バーと酒、そして煙草

 カクヨムで手当たり次第にタイトルから開けてざっと眼を通していた頃のことだ。
 やたらとバーで、飲んで、煙草を吸っている話が多いなと想った。
 今から想えばそれらの作品のほとんどは、惣山沙樹さんのものだった。


 偶然ながら、ネットの中でわたしが興味本位で追いかけている見知らぬ女性も、バーで、飲んで、煙草を吸う。
 家族構成も語り口調もなぜか惣山さんに似ている。
 次第にわたしの中ではお二人のイメージが混然一体となっていて、あ、浮気……ああ違うあれはこっちで、惣山さんのことではない、危ない危ない。
 と、かなり危なっかしいことになっている。
 両者を取り違えて発言しやしないかと、今もひやひやしているのだ。
 バーで、飲んで、煙草を吸う。
 見知らぬ女性の方は美乳をチラつかせながら男性を釣って浮気をしているが、惣山さんは浮気をしていない(多分)
 しかし惣山さんの作品の中には不倫をしたり、一夜をたのしむ男女が出てくるのだ。
 混乱する、勝手に混乱する。

 まあ惣山さんから「浮気してるよ」と告られたとしても、「あ、そう」としかわたしは云わないだろうが。


 作品「遠浅に溺れて」。俊逸な題名だ。
 遠浅の海ではふつうは溺れない。足が付く。
 しかし遠浅の海だからといって遊んでいると、気がつくと夕方になって潮が満ち、その頃には海岸ははるか遠くになっている。
 戻ろうとしても疲弊した身体でかなり泳がなければ岸に届かない。
 そのことは昔、遠浅の海で溺れかけたので実感をもって云える。
 赤ちゃん用のプールのような浅瀬が水平線まで続いている海に見えたのに、太陽が傾く頃になると、瞬く間に黒い波がせり上がってきたものだ。

 浮気をした妻への意趣返しのようにして男がしがみついている相手は、会社の同期で、古枝という古風な名をもつ女だ。
 男の眼からは地味で経験もなさそうな女に見えていたのだが、古枝は数々の過去の相手がすべて妻子ある男とのそれだと打ち明ける。
 かといって略奪愛に燃え上がるような女でも、情交にのめり込むような風でもない。
 和紙のような、なんの特徴も飾り気もない女なのだ。

 バーに行って、飲んで、煙草を吸って、そして寝る。

 一方の男の方はこの浮気は妻への報復だと考えたり、妻を決して許さないと腹を立てたり、欲しかった家庭への愛着を口にしたりする。
 遠浅の海ならば夜になると波が押し寄せてくるのだが、古枝はなにも求めない。ベッドで男の繰り言をただ聴いている。
 別れようと云えばあっさり別れてくれる。誘えば即座に応じてくれる。だが尻軽な感じはまったくしない。
 幽霊という言葉が頭に浮かぶ。
 男が近寄ってくると湿り気を帯びる女をイメージしてみたのだが、そんなものはほぼ幽霊か妖怪だ。
 しかし世の中には確かに古枝のような女性がいるようだ。
 別れた次の日には顔もかたちもその時間のこともぼやけてしまう、煙草の先の煙のような女。
 もう何年か経つと、その道の通人から「ああいうおばさんが一番エロい」と云われるような女なのだろう。
 女は浅瀬に立っている。男たちが寄って来る。男たちは浅瀬で溺れて勝手に沈んでいくが、古枝はその肌と髪が湿るだけなのだ。
 
 結局わたしは煙草の煙が苦手で、ショットバーというものが心から好きにはなれなかったが、雰囲気は今でも好きだ。
「なにこの塩」
「ナッツの殻は床に棄てるの?」
 初めてバーに行った日がひどく懐かしい。
 グラスの中のハワイの海の色。大音量の音楽と、頭が痛くなるほどの煙草の煙。

 バー通いが好きになるかならないかは、煙草が好きかどうかでかなり違うのではないかと想う。
 今のわたしはホテルの静かなバーのほうが好きだ。
 惣山さんは今でもご主人に許可をもらって、一人でバーを訪れ、カウンターに座り煙草を口にしながら薬の味のする好きなお酒を呑んでいる。
 バーで煙草の煙をみている間に、古枝のような地味すぎるエロい女が想い浮かぶのだろうか。
 なんだそのロックな主婦は。
 かっこいいぞ惣山さん。

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