2.
地下鉄に揺られて、俺が生まれ育って今も暮らしているある高里団地に到着した頃には、すでに日が暮れかけて、暗い青色に空は覆われていた。街灯にも白い光が点いている。
クリーム色の団地の棟に囲まれた、滑り台やブランコなどが置かれた広い中庭を右手に、今は緑の葉を茂らせた桜の木々を左手にして、色褪せたオレンジ色のレンガのような石畳の道を歩いていく。中庭に合わせた緩やかなカーブを辿っていると、向こうから見知った中年女性が歩いてきた。
「あら、
「こんばんは、伊藤さん」
すれ違いざまに彼女は立ち止まり、笑顔で挨拶をした。俺も頭を下げる。
俺の部屋の三つ隣に住んでいる伊藤さんは、専業主婦でお袋の古くからの友人でもあり、俺が赤ん坊の頃からよく知っている人でもあった。
伊藤さんには日が落ちた後にウォーキングをする習慣があり、今日もその最中のために青いジャージを着て首元にタオルを巻いていた。
「最近どう? お仕事忙しい?」
「はい。少し前に一段落したところです」
「そうなの。よかったわー。この前見かけた時、すごく疲れているみたいだったから」
「ありがとうございます」
伊藤さんの心遣いに、素直に礼を言う。現在、お袋がイギリスで日本語を教えている状況で、親の代わりに俺の体調を心配してくれる彼女の存在は、本当にありがたかった。
その後しばらくは、伊藤さんと互いの近況を離していたが、その間ずっと俺には気がかりなことが一つあった。ビルの隙間から出てきた後、ずっとついてきた黒い布を被った子供のことである。
結局この子供は、地下鉄の自動改札もくぐって同じ電車に乗ってきた。席に座れた俺の目の前で立ったまま、時折辺りを見回しながら電車に揺られている。
その間、乗客たちは全く子供の方を見ようとしなかった。誰かがぶつかってしまうのかもしれないと思ったが、無意識に子供のいる所は避けて通っているようだった。
俺は一度首だけで後ろを振り返ってみた。子供は俺の五十センチ後ろで仁王立ちして、物珍しそうにあちこちを眺めているのが、黄色い嘴のような箇所の動きで分かった。
すると、伊藤さんが不思議そうに俺の背後を覗き見た。
「三春くん? そこに何かあるの?」
「あ、いえ、何でもありません」
慌てて否定すると、伊藤さんも「そう」と一言だけ言って、それ以上は追及しないでくれた。その後は、適度な挨拶を交わして、彼女と別れた。
子供の事を通行人が何も言ってこないのは、俺たちの事を不気味がっているのかもしれないと考えていたが、旧知の仲である伊藤さんもこのような反応ならば、本当にこの子供は俺以外には見えていないらしい。
二つのガラス戸のうちの一つを開けて五号棟のホールに入り、エレベーターの上ボタンを押した。丁度ここには誰もいなかった。白い蛍光灯だけが寒々と灯り、エレベーター左側の階段にはそれが届かず、暗がりに誘い込むかのようだった。
俺が体を一回転させると、子供も背中を向けていて、銀色のポストの列を不思議そうに見つめていた。ホールのマーブル模様の床はよく冷えている筈なのに、それを気にしている様子はない。
「……お前は俺にしか見えない幻か?」
この子供は幽霊であるという可能性ともう一つ、思いついたことを相手にぶつけてみる。すると子供は俺の声に気付いて振り返ったが、やはりこちらを見上げるだけで何も答えてくれない。
仕事が忙しくて、可笑しなものが見えるようになったのかもしれない。しかし、試しにもう一度子供に手を伸ばしてみると、頭には触れられるし、布を触っている感触もする。
幻というのはここまで出来るものだろうかと、首を捻りながら何度も子供の頭を撫でていた。子供はその間、嫌がるそぶりを見せない。
そこへ、エレベーターが到着したことを知らせる「ちん」という音が静かなホールに響いた。子供は驚き体をびくりと震わせて、俺はやっと子供の頭から手を離して前を向く。
濃い茶色のドアが開いたので乗り込むと、子供も当たり前のようについて来た。開ボタンを押して、しばらく待つ。俺の真後ろに立った子供は、細長い箱のようなエレベーター内をぐるぐる見回していた。
「うちまでついてくるのか?」
ボタンから指を離して、ドアが完全に締まり切る直前にそう尋ねてみたが、もちろん子供はこちらを見るだけで、返事はしなかった。
最上階まで上がったエレベーターを出て、すぐ隣の五〇一号室が俺の家だった。すぐに家に帰れるのが羨ましいと、同じ団地に住んでいた友人たちからよく言われたのを思い出す。
鍵を開けようとしている間、子供は背伸びをして、ドアの真向かいの手すりの向こうを見ようとしていた。この子は好奇心旺盛で、道中様々なものに興味を持つが、何故だか俺から離れようとはしなかった。
ドアを開けて、真っ暗な玄関に入る。子供も迷わず入ってきた。ドアが勝手に締まり切る前に、靴を脱いで三和土から上がり、すぐ左にあるスイッチを押した。玄関の丸型蛍光灯が点いて、子供が天井を仰ぎ見た。
そしてすぐに、子供も俺の後に続いて家に上がろうとしてきた。
「ちょっと待て」
俺は慌てて、子供の腰辺りを両手で抱えて持ち上げる。子供を抱き上げるという経験は無かったが、それでも異常と思えるほど、その子供の体重は軽かった。一グラムも満たないような、紙ほどの軽さを両手で感じる。
一方持ち上げられた子供は、少し驚いたようにも見えたが、ここでもなすがままだった。そういえば、この子の胴回りは、足幅から想像していた以上に太いなと思いながら、玄関から左手側の風呂場へと運ぶ。
この子は幽霊なのかもしれなかったが、部屋に入る以上はずっと何も履かずに外を歩き回っていた足の裏が気になった。意味のない行為のようにも思えるが、どうしても一度足を洗わせようと、片手で脱衣所に続くドアを開ける。
脱衣所に入ってドアの横の電気のスイッチを二つ押して、脱衣所内の白い蛍光灯と、風呂場の黄色い電球が灯った。そのまま真っ直ぐ進むと、すぐにお風呂場のドアに行き当たる。
そのドアも開けて、乾いたタイルの上に子供を置く。靴下を脱いだ俺はそれを洗濯カゴに投げ入れて、スラックスの裾をまくってから、風呂場に入った。
黄緑色のタイルの上でも、子供は大人しく、興味深そうに周りを見ているだけだった。しかし、俺がシャワーを手に持ち、蛇口を捻った途端、様子が豹変した。
シャワーの水から逃げるように、足を激しく動かして、俺とは対角線上の角に走っていく。行き止まりになっても、嘴のような箇所で緑の壁を叩いて、そこからさらに逃げようとし始めた。
俺は面食らったが、相手を落ち着かせようと優しく声をかけた。
「大丈夫だって。少し冷たいくらいだから」
じりじりと距離を詰めていくと、子供はこちらに振り返った。膝が恐怖のあまり笑っている。ここまで怖がられると申し訳なくなり、俺も出来る限り離れた場所から足元に水をかけた。
すると、子供は大きく飛び上がった。このまま滑って転んでしまうのではないかと一瞬思ったが、シャワーの水が届かない俺の目の前に着地した。そして、シャワーを持つ俺の手に噛みついた。
「いって!」
まさかこの嘴のようなところが開いて、噛んでくるとは思わなかった。普通の鳥に噛まれたような痛みが走る。見ると、手の甲には血が滲んでいた。
子供の方は、俺の真後ろにあった浴槽の中に飛び込んで、細かく震えていた。ここまで追い詰めてしまったことを反省し、俺はすぐにシャワーを止めた。
「ごめんな、水が苦手だとは、思わなかった」
謝罪を述べながら近づくと、今度は先程の慌てぶりがなかったかのようで、子供はそのまま抱きかかえられた。風呂場から出ると、ほっとしたのがなんとなく分かる。足ふきマットの上にのせて、足の水気をよく取った。
今の騒動で子供に嫌われてしまったかと思ったが、俺が先に脱衣所から出るとカルガモの雛のように子供はついてくる。左に曲がって、和室の出入り口である襖を開けて、中に入った。
和室は六畳一間で、目の前にはベランダに出られる大きな窓、右手側にダイニングキッチンへと繋がる襖、その間の角に薄型のテレビが置いてあった。ダイニングキッチンと向かい合う形で、押し入れと箪笥があって、真ん中には物で多少ごちゃついている四角いカジュアル炬燵が起動せずに設置されている。
電気を点けると、子供は早速辺りを観察している。そして、風呂場側の出入り口のすぐ隣の小さな本棚に興味を示していた。これはお袋が使っていたものなので、今では中身は殆ど無くなっていたが、子供は飽きずに眺めていた。
この子は家にあるものに、まるで初めて見たようなリアクションを見せると思いながら、まだ夕日の残光が入ってくる西向きの窓のカーテンを閉める。そして、炬燵の上のリモコンを手に取り、テレビのスイッチを付けた。
まさかとは思ったが、この子供についてのニュースが流れているのかもしれないと注意深くチャンネルを変えてみる。しかし、ニュース番組にも終盤の天気予報が映るばかりで、特に気にかかる情報は得られない。
仕方なくテレビを消そうとすると、俺とテレビの間に、真っ黒い影が割り込んできた。それは紛れもなくその子供で、今までにない喰い付きようでテレビに見入っている。嘴が画面にぶつかるのではないのかと思えるくらい近付いて、ご丁寧にキャスターの動きに合わせて体が傾いていた。
初めてテレビを見た人間のような反応に驚きながらも、目が悪くなるのかもしれないのでもう一度持ち上げて、炬燵の後ろまで運ぶ。……幽霊かもしれない相手の健康を気遣うのは、非常に矛盾しているのだと思うが。
「テレビを見る時は離れておけよ」
ダイニングに続く襖を開けながら、そう声をかけるが、初めて子供はこちらを見ずに、テレビの音声に耳を澄ましていた。それに多少寂しさを感じながら、俺は襖を閉めた。
「……やっぱりいるよな」
一度自分の部屋でスーツからジャージのズボンと灰色のTシャツに着替えてから戻ってきても、その子供は全く変わらない姿勢のままテレビのCMを見つめていた。
じっとしたまま動かない子供の真横に立った俺は、自室から持ってきた布製のメジャーで子供の身長を測ってみた。足元から頭の先までは、約百十一センチある。大体、幼稚園児の平均ほどか。次に腰のあたりをメジャーで囲い、ウエストを測る。約五十センチだった。
不可思議な相手の事を数値化して、幾分かほっとした俺はそのままメジャーを巻き取ろうとしたが、ふと気になってこの子の首回りも測ってみようと思った。嘴らしき場所から五センチほど下の箇所を、優しくメジャーで巻く。すると、黒い布は相手の首の形をなぞらずに、すぐ何かにぶつかった。
予想外の事に混乱したが、ここが首ではないのかもしれないと、メジャーの位置を変えてみたが、結局ウエストと太さは殆ど変わらなかった。
俺は至近距離で、子供の顔をじっくり観察した。すると、嘴以外は真っ平らにいなっていることに気付いた。
本来あるはずの鼻や顎などの凹凸はどこにも見当たらない。この下には、顔などが存在していないかのように。
一体この布の中はどうなっているのだろうかと、俺は早鐘を打つ心臓を抑えながら、今まで触ってはいけないと感じていた、布の裾部分をつかんでみた。
そして、ゆっくりと持ち上げてみる。……しかし、布は膝の辺りで何かに引っかかったように上がらなくなった。背中側、反対側、非常に気が引けたが真正面からもめくってみようとしたが、同じように止められた。
腕を組んで、その理由を考えてみると、この子供は幽霊ではなく、妖怪と呼ばれる類ではないのかという仮説が思い浮かんできた。
例えば漫画で見かける唐傘お化けのように、脚は人間でもそこから上は傘であるとしたら、傘の中に何もなくてもそういう構造なのだと納得できる。この子供も、外見通りの姿で、布の中というものはそもそも存在していないのではないのだろうか。
もう試してみようとも思わなかったが、仮に俺が子供の頭の方の布を掴んでそれを引っ張っても、最初から持ち上がることすら出来ないのかもしれない。
……と、ここまで子供の身長やウエストを測ったり、布の裾をめくったり、突然考え込んだりと俺が色々している間、子供はずっとテレビに夢中だった。
考え始めると埒が開かないし、そろそろ腹もすいて来たので、俺はキッチンへと向かう。ありあわせの人参ともやしとハムを炒めて、缶詰のスープも鍋に移し替えて温めた。それらに白飯を足して、お膳に並べ、和室へと運ぶ。
子供が眺めているテレビは、商店街の食べ歩きの番組を流していた。あまりテレビをつける習慣がない俺は、こういう番組もやっているのかと画面を一瞥して、夕食を摂る方に集中した。
母子家庭だったため、俺は小学生中学年から自分で食事を作るようにはなっていた。料理はさほど凝ったものを作れず、味にもあまり自信もないのだが、人並みには出来ているのだと思っている。
俺は箸を手にして、黙々と食事を摂っていた。すぐ左手には、俺にしか見えない正体不明の子供がいるのに、食卓はいつもと変わらず、静かなものだった。
しかし、俺がスープを飲んでいる時に珍事が起きた。一瞬の隙をついて、子供が皿の上の人参ともやしを突いて、食べてしまったのだった。
俺があっと思った時には、すでに子供は元の位置に戻っていて、数回野菜を咀嚼した後に嚥下した。俺は呆然とその一連の動きを見ているだけだった。
幽霊というのは、死んだ人間なのだから、食事の必要性がないもののように感じられるが、それは違っていたのか。あるいは、この子が妖怪なのだから、食事も行うことが出来るのか。
……今日は何回も戸惑い、考え込んだが、結局答えは得られず、確かめる術もない。そのままテレビに集中力が戻った子供の事は放っておいて、食事を続けることにした。
それから食後に食器を洗い、和室に戻った後は子供とテレビの間に座り、空いた時間は数独を解いていた。これが普段の俺の過ごし方であり、自室に謎の幽霊というか妖怪というのか、それが居座っていても変わらない。
いや、こういう非常ではないが異常な事態だからこそ、逃避の意味も込めて、いつもの事を行いたいのかもしれない。
ちらりと左を見ると、やはり子供は始まったばかりのドラマを全く動かずに眺めていた。
子供の事はそのままにして、風呂に入ったり明日の仕事の用意をしたり就寝前の準備もした時には、時計の針は十二時を指していた。今日は本当に様々なことが起きて、時間が長くなったように感じられた。
リモコンを持ってテレビを消すと、子供がやっと俺の方を見上げる。
「もうそろそろ寝るぞ」
視線は感じられないが、どうも恨みがこもっているような気がして、俺は言い訳するように呟く。
子供が睡眠を必要としているのかは分からないが、押し入れからお袋が使っていた布団一式を取り出す。多少カビ臭いが、少し我慢してほしい。
それを、テーブルを少しずらしてできたスペースに敷いた。その様子を子供は位置を変えずに見つめているだけだった。
蛍光灯から下がった紐を引いて、部屋の明かりをオレンジの豆電球だけにしても、子供は俺の方を向いているだけで、布団には全く興味を持たない。
とりあえず、自分の部屋に行くためにキッチンへと出て、襖を閉める前に一言だけ声をかけた。
「おやすみ」
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