38話 未来
「昨日は本当にすまなかった……!」
泊まりの仕事を終え、家に帰ってすぐ沙優に頭を下げると、彼女はおろおろと手を横に振った。
「いやいや、吉田さんは悪くないでしょ」
「そうは言ってもな……」
あさみが代わりに家にいてくれたとはいえ。
あれほど怖いことがあったというのに、その翌日に沙優を一人にしてしまったのは本当に心苦しかった。
「いいからいいから、それより早く着替えよ? ご飯もうできるから」
沙優が俺の背中をぐいぐいと押して、居間に無理やり通される。
俺としてはもっといろいろと謝りたいことがあるのだが、今抵抗しても仕方ないと思い、素直に従う。
スーツから寝間着に着替えている間に、沙優はてきぱきと夕飯の準備を進め、俺が着替え終わる頃にはもう夕飯がテーブルの上にすべて並んでいた。
「ありがとう」
「いえいえ。食べよ!」
沙優は俺よりも先に元気よく「いただきます」と手をそろえて、箸を掴んだ。明らかに、俺に気を遣っている。
俺も「いただきます」と手をそろえて、味噌汁を一口だけ啜った。全身の力が緩むのを感じる。沙優の味噌汁を飲むと、不思議と、家に帰ってきたという気持ちになるのだ。
「沙優」
ずっと、会社にいる間も、考えていた。
「うん?」
沙優が首を傾げるのを待たずに、俺は頭を深く下げた。
「怖い目に遭わせて、悪かった」
「えっ、いやそんな」
「守ってやれなくて悪かった」
「守ってくれたよ!!」
沙優が大きな声を出して、そして自分の大声に驚いたかのようにびくりと身体を震わせた。そして、すぐに、首を横に振る。
「守ってくれたじゃん……」
「でも、沙優はきっと傷付いた」
「自業自得だよ。自分が歩いてきた道を少しだけ思い出しただけ」
「……でも」
「吉田さん」
俺の言葉を、沙優が遮った。
沙優は、箸をテーブルに置いて、俺の目をじっと見つめた。
「私、ここに来る前はね」
真剣な眼差しで、沙優は言葉を続ける。
「誰も助けてくれる人なんていない、って思ってた。利用されれば、利用できるって。そんなふうにひねくれてたの」
利用される。それは、相手の求めることを許す、ということであって。そして、利用する、というのは、彼女の場合、安全な宿を得る、ということなのだろう。そう意味であれば、確かに彼女のしてきたことはそれに尽きる行動だったと思う。
「でもね……」
沙優はそこで言葉を区切って、目を瞑った。ゆっくりと息を吸って、吐く。そうして目を開いた後の彼女の表情は、とても柔らかく、そして自然な笑顔だった。
「吉田さんに出会えて、あなたが、初めて守ってくれた。あさみにも出会えて、あさみも私のこと受け入れてくれた」
沙優は、そう言って、少し瞳を潤ませた。
俺は、彼女の浮かべる笑顔から目が離せない。そんなふうに笑ったのは、初めて見た。
「つらいことばっかりで、逃げ出したくて、でも、どこに行ってもつらくて。もう私はどこに行ってもダメなんだって思いながら、それでも逃げることがやめられなくて、ずっとずっと苦しかった」
そう言って、沙優は急に立ち上がって、俺の隣にやってきた。そして、俺の横で正座で座り直した沙優は、そっと俺の寝間着の裾を掴んだ。
「でも、吉田さんと一緒に暮らして、やっと……やっと私」
沙優は俺の目を見て、そして俺の袖をぐいと引っ張って。
「み、未来のこと……考えられるようになったの」
その言葉を聞いて、俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
「未来……」
気付くと、俺もつられてその言葉を口にしていた。
「うん、未来」
沙優は頷いて、目に涙を貯めながら、それでも言葉を続ける。
「どこまで逃げるかじゃなくて、これからどこに行くのか、私ちゃんと考える」
「……沙優」
「自分がどうするべきか、どうしたいのか……ちゃんと、ちゃんと考えるよ」
沙優はそう言って、俺の袖を掴んでいた手を、今度は俺の手に重ねた。
「勇気を出すから……だから」
沙優はそこまで言って、頬に涙を一筋だけ伝わせて。
「もう少しだけ……一緒にいてくれませんか」
もう少しだけ。
その言葉に、俺は震えてしまった。
すぐに、言葉が出ない。俺がくちをぱくぱくさせていると、沙優は涙をこらえるようにうつむく。
「だ、ダメですか……」
「いや、その……」
沙優は「もう少しだけ」と言った。
今まで、俺も沙優も、ぼんやりとさせて触れなかったそれに、彼女自ら触れたのだ。
「お前ほんとに……」
ようやく彼女は、自分の中に『期限』を設けたのだ。そしてそれを口にした。それは俺と沙優の関係の間ではものすごく大きく、重大なことだと思った。
「ほんとに……えらいよ」
俺はため息をつくように、そう言っていた。
「え?」
首を傾げる沙優の頭の上に、俺は手を置いて、乱暴に撫でた。沙優の髪の毛がばさばさになるのをおかまいなく、撫でた。
「ちょ、ちょっと吉田さん」
沙優が腹を括ったのに、俺が腹を括らないわけにはいかない。
俺はきっと、彼女がいつまでも期限を先延ばしにして、いつまでもこの家にとどまり、そして生ぬるい同居生活を送ることを、心の底では悪いことだと思っていなかったのだ。
矢口の言う通り、こいつのいる生活を、俺は本気で楽しんでいた。彼女を救ったつもりになって、それでいて俺もしっかり救われていた。
心のどこかでは分かっていたけれど、はっきりと言語化しないままここまでやってきて、そしてその矛盾に苦しめられた。
保護者の俺が、いつまでもぐずついているわけにはいかない。
「俺もさ」
口を開くと、ぼさぼさの髪の毛のまま、沙優は俺の目を見た。
「お前が前向いて元の生活に戻れるように、本気で手伝うよ」
俺の言葉に、沙優は目を丸くした。
「だからさ」
俺は、今まで一度も言わなかった言葉を、彼女に言うことにした。
「頑張れ」
沙優は、一瞬で瞳を潤ませて、そして部屋着のスウェットでそれを乱暴に拭った。詰まりかけの鼻をずびっと啜って、沙優は力強く首を縦に振った。
「うんっ!」
そして、にこりと、歯を見せて、沙優は笑った。
それも、今まで見たことのない、子供らしい、彼女の笑顔だった。不覚にも、一瞬見とれてしまった。
「あ、やべ」
「ん?」
照れ隠しに、俺は味噌汁を指さした。
「冷めちまう」
「あ、そだね。すぐ食べよう」
沙優ももう一度自分の目元をスウェットで拭ってから、そそくさと自分の夕飯が置いてある側のテーブルへと戻っていく。
少し爽やかな気分になりながら、口数少なく、二人で夕飯を食べる。
これでいい。
少しずつ前を向いて、沙優はこれから、普通の人生へと戻ってゆく。
そう思いながらも、俺は気付いていた。
味噌汁を一口啜って、その塩味を舌の奥にじっくりと感じさせる。
今沙優と交わしたのは、別れの約束なのだと。
きっと沙優も気付いている。
それでも、それが正しいと、二人とも確信していたのだと思う。
ひげを剃る。そして女子高生を拾う。 しめさば @smsb_create
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ひげを剃る。そして女子高生を拾う。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます