、最近俺はいつもこの疑問に辿り着く。


 そもそも、この子供は幽霊であるという仮説自体が段々と心許ないものとなっている。

 食事を摂りたがる点もそうだが、耳を澄ませると呼吸の音が子供からしていることにも、つい先日気が付いた。

 死者である幽霊が、食事や呼吸を行うなど、ありえるのだろうか?


 無論、これまでの通説の方が間違っていたという可能性もある。子供の正体が妖怪だから、普通の人間には見えなくても、生命維持に必要な行為をするとも考えられる。

 そして、考察がこのように疑問の袋小路に入ってしまうのは、俺にしかこの子供が見えていないからなのではないのか。

 幽霊や妖怪を見る力を「霊感」と呼ぶのならば、俺以外の「霊感」のある人物を探してみるのが、新たな方向性が生まれるのではないか。


 しかし、この家に霊能力者を呼ぶのは抵抗がある。

 実際にあるのかどうなのか分からない霊能力に、お金を払うという不安があったが、それと同時に霊能力者を呼ぶことで、この子供が祓われてしまうのではないのかという懸念もあった。

 この子供が家に来てから、俺の心身に悪い変化はなかったため、身に迫る危機もないのに急いでここから追い出してしまうというのは、非情な判断に思われた。


 霊感のある知り合いに相談するという手もあったが、残念ながらそのような知人は思いつかない。

 人づてに霊感のある者を探そうとしても、「俺の部屋に幽霊がいて……」と切り出した時点で、すぐに休むことを勧められるのかもしれない。

 下手すると、会社や団地に広まって変人扱いだ。それはどうにか避けたかった。


 匿名で、幅広い人々に呼び掛けられる方法を考えて、子供の写真を撮り、インターネット上に掲載する方法を思いついた。

 霊感のある人物が写真を見れば、この子供が幽霊なのか妖怪なのかが明確になるのかもしれない。


 一先ず、子供の写真を撮ってみようと、変わらずテレビを見ている子供の前の炬燵をずらして、その全体像が映るように俺は窓側へ下がり、スマートフォンのカメラを構える。個人情報が分かるようなものが映りこまないように注意して、一枚シャッターを切った。

 撮った写真を見てみると、何も貼られていない襖を背景に、黒い布を被り、素足のまま立っている子供の全身が確かに写っていた。とりあえず、写真に写ることが出来ないという訳ではなさそうである。


 ふと見ると、子供が俺のすぐ近くまで寄ってきていた。テレビがついている時には珍しい行為である。

 どうやら、シャッター音が気になって、見に来たようだ。俺がスマートフォンを下げると、覗き込んでくる。


「綺麗に写っているか?」


 子供は一分ほど、写真の中の自分を眺めていたが、飽きたらあっさりとしたもので、そのままいつもの位置に戻っていった。


 さて、次はこの写真をどう公開するかが問題となる。

 俺は生憎SNSの類をやっていなかったが、この写真一枚のためだけに初めても、なかなか人には見られないようにも思える。


 そういえば、心霊写真を人々はどこで見ているのかが気になり、一度「心霊写真」で検索してみた。

 すると、二百万以上ヒットして、ご丁寧に心霊写真をまとめているサイトなども現れた。俺自身は、子供のころから全くオカルトに触れずに生活してきたが、世間的には心霊現象への関心は高いようである。


 しばらく散策していると、「【閲覧注意】心霊写真が集まるスレ」という掲示板を見つけた。

 早速開いてみると、画像のリンクから、ガラス窓に人の顔が浮かび上がった写真、片足だけが不自然に途切れている人の写真、明らかに人数が合わないもう一人の手のある写真など、多種多様の心霊写真が見られた。

 それら心霊写真自体は恐ろしいとは思わなかったが、スレ上では霊感があるという人々からの、「これはヤバい」「ニセモン出すなよ」「すぐにお祓いした方がいい」などのアドバイスも書き込まれていることが気になった。


 ここならば、霊感のある人からの助言がもらえそうだと、早速アカウントを作り、まだシステムを完全に把握していないなりに、写真を投稿する。何が写っているかのヒントにならないように、「家の中に何かいる」と一言だけ添えた。

 そのまますぐに退会し、しばらくスレの事は放っておくことにした。


 後は平穏無事に一日を終えた。

 今夜は試しに、子供用の布団は片付けて寝たが、それについても特に困ったことも無かった。




 翌日の日曜日、子供にテレビを見せて、ある程度の家事も一段落した頃に、ふと自分が写真を投稿したことを思い出した。

 何か反応は来ているだろうかと、早速スマートフォンで開いてみる。すると、俺の予想以上に掲示板内は盛り上がっていた。


 ほとんどのレスポンスは、「何か写っている?」「ただの襖に見えるけど」「幽霊、どこ?」と、子供が見えていない様子の内容だったが、時折「え? わかんないの?」と人を小馬鹿にしたような言葉が現れるので、俺はそれを注視して先に進めていく。


「右端に、小さな手が写っている」

「襖に人の顔が浮かび上がっている」

「上の方に不自然なオーラみたいなの、見えない?」

「ど真ん中に、動物っぽい影がある」

「何がいるのか分からないけど、見てるだけで寒気がしてきた……」


 ネット上の人々は、好き勝手に写真に写っている何かを言い当てようとしていた。

 しかし、俺と同じように「黒い布を頭からすっぽり被り、膝から下の真っ白な足が伸びている子供」の姿を見た者はいない。


 結局、この検証によって、新たな謎が増えてしまった。

 子供が幽霊なのか妖怪なのか、はたまた全く違う何かなのか。それとも、元々この掲示板にいたのは、霊感のない者たちだったのか。

 いや、本当に霊感があるのなら、子供以外の何かがこの部屋に駐留している何かを見てしまっているのは、それはそれで恐ろしい事でもあるように思える。


「お前は、一体何なんだろうな」


 画面を真っ暗にしたスマートフォンから、真剣に将棋中継を見続けている子供の方へと目を向ける。姿勢は立ったままで、昨日から全く動いていないのではと心配になる。

 そして、当たり前のように、返答はなく、相手の小さな呼吸音に俺は耳を澄ませているだけだった。





















 子供を初めて見た日から早くも二十一日が経ち、季節は梅雨を過ぎて七月になっていた。

 気温が日を追うごとに上がっていくのを肌で感じるが、子供には特に変化は見られない。汗をかいたり、水分を欲しがったりする様子もなかった。


 生きているのか死んでいるのか、どこから来たのか何が目的か……きりのない子供に対する疑問は、何一つ解決していない。むしろ深まるばかりである。

 時折、俺が画像を投稿した掲示板を覗いてみるが、結局俺と同じ子供の姿を見た者はなく、新しい心霊写真の話題に皆の興味は移っていた。


 ただ、あくまで主観だが、子供の表情と言えば可笑しいが、動きや反応などは、少しずつ変化しているような気がする。

 例えば、俺がただいまと玄関を開けると、居間の空きっぱなしの襖から、顔を出すようになった。

 一昨日は、家に帰るとテレビをつけていて、ひどく驚いた。恐らく、俺のやっていることを真似て、リモコンを操作したのだろう。

 テレビの出演者の言葉に頷いたり、難しい話題には首を傾げたりもする。夕食中に、「うまいか?」と尋ねると、顔を上げて、こちらを見て、大きく頷いたのは、妙に感慨深いものがあった。


 このように、子供の些細な点から成長を感じるが、俺自身には特に変化らしいものは起こっていなかった。

 体調が優れないわけでもなく、いつも通りに快眠であり、体重の増減もない。

 この子供が疫病神ではないことは確かだが、逆に福の神という訳でもない。俺の日常は本当に平々凡々で、家以外の場所では何事もない毎日を送っていた。

 ただ二つ、変わった点を挙げるなら、子供の分の食費とテレビがいつもかけっぱなしのため電気代が上がったことぐらいか。それも、許容範囲内に収まっている。


 そんなことを考えながら帰路につき、玄関のドアを開けた。時刻は夕方の六時だが、まだ外は明るい。


「ただいま……」


 家に入って、すぐに異変に気が付いた。

 襖が開きっぱなしの居間の中から、ばたばたと走り回る音が二人分聞こえてきた。何か物が倒れる音もする。


「ちょっと待ちなさい!」


 足音に交じり、聞き覚えのない女性の怒鳴り声も聞こえる。

 俺は色を失い、靴を脱ぎ捨て、真っ直ぐ居間へと飛び込んだ。

 そして、その中の光景に、信じられないものを見た。


 俺の目の前、畳の上に立っていたのは、まるで絵本に出てくるような、分かりやすい魔女の格好をした女性だった。とんがり帽子と短めのマントはオレンジ色を基調とし、膝上の黒いスカートを穿いていた。

 年齢は俺より上のようだが、外国人の顔立ちのため、はっきりと分からない。


 女性の左手は子供の頭を押さえつけていて、右手には大きめの万年筆のようなものを握り締めていた。子供は必死に足を動かしてそれから逃れようとしていた。

 今まで俺が帰ってきたことに気付いていなかったのか、俺と目が合うと、「あっ……」と突然の事にきょとんとした顔をした。


 その隙に、子供が彼女の手から逃れ、こちらへと走ってきた。

 俺は屈んで子供を抱きとめ、強く彼女を睨む。


「あんた、何者だ? どこから入ってきた?」


 家の玄関も居間の窓もしっかりと施錠されていた。

 そのはずなのに彼女はこの家に侵入し、狭い居間の中で子供と追いかけっこをしていたようだった。お陰で、炬燵の上に合ったものはすべて畳に落ち、くずかごも横倒しになっている。


俺の追及に、女性は佇まいを直して、しょんぼりとした様子で素直に頭を下げた。


「ごめんなさい。すぐに終わるはずだったから、こんなに汚すつもりはなかったの」


 俺は、彼女が見た目以上に礼儀正しいのに多少たじろいでいた。


 その間に顔を上げた彼女は、丸くなった目で物珍しそうにしげしげと俺を眺めている。


「それにしても、あなた、本当にこの子の事が見えてるのね……」


 相手からそう言われて、俺はやっと思い出した。

 この子供は、今まで俺にしか見えていなかったはずじゃなかったのか?


「あんた、一体……」


 混乱に落ちた俺は、先程と全く同じ質問をぶつけていた。頬に冷たい汗が流れる。


 女性は、何故だか胸を張って、自己紹介をした。


「私の名前はシィエーヴ・コンスタンタン。こことは違う世界から来た魔女よ。そしてこの子は、」


 魔女だと名乗る女性は、右手の万年筆で、俺の腕の中でまだ震えている黒い布の中の子供を指示した。万年筆から、黒色のインクが数滴飛び出すのが見えた。

 そうして意味深に、魔女は微笑む。


「私が作ったの」




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