37話  星空

「えっ、吉田っち今日帰ってこないん?」

「……そうみたい」


 バイトを終えて当たり前のように家にやってきたあさみを居間に通して、私は台所で夕飯を作っていると、吉田さんからのメッセージが届いた。


『すまん。今日ちょっと仕事でトラブって、どうしても今日そのフォローをしないといけないから、会社に泊まることになりそうだ。昨日あんなことあった次の日に家にいられないのは本当に申し訳ないんだが、こればかりは俺もどうしようもなくてな……。本当にすまん。飯とかは自分の分だけ用意してくれればいいから。あんまり不要な外出はするなよ。何かあったらすぐメッセージ入れてくれ』


 いつも短文で用件だけを送ってくる吉田さんにしてはものすごく長い文章が送られてきていてびっくりしてしまう。

 読んでいる途中で、あさみが画面を覗き込んできて、彼女もいっしょに文面に目を通す。


「いや心配しすぎでしょワロ。パパかよ……」

「まあ……心配させるようなことしちゃったし」


 私が言うと、あさみはちらりと私を横目で見てから、私の脇腹を肘で小突いた。


「沙優チャソのせいじゃないでしょ」

「……」


 私がどう答えていいものか迷っていると、あさみは私のスマートフォンをひったくって、勝手にメッセージを打ち始めた。


「え、ちょっと」

「いーからいーから」


 あさみは軽い調子で言ってから、ものすごい速度で文字を打っていく。


『吉田っちやっほー☆ あさみだけど、今沙優チャソと一緒に吉田っちの家にいるから。吉田っち帰ってこられないなら保護者的なアレでウチが一晩沙優チャソの面倒見ちゃおうかナ~。割とマジで名案だと思うんだけど!?返信ヨロ。最速でヨロ』


 あさみが打った文面に私は驚いてしまう。


「えっ、泊まりって大丈夫なの?」

「ダイジョブダイジョブ」

「ご両親心配したりしない?」


 私が訊くと、一瞬あさみの目が泳いだ。あれっ、と思った頃には、あさみは笑顔を作って、首を縦に振っていた。


「ダイジョブダイジョブ。どうせ今日もいないから!」

「あ、そうなんだ……」


 無神経なことを訊いてしまったかと、少し反省する。

 すぐにスマートフォンが振動して、吉田さんからの返信がきていた。


『すまん。頼めるなら頼みたい。ありがとう』


 それを見て、あさみはにまにまと笑った。


「だってさ沙優チャソ。今日は一晩中一緒じゃんね、ヤバい」

「ヤバいねぇ」


 私もつられて笑ってしまう。あさみの見せる笑顔はいつも柔らかくて、ついついこちらも巻き込まれてしまう。


「じゃあとりあえず夕飯にする? お腹空いてるよね」


 あさみに訊くと、あさみは一瞬の間を置いてから、首を横に振った。


「いや、夕飯はとりあえずいいからさ」

「うん?」

「ちょっと行きたいトコあるんだけど、付き合ってくんね?」


 あさみはそう言って、窓の外を指さした。

 時刻は20時を回って、外は真っ暗になっていた。


「こんな時間に?」

「そそ、こんな時間だからこそってか」

「まあ、二人なら平気だよね。行くよ」

「さっすが沙優チャソ、話が分かるゥ!」


 あさみは大げさに手を打ってみせて、元気よく立ち上がった。


「そうと決まったらすぐ行こ、すぐ!」

「ちょちょ、どこに行くの?」

「行ってからのお楽しみね。あ、一回ウチん家寄るからヨロ」

「え、そうなの?」


 次々とまくしたてながらあさみがずんずんと玄関へ向かってしまうので、私も慌ててコンロの火を止めて、居間の電気を消す。スマートフォンをポケットにつっこんで、あさみと一緒に家を出た。


「この辺街灯ちょっと少ないんね。夜一人で歩くのは怖そ」

「そう? これくらいが普通じゃないのかな」

「ウチん家の近くは街灯もっとすごいよ。眩しすぎてムカつく」

「そ、そうなんだ」


 他愛のない会話をしながら歩いていると、どんどんと私の知らない道へと入って行った。吉田さんの家から多分10分も歩いていないくらいなのに、もう、どこを見渡しても知らない建物だ。

 そして、あさみの言うようにどんどんと街灯が増え、明るくなってきているのを感じた。そして、経っている建物も、立派な造りの一軒家ばかりだ。


「ちょっとここで待ってて」


 突然あさみが立ち止まって、にこりと笑って言った。


「え、う、うん」


 私が頷くと、あさみはおもむろに財布を取り出して、中から薄いカードのようなものを取り出した。そして、目の前の大きな門の横にとりつけられた機械にそれを挿入した。大きく「ガチャッ」という音がしてから、門が自動でゆっくりと開き始める。


「……えっ」


 視線を上げると、ものすごく大きな門の奥に、ものすごく大きな家があった。むしろ、私は今までこれを『家』だと認識せずになんとなく『大きな建物』だと思っているくらいだったのだ。


「こ、これがあさみの家?」


 私が訊くと、あさみは私の方に向き直って、「そ」と言った。その後にくしゃっと作った彼女の笑顔は、どこか寂しげだった。

 門が開いて、あさみが小走りで中に入っていく。そして、数秒後にガチャガチャと音がしたと思ったら、中から自転車を引っ張り出して戻ってきた。


「おまた~」

「じ、自転車?」

「そそ、今から行くとこ、歩きだとちょっと距離あるからさ」

「え、私も乗るの?」

「そだよ、後ろ乗りな、後ろ」  

「二人乗り……大丈夫かな」


 警察に見つかれば、補導の対象だ。

 私の言葉に、あさみはにんまりと笑って、言った。


「じゃあ沙優チャソだけ走る?」

「ひどい!」

「ダイジョブダイジョブ、今から行くとこ都会の田舎みたいなとこだから、マッポなんていないいない」

「マッポってさ……」


 軽口のやりとりをしている間に、あさみは門を閉め直して、自転車にまたがった。そして、小さな荷台をぽんぽんと叩いた。


「ほら、いいから乗る」

「うん……」


 おそるおそる、荷台に横向きで座る。あさみは横目で私が座ったのを確認してから、「じゃ、行こ」と行って、ペダルをこぎ出した。

 少し左右に揺れたせいで私がバランスを崩す。


「うわっ」

「ウチに抱き着いていいよ。ちゃんと掴まってな」

「う、うん……」


 言われるがままに、あさみの胴に後ろから抱き着くと、急にバランスが良くなったような気がした。

 だんだんとスピードに乗ってきた自転車が、進行方向からの風を受ける。足はすうすうとして、でも、あさみに抱き着いている上半身は暖かかった。

 どうして、会ったばかりなのに、彼女の存在はこんなに心強いんだろう。

 そんなことを思った。


「ねえ、あさみ」

「ん?」


 気付くと、口にしていた。


「私ね」

「うん」

「北海道から来たんだ」

「へぇ~、めっちゃ遠いじゃん。どしたの」


 今言おう、とか。今なら言える、とか。

 そんなことは考えなかった。

 気がついたら、するすると、私は自分がどこから来た何者なのか、あさみに話していた。

 あさみは、自転車を漕ぎながら、ゆっくりと、心地いいリズムで、相槌を打ってくれた。

 それはゆったりとした時間で、私の中でつかえていた重くて大きい、そして黒い物体が、少しずつとろけて夜の闇に溶けていくみたいな、とても解放感のあるものだった。

 ここに来るまでの話、吉田さんと出会った話、あさみと出会った話、そして、後藤さんと出会った話。

 そのすべてを終えた頃に、あさみはペダルを漕ぐのをやめた。


「着いたよ」


 あさみがそう言って自転車を止めた時、私は周りの景色が一変していることにようやく気が付いた。


「うわぁ……」


 思わず、口から漏れていた。

 小高い丘の上。都会の中にこんなに自然があったのかと思うくらいに近くには多くの草木が生えていて、小さなベンチと芝生だけがある公園が目の前にあった。

 そして、空にはまぶしいくらいの星空。


「綺麗でしょ」

「うん……」

「ここ、ウチのお気に入りなんだ」


 あさみはそう言いながら自転車を公園の端に置いて、ゆっくりと芝生の中心へと歩いて行った。

 そして、そこでおもむろに寝転がった。私もあさみの隣に、寝転がった。視界が、星空で埋まる。


「ほんとに綺麗……都会でも、こんなに星が見えるんだね」

「ビビるよね。ウチも初めて見た時、めっちゃビビった」


 あさみはけらけらと笑ってから、小さく息を吐いた。そして、ぽつりと言う。


「お父さんは、政治家でさ」

「え?」

「お母さんは、弁護士。ウケるよね」

「あさみの話?」

「そ」


 あさみは鼻からすんと息を吐いて、言葉を続けた。


「昔っから両親とも忙しくてさ、ウチはずーーっと放置されてた。不満があったわけじゃないんだけど、やっぱり寂しくてさぁ。あのだだっぴろい家もどんどん大嫌いになったんだよね」

「……そっか」

「両親の気を引きたくて、ギャルのカッコしてみたりしたけど、母親は卒倒するわ父親はマジギレするわで大変だっただけで、なんでウチがそんなことするのかとか、そういうとこはまったく考えてもらえなくてさ」

「うん」

「んでね、昔っから勉強だけはちゃんとやってないとお母さんがこわくってさ。言われるとおりに勉強頑張ってたんだけど」


 道理で、あさみは頭がいいわけだ。聞いていて合点がいった。そして同時に、少し悲しい気持ちになった。


「お母さんはウチのこと弁護士にしたいみたいなんだよね。それもう中学生くらいの時から分かってて。でもウチ、あんま弁護士興味なくってさ」

「うん、向いてないと思う」

「ぶはっ、なにげにヒドくね? んまあそれでね、ウチさ」


 そこで、あさみは一旦言葉を区切った。続きを待っているのになかなかあさみが口を開かないので不思議に思い、横を向くと、あさみはなぜか顔を赤くしていた。


「え、どうしたの」

「いや…………笑わない?」

「え?」

「笑わないかって訊いてんの」

「わ、笑わないよ」


 何を言うのかわからないうちにそんなことを言っていいのか不安だけれど、真面目に聞くつもりはある。

 私の言葉を聞いたあさみは少し挙動不審に視線をきょろきょろと動かした後に、小さな声で言った。


「ウチ、小説家になりたいと思っててさ」

「え! すごいじゃん! なれるよ絶対!」

「な、なれるかなぁ……ま、まあそれはいいとして」

「なれるって絶対!」


 何回か、あさみが学校で出された作文の課題をやっているのを見たことがあるけれど、本当にスラスラと、そして丁寧でまとまった文章を書いていて、ひたすらに感心したのを覚えている。


「わかったから、もういいから」


 あさみは暗い中でも分かるくらい顔を赤くして、ごまかすように話を続けた。


「だから、そしたら法学部じゃなくて文学部に行きたいじゃん」

「まあ、そうだよね」

「で、それを言ったらまあお母さん猛反対」

「……まあ、そうだよね」


 あさみはため息をついて、星空を指さした。


「お母さんと初めて大喧嘩になってさ。そしたらお父さんが珍しく、ウチのこと連れ出してくれたわけ。それがここ」


 あさみが星空を見る目を、少しだけ細めた。思い出すように語る彼女の横顔は、少し大人びていた。


「んで今みたいにここに寝転がらされてさ、一緒に星を見たんだあ。ウチが綺麗で驚いてたらさ。お父さん、『お前の悩みなんてのは、宇宙の星と比べたらちっぽけだ』なんて言うわけ」


 あさみは可笑しそうに一人でけらけらと笑って、からまた目を細めた。


「急にそんなスケールデカい話しやがって、何言ってんだこのハゲって思ったんだけどさ」

「ひどいこと思ったね」

「だって突然宇宙と比べられても困るじゃんね、ウチただの人間だし」


 あさみは可笑しそうにそう言ってから、すっと真面目な表情を浮かべた。


「でもさぁ……お父さんのその言葉には微塵も賛成できなかったけど、この星空見てたら思ったんだよね」

「なんて?」


 私が訊くと、あさみは少しの間をおいてから、小さな声で、けれど、はっきりと言った。


「あんなに大きな星がいっぱいある中でも、私たちは生きてて、何かをしてるんだなって」


 星空を見つめたままそう言ったあさみのその横顔がものすごく綺麗で、私もつられて星空に視線を戻す。


「星空から見たらウチらのスケールなんて確かにちっちゃすぎて、誰の目にも留まらないくらいだと思うんだけど、それでもウチらにはちゃんとそれぞれの歴史があって、未来があって、一人一人精一杯、やれる範囲で生きてるんだなって」

「……」


 目に飛び込んでくる星空の景色と一緒に、あさみの言葉がじわりと私の胸に浸透していくような気がした。


「って、突然自分語りしてイミフ、って思うかもだけどさ」


 あさみはそこまで言って、そっと私の手を握ってきた。


「沙優チャソにも歴史があって、で、未来もあって、それってどうあっても沙優チャソのものなんだと思うわ。こう……聞いてたらさ、しんどい歴史だったっていうのは分かるんだけど、でも」


 あさみは、私の手をぎゅっと握って、私の方にこてっと首を倒した。あさみと目が合う。


「絶対、意味はあるよ。大丈夫」

「……ッ」


 じわりと、目の奥が熱くなった。

 あさみは、おかまいなしに、私の目を見つめたまま、言った。


「ここまでぼろぼろになって歩いてきたじゃんね。すごいよ。沙優チャソ頑張り屋で、『歩かなきゃ、歩かなきゃ』って思っちゃうのも分かるんだ。でもさ、たまには自転車乗ったっていいと思うんだよウチは」

「……うん…………うん……」

「歩いてきたんだからさ、きっと歩いて戻れるよ」

「…………うんッ!」


 私は、隣のあさみに抱きついた。

 目が燃えるように熱い。ここに来てから、私は泣いてばかりだ。


「よしよし、泣くな泣くな……泣くなよぉ」


 あさみの身体に顔を押し付けているから、彼女の顔は見ることができないけれど、あさみもすっかり鼻声になっていた。

 小高い丘の上、そして星空の下。

 私とあさみは、二人で数十分、わんわん泣いた。

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