穢れなき白銀の剣 その7

「ロスクレイ。こっちに来て。静かに、足音を立てないで」


 家の中からの声を聞いて、幼きロスクレイは木剣の素振りを止めた。


「今行きます」


 彼はこの日の午後、隣家の夫人が開いたささやかな食事の席に招かれていたが、同年代の子供の姿もなく、客は夫人の親戚が大半であった。しかし仮に友人がいたとしても、ロスクレイは剣の鍛錬を優先していただろう。


 上靴の土を払って、開け放たれたままの庭の戸口から入る。居間の安楽椅子には夫人が座っていて、布に包まれた小さな娘を抱えている。


「……他のお客さんはもう帰ってしまったんですね」

「ええ。私もあなただけまだ帰していないって、今になって気付いて。ごめんなさいね。退屈だったでしょう」

「俺の家はすぐ隣なんですから、全然、困ることなんかないです。それよりも、大丈夫でしたか。その……俺なんかが来てしまって」


 ロスクレイはやや気まずい思いで、静まりかえった室内を眺めた。今日、彼女の親戚が集っていた理由を察している。遠いどこかの地で戦死した、彼女の夫の弔いであったはずだ。


「……良い報せと、悪い報せが重なってしまったわね。本当は、いつも仲良くしてくれているあなたと、あなたのお母さんに……最初にこの子を見せたかったけど」


 夫人は、生まれたばかりの赤子を手渡して抱かせる。大人しく、機嫌が良いように見えた。けれど無垢な瞳で笑いかけられても、ロスクレイは全く嬉しくなかった。


 この家族の未来は閉ざされている。

 体の弱いこの夫人が娘を育てていくのに、王国から支給される遺族手当がどれだけの助けになるだろうか。先ほど見た親類のうちの誰かに、この家族を養う力があるだろうか。

 同じく父を亡くしたロスクレイの家でも、市場で職を持つ母からの収入に加えて、ロスクレイが兵学校から得る給金をいずれ生活に充てなければならない。


「……。きっと幸せになりますよ」


 軽い赤ん坊の体温を腕に感じながら、そんな無責任なことを言ったように思う。


「そうねぇ。ロスクレイはいずれ王城騎士様になるのだから、きっとこの世界も良くしてくれるって信じてるのよ」

「それは……」

「せっかくだから、この子もお嫁さんにもらってもらおうかしら。ね?」


 そう言って、娘に向かって微笑んでみせる。ロスクレイは閉口した。


 彼女ら大人は、子供の世代に、しばしばそのように無責任な冗談を言う。その時も、適当な愛想の一つでも返せばそれで良かったのかもしれない。

 けれどロスクレイには、とてもそのようなことは無理だった。彼の人生は、自分が生き残って、家の生活を支えることに、長い将来の全ての余白が埋められてしまっていた。その領分を越えて他の誰かに手を差し伸べることなど、ましてや“本物の魔王”の絶望から世界を救うことなど、不可能だ。

 そして彼は、嘘をつきたくはなかった。


「そ……そういうのは。できれば俺じゃなくて、他の人に頼んでください」

「じゃあ、ロスクレイには別のお願いを頼もうかしら。この子の――」


――――――――――――――――――――――――――――――


 絶叫を聞いて、ロスクレイは意識を取り戻した。

 自分自身の声であると気付いた。血の混じった砂煙が視界の右側から洪水のように襲いかかって、その重みだけでロスクレイは倒れそうになった。辛うじて踏み留まる。軍靴が土を噛む。折れた長槍を、杖のように使っている。


「はーっ、はーっ……!」


 足を止めてしまった以上はすぐに身を伏せるべきだったが、それを選んでしまえば二度と立ち上がれない疲弊であることが自分で理解できた。

 その次の優先順位を選ぶ。兵学校で教わった通りに、規則正しく呼吸を整える。酸素を取り込み、判断能力を取り戻す。

 自分の受けている負傷を確認する。右上腕が醜く爆ぜ裂けて、白骨が露出している。動脈の損傷ではない。……戦闘は続行可能。あと一度は斬りかかれるだろうか。習った通りの、正しい判断手順だ。


 もはやここは、あの日の隣家の居間などではない。戦闘の余波に壊滅したナナガ領村落。ロスクレイは今、死域の只中にある。


(ティアエル。ティアエルはどうなった。死んだのか。オスロー隊長は)


 ロスクレイがこの程度の負傷で済んでいるのは、爪を直接受けなかったからだ。拉ぎのティアエルを長槍で抑えつける役目の一人だったロスクレイは、彼が振るう竜爪の間合いの、僅かに外にいた。


 音速を越える空気の爆裂が、ロスクレイの肉を吹き飛ばしただけだ。


ドラゴン。これがドラゴンなのか。本当の、化物……)


 ざあ、という音を立てて、新たに別の方向から砂塵の波がロスクレイを打った。ティアエルとオスローの戦闘の余波。戦闘領域が、目まぐるしく、互いに死角を攻めながら、移ろい続けているのだ。彼が意識を失う前から不撓のオスローは戦い続けている。竜爪の衝撃波までも回避しながら。


「シィィイイイッ! 恐怖を、恐怖を知るかオスロー! 貴様は知っているか!」

「……ッ、全員止まるな! 三人組、槍ッ! 前方からだ!」


 三人以上の構成で、長槍で抑える。長槍でドラゴンの動きを制する場合、後方からでは却って命を危険に晒すことになる。そこは尾撃の可動圏内であるからだ。判断力が戻りつつある。極限の戦闘の中で隊長が発する指示の内容も、理解できる。


(そうだ。僕が助けなければ、隊長が死ぬ。あの英雄が)


 ようやく、ティアエルとオスローの戦闘の様を捉えた。無数に突き出される長槍は当然ドラゴンの膂力の前に破壊されていくが、その一つ一つが初動の速度を殺し、そうして生まれる紙一重の間隙を縫って、不撓のオスローが竜爪を躱す。

 オスローだけは、槍を構えていない。生体電流遮断の魔剣を――テミルルクの眠りの魔剣だけを振るい、ティアエルの注意をその一撃だけに注視させ続けている。

 遭遇の最初、詞術しじゅつ兵の膨大な犠牲の果てに、風の力術りきじゅつで邪竜を叩き落とした。その千載一遇の機に、片翼と左前腕の動きを奪った魔剣だ。彼の剣に斬りつけられた部位は、そこから先の末端に神経の電流が届くことなく、機能を麻痺する。


(もしかしたら。もしかしたら、僕達でも)


 ――ドラゴンを倒すことができるのではないか。

 王国の第二将。無敵の英雄。紛うことなく不撓のオスローは、ロスクレイが知る以上の真の戦士だったのだから。


「【サンガの風へ j o j i n g e p f ――】」

ブレス! 退避!」


 槍を取り、戦列に復帰しようとしていたロスクレイは、最優先で退避を選んだ。

 群がっていた兵士も、オスロー自身も、一斉に射線から逃れる。一呼吸の間があり、そして何も起こらない。


「はぁ、はぁ……不発、か……!」


 ロスクレイは毒づいた。ドラゴンが詠唱を止めたわけではない。ティアエルの知る土地より遥か離れたこのナナガ領では、彼の馴染んだ土地への詞術しじゅつは極めて不安定になる。ドラゴンは本来、支配圏からこれほど遠くにまで侵攻する種族ではないはずだった。

 彼はドラゴンを越える脅威に追い立てられた。そのような脅威は、“本物の魔王”が現れるまで、世界には存在していなかった。あってはならない恐怖だった。


「往きます、オスロー隊長!」

「ご無事で!」

「……向かえ!」


 短いやり取りで、五名の警備兵が一斉にティアエルへと挑みかかる。地面を薙ぐ竜爪の光が走り、全員が微塵の煙となって死ぬ。ロスクレイが先程浴びた土煙に、生暖かい液体が混じっていたことを思い出す。

 膨大な死を乗り越えて、第二陣の兵がやはり捨て身でドラゴンを抑えた。オスローはその一瞬を逃さず、竜爪の内側へと果敢に飛び込んでいく。


「……ッ」


 ロスクレイは先程投げ捨てた長槍を、再び拾い上げたところだった。彼もすべきだ。彼ら外縁警備兵の後ろには莫大な民草の命があって、自らの命を捨てても人々を守ることが、希望なき世の中で唯一、彼らが英雄となり得る道だった。

 ロスクレイもそうでありたいと思う。死んでいった彼らに恥じない、勇気ある者でいたい。真の超人、不撓のオスローの役に立ちたい。それが正しい。兵士として、それ以上に価値のあることはない。そうであるはずだ。


「――大丈夫だ!」


 極限の戦闘に、そのような余裕などないはずなのに、オスローはそれでも叫んだ。

 人間ミニアドラゴンの攻撃に追いつくことはできない。だが、眠りの魔剣は片翼と片足を奪った。超人的な戦闘勘が、ティアエルの可動の限界を見切っている。ロスクレイが受けたような衝撃の波を幾度も受けながら、全身が破裂して十や二十の骨も砕けながら、闘志を失っていない。

 振るわれる爪が、放棄された家屋を砂と砕いた。抉れた大地に、どこかの用水路からの濁流が流れ込んだ。紙屑のように舞った一人の兵士がその中に落ちたが、その体に残っている肉は、半分よりも小さかった。

 破壊された地形以上に、攻撃の余波でそこかしこに堆積した土砂の山が、刻まれた兵士たちの死体が、戦闘の凄惨さを克明に表していた。


「私は……戦う! 何も変わらん! お前達と同じだ! 死の旅路にもついていってやる! いいか! 王国を……ゲホッ、民草を、守れ!」

「目が、目が、目が……! 俺を見るな! 貴様ら、誰も……! オオオオオッ!」

「オスロー隊長!」

「隊長!」

「隊長ッ!」


 槍の折れた者に代わって、新たな一団がティアエルを囲んだ。ロスクレイもその中に加わっていた。石突の側を突き出し、抑える。竜鱗に刃は通らないためだ。


「グルルルウゥゥゥッ!」

「……! た、隊長……! 首を!」


 死力を込めているというのに、抑え込めている実感がない。星の地殻を押し返そうとしているかのようだった。

 オスローはずっと、即死の一撃を――首への魔剣を狙っている。それでも、戦術の一切を解さぬ、恐怖に錯乱した若いドラゴンであっても、ただ超絶の膂力と速度だけで、それができていない。人間ミニアの生んだ究極の英雄であっても、そうなのだ。


「死ね! そ、それが救いだ! 貴様らに与えてやるッ! …………サ、【サンガの風へ j o j i n g e p f ――】」

「退、避ィッ!」


 満身創痍のオスローは、この時も全力で射線から逃れた。だが、長槍兵の多くはそうしなかった。一度ティアエルを解き放ってしまえば、また先程のように犠牲を支払わなければならないと、もはやそれだけの数は残っていないと知っていたから。


「……!」


 ロスクレイは飛び離れていた。一人だけ。


「【――崩れる黯黒を沸かせ j e k r e m j e d o r h o 】!」


 ばつん、と。


 ティアエルの前方に立っていた兵士たちの鎧が、一斉に弾け飛んだ。が膨れ上がった内圧によるものだった。一瞬の後、彼らは莫大な熱光を伴って爆裂した。続いて木々が。石造りの井戸が膨れ上がった。爆音が続いた。家屋が、大岩が。見通す限りの直線上の物体が続けざまに――爆発した。


「あ、ああああ……!」


 ロスクレイの口から、不明瞭な息が漏れた。決して恐怖を見せないよう、誰よりも繕ってきたのに。


 オスローは、ブレスの寸前、常に退避の命令を下していた。

 生まれ育った土地ではない地での詞術しじゅつは、確実ではない。拉ぎのティアエルとて、正常な判断力があればそのような隙は晒さなかったのかもしれない。だが、ものではない――


「動ける者……動ける者はいるかッ! 継続しろ! 戦え……!」


 誰よりも至近で、爆ぜた兵士の鎧の破片を弾丸のように浴びたオスローは、今や見る影もない姿になり果てていた。彼はその有様でも、一度竜爪の軌道を見切って躱した。天が与えた奇跡のようだった。


「僕、自分がいます! 隊長! 自分が!」


 ロスクレイは立っている。王国最精鋭の兵士は、もう殆ど残っていない。きっと戦えるのは自分だけだ。そう思わなければ立ち続けていられない。土砂に混じった血が全身の傷口を苛んでいる。どうして、どうして、今のブレスから逃げてしまったのか。


 オスローは答えたロスクレイを振り返った。

 そして恐ろしいことを言った。


「後を頼むぞ」


 再び竜爪が振り抜かれた。オスローは肩の筋肉から初動を見切って、地面を蹴った。僅かに竜爪の軌道の外に逃れる。彼は避けた。だが、空気の爆ぜる衝撃波が顔面の肉を削ぎ飛ばした。夥しい血を散らせながら、大きな体が地面に叩きつけられた。

 オスローはそれでも動いていた。砂煙の中で魔剣を遠くに投げ捨て、自らは短剣を抜いた。見えぬ目で抵抗を続けようとした。


 ばちん、という音が響いて、その上半身が砕けた。

 ティアエルの前腕が、無敵の英雄を足蹴に踏み潰して殺した。


「……な、なんで」


 ロスクレイは絶望した。

 ――なんで、自分を見た。


 他の誰でも良かったはずなのに。ただ近いというだけで、絶望と戦うことを託された。それは、人々の盾となるべき兵士として、誰にも勝る栄誉であるはずなのに、ロスクレイはそう思ってしまった。


「……っ、く、僕は……なんでだよ……!」


 逃げてしまいたい。そう思い続けていたことを自覚してしまった。


 最大の敵を滅殺したティアエルは、動きを止め、呼吸を整えていた。

 オスローの奮戦は、邪竜の片翼と左前腕を奪っている。幾度か与えた斬撃は、少なくない面積の皮膚感覚も麻痺させているはずだ。

 このドラゴンを放置したとして、錯乱し手傷を負った今、王国にまで辿り着くとは限らないはずだ。あるいは負傷が元で、どこかで頓死する可能性もあるのではないかと。そう信じたいと思ってしまっている。


(……ああ。だからなのか。その報いか)


 最後まで王国のために戦い、壮絶に散ったオスローを見ても、そう思うことしかできない。


(僕は、一人だけ死にたくなかったんだな……)


 死んでいった彼らに恥じない、勇気ある者でいたい。真の超人、不撓のオスローの役に立ちたい。きっとそれが正しい。

 ……しかし心の奥底で、ロスクレイはそう思っていなかったのだ。


 父のような、取るに足らぬ一兵卒として死んでしまいたくない。

 真の勇気があったとしても、正義に恥じぬ行いであっても――命を賭して戦いに挑み、英雄になれずに死んでいくだけの何者かになりたくはなかった。

 死にたくない。死にたくない。

 生死の間際に走る思考の量で、彼は全力でその道を探った。栄誉ではない。勝利が欲しい。彼には思考と、観察の力があったはずだ。今こそ、それが必要だった。


「……た、隊長。……オノペラル……隊長」


 彼が呟いたのは、全滅したはずの詞術しじゅつ兵の隊長の名であった。骨のつがいのオノペラルという。見渡した屍の山の中に、その姿があったことも知っていた。


 詞術しじゅつ兵の力術りきじゅつは空からティアエルを墜とすために不可欠な働きをしたが、それでもドラゴンの暴威を前に、精鋭ならぬ兵士が長く生存できるはずもない。退避が遅れた二十余名は、例外なく死んだ。


「あなた……をしているでしょう」

「……!」

「わ……分かるんです。自分も、演技が……得意なので……」


 彼を責めているわけではない。そのような余裕など到底なかった。似通った思考を持つロスクレイには、オノペラルの意図も分かる。彼もまた英雄ではないからだ。

 オスローの戦闘の最中、彼を巻き込まずに詞術しじゅつによる補助を行うことは不可能だった。それならば死を装って、せめて一瞬の好機を待つべきだと。


「頼みます。詞術しじゅつで……剣を、渡してくれますか……!」

「……ロスクレイ。ああ。分かった……」

「アンテル」


 すぐ近くに、まだ意識を残している兵がいた。同期の警備兵の一人であった。

 本当に、彼ら以外は全滅してしまったのか。


「……アンテル。魔剣を取りに向かってください。自分と同時に」

「ロスクレイ……た、頼む。俺は無理だ。ドラゴンの間合いの内になど、行けない」

「自分だってそうでしたよ。ずっと……本当は。けれど、オスロー隊長はたった一人で戦っていた。三人でなければ、勝てない……自分に、任せてください」


 自分の残る体力を計算する。オスローが最後に投げた魔剣の位置に走り、そこからティアエルの首元へ。十分可能だ。それを分かっていて、オスローは最後に自らを守ることもできた魔剣を投げたのだ。

 オノペラルが詞術しじゅつを紡ぐ声が聞こえる。


「【オノペラルよりナナガの土へ o w n o p e l l a l i o n a n a g a 切り欠く影 s e r p e n o m e r ―― 】」

「グ、グルルッ……グ、グ……剣……剣は」


 ティアエルは、自らを害した魔剣がオスローの手元から消えていたことに気が付いたようだった。何度も叩きつけられ、引き裂かれた不撓のオスローの身体は、今は骨にまとわりついた肉の紐のような何かだった。

 これが死。悍ましかった。


「どこ……どこだ!」


 ロスクレイはすぐさま走った。それに追い立てられるように、アンテルも走っていた。ティアエルもまた、テミルルクの眠りの魔剣の在り処を見た。ドラゴンの両足が大地を蹴って、怪物的な砲弾と化して巨体が跳んだ。それはロスクレイ達よりも遥かに速い――地表ごと、眠りの魔剣を微塵に粉砕した。


 この地平で数えるほどしか存在しない、竜鱗を貫通してドラゴンを倒す手段は、それで喪われたように思えた。だが、そうではない。


「……グ、これは! これはァァッ……!」


 ティアエルの跳躍した先は、ロスクレイ達の到達地点と違う。ドラゴンは壊滅した廃墟の光景を見た。彼が轢き潰した剣だけではない。あの眠りの魔剣のような形状のが、オノペラルの工術こうじゅつによって形作られた偽剣が、いくつも地に転がり、突き立っている――


「こ、この……この俺を謀ったか! あの目が! あの目がなければ! ウウウウウッ! “本物の魔王”……!」

「【オノペラルよりテミルルクの剣へ o w n o p e l l a l i o t e m i l u l u k ! 砕け舞う水面 e p t h o r t e m k e n ! 天上の橋 m o d k e p o r t e s ! 軸は六脚 h a s p e 6 k o r m t ……! 選べ! a r t e s】」


 無数に散らばる剣の一つがオノペラルの力術りきじゅつの詠唱で飛んで、ロスクレイの手の内へと収まる。魔剣。

 ロスクレイも、逆方向からティアエルに迫るアンテルも、魔剣を構えている。ティアエルの動かせる前肢は一つしかなく、そして、オスローとの激しい戦闘で消耗し尽くした今、どちらかを選ばなければならなかった。


「――オオオオオオッ!」


 ドラゴンが危機を覚えたのは、死角の左側から迫るロスクレイの方だった。到達の寸前、竜爪がロスクレイの寸前を通り過ぎて、空気圧が再び彼を打った。間合いの寸前で、彼は足を止めていた。一方で、長大な尾撃がアンテルの進行を阻む。止まらなければ、やはりアンテルも微塵に砕けていただろう。

 最後の反攻は停止した。命を賭した覚悟を無為に帰す、ひどく圧倒的な種族の差。


「こ、これで終わりにしてくれ。その剣も……俺は、もう、恐ろしい……!」

「……」


 ドラゴンがそのようなことを言う。“本物の魔王”は、どれほど恐ろしく、計り知れないものだっただろう。やはりロスクレイは英雄になる資格はなかったし、魔王を倒して世界を救うこともできない。どこまでも。

 あと一歩ティアエルが踏み込めば、それでロスクレイの命は終わる。

 死にたくない。


「……恐ろしいか、ティアエル」


 それでも彼は立っている。踵から首まで、まっすぐ体幹を伸ばして、顎を引いて、目を前方に向けている。まるで眼前の死を恐れていないかのように。

 逃げてしまえばよかった。犠牲を見ぬふりをすればそれで済んだ。それでも戦うことを選んでしまった。英雄であることを託されてしまったから。

 今こそ彼は、自分自身の心を欺かなければならなかった。


「魔剣を……! 我が剣筋ではなく、不撓のオスローの剣を恐れるか、邪竜」


 ロスクレイは自らを竜爪に差し出すが如く、走った。それは死への突進だった――だが彼は同時に、手にした魔剣をあらぬ方向へと投げ放っていた。

 ティアエルは反射的にそれを目で追い、撃ち落とした。その魔剣だけが、彼らに最後に残された抵抗手段であるから。その時。


「ロスクレイ!」


 呼びかけと共に剣が飛来した。ドラゴンの巨体を挟んだ反対方向から。それは魔剣だ。白銀の剣を手にしたその時、ロスクレイはまさにドラゴンの喉元へと潜り込んでおり――


「拉ぎのティアエル!」

「ミ、人間ミニア……! 人間ミニアめッ!」

「我が剣筋をまさに通さぬと驕るのならば、この一撃をも防いでみるがいい!」


 ロスクレイの一閃で、眠りの魔剣は竜鱗に阻まれて折れた。

 ――しかし一撃は、拉ぎのティアエルの脊椎の神経を、永遠に停止させていた。


――――――――――――――――――――――――――――――


 王国に迫っていた邪竜は滅んだ。

 しかしそれは屍の山で築いた壁で、辛うじて災厄を食い止めたというだけのことに過ぎない。彼らは一人残らず、過酷な鍛錬を経た王国最強の精鋭であるはずだった。


 ――ロスクレイ達は乱戦を生き残った者を探したが、生還者は彼らを含めて八名しかおらず、その内二名は、深い負傷のために間もなく死んだ。まして決着の瞬間を目視できた者が、アンテルとオノペラルの他にいるはずもなかった。


「……これでは……いけない」


 最後の負傷兵の応急処置を終え、疲れ果てた体を石垣に預けながら、ロスクレイは残る二人に言った。


「皆、絶望しています。自分達が無力だと思っている」

「ああ。確かにいけない。もう俺達は駄目かもしれんな。たった一柱……錯乱した一柱のドラゴンで、オスロー隊長を含む全員が全滅したんだ。警備兵も、国に残ったもう半分しかいない……魔王どころか、魔王自称者の侵攻を防げるかも分からない」

「しかし民がそれを知れば、彼らも絶望に折れてしまいます。きっとそうなる」

「……だとしたらどうする、ロスクレイ。オスローは天才だったのだ。奴の代わりを務められる者など、どこにもおるまいよ……」

「いえ……いいえ。務める必要があります。それでも……」


 世界に落陽が訪れて、少しずつ闇の帳が覆うように、“本物の魔王”の恐怖が希望を奪っていった時代である。

 だが、だからこそ、民には英雄が必要なのだ。

 そのままでは倒れてしまう足を支える、象徴が。


「この三人のうち誰かが、一人でドラゴンを討ち果たしたことに。不撓のオスローは非業の戦死を遂げ、しかし遺志を継いだ英雄が、拉ぎのティアエルを殺したと」

「……馬鹿な。そんな、すぐにバレる嘘だぞ」

「それでも、やらなければ。オノペラル隊長の意見を伺いたい」

「ロスクレイ。いや……やるとしたら、お前だろう。オスローもそう言うはずだ。お前ならば、兵の連中からの評価もある。戦闘試験での箔が必要ならば、儂が手を貸すことも、できると思う。……頼めるかね」

「……。ありがとうございます」


 ロスクレイは、オノペラルにように、アンテルにように、最後にはように命じていた。ティアエルに作戦を気取らせることのない、最低限の表現で。

 一手の過ちが絶対の死を意味する一瞬、迷うことなく、それだけで彼らに伝わると信じることができた。


「証言してください。二人は何も手助けしていない……私が拉ぎのティアエルを倒したと。倒れたオスロー隊長から、私がティアエルの討伐を託され、それを成したと」

「もちろんだ」

「辛い役だが、お願いする」


 ……英雄を演じる。

 全てが絶望の時代に、ドラゴンを倒す英雄が存在しない現実に、英雄を実在させるためには、そうでなければならない。けれどそれだけは、ロスクレイが……幼き日の服膺のナルタが、いつも続けてきたことだ。


 この時の言葉の通りに、彼は王国を守る絶対の盾として、民を守った。

 最初こそ竜殺しの非現実的な偉業を疑う声もあったが、それでも彼はあらゆる戦闘で膝を突くことすらなく、無敵であり続けた。

 ティアエル討伐に向かった精鋭の、数少ない生還者となったロスクレイに並ぶ剣の使い手は王国に存在せず、以降の戦闘で詞術しじゅつを用いるようになったことも、彼にまつわる噂が真実であったことを証明した。何よりも、そうして人望と権威を伴った智謀の力が、疑念と悪評の尽くを封じていった。

 王国が滅び、黄都こうとと呼ばれるようになっても、無敵の第二将であり続けている。

 かつての不撓のオスローと同じように。


「――名前がいる」


 帰路。アンテルはふと、そのようなことを言った。


ドラゴンを討った以上は、相応しい二つ目の名が必要だ。今みたいな平凡な名でいることはできないぞ。ロスクレイ」

「……」


 ロスクレイは、英雄のことを思った。偉力のアルトイ。不撓のオスロー。彼らは何を思って、そのような二つ目の名を名乗っていたのだろう。

 正しく戦い、あらゆる技を使いこなし、全ての敵に打ち勝つ、ドラゴンを倒した英雄。


 きっと彼らも、そのようなものが実在しないことを知っていた。

 けれど、それは願いだ。

 そんな英雄があってほしいと願う。


 曇り空からは、淡い雨が振り始めていた。それを見上げている。

 青年は小さく呟く。


「“絶対”」


 何よりもロスクレイが信じぬ言葉こそ、相応しいような気がした。


「絶対なるロスクレイ」

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異修羅 珪素 @keiso_silicon14

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