穢れなき白銀の剣 その6

「邪竜よ! 邪竜よ! 天を穢す大敵の翼よ。その口で我が名を問うたな! なれば時の勝敗、既に見えた!」


 男は庭木に向かって声を張り上げると、腰に下げた長い木ぎれを大仰に円を描いて持ち上げ、真正面の虚空に構えた。

 それは普段、ロスクレイが泥かきに使っている木の板に過ぎなかったが、そのように重く、大きいように振り回されれば、美しく鋭い白銀の剣のようにも見えた。


「認めるがいい。貴殿はついにの名を欲したのだ。王国の先陣の、人間ミニアの、ただ一人の男を討つ名誉を! 故に、邪竜よ! 此度の戦い、偉力のアルトイがドラゴンへと挑む戦いではない! 紫極の刃のジグラディル、殿挑むのだ!」


 はっきりと澄み渡った発声が、空気を強く打って響く。振り抜いた木板の先端はぴたりと止まって、言葉の最中も震え一つない。

 男のこめかみから一滴の汗が流れて、顎から落ちた。そして呟く。


「……どう?」

「あのさ。一ついい?」


 幼いロスクレイは裏口側の軒先に座っていて、その一部始終を眺めていた。やや伸び始めている雑草を見て、そろそろ草刈りをしなければならないな、とも思う。


「名前を名乗る名乗らないで、普通、そんなだらだら喋ったりしないと思う。言ってる間に斬りつけたほうが絶対いいと思うけどな」

「ええ……それ? ここまで見てきて、最初の感想がそれか?」

「気になるよ。変だもん。かっこつけすぎ」

「ロスクレイ……! 夢がないよ、夢が……! あのね。英雄劇の名乗りだよ? 世界一大事なやつ」


 服膺のナルタは、二十をやや越えた、背の高い男だった。父の男手がないロスクレイの家は、旅劇団志望のこの若者にいくらかの力仕事を任せており、引き替えにこのようにして、自宅の庭を彼の稽古場として貸し出すことがあった。


「しかも、俺の超絶かっこいい演技見て出てくる感想がそれ! 悲しすぎる」

「いや、うん。上手くなってると思う。全体的に。大したもんだよナルタ」

「しかも褒めかたが適当なんだよなあ」


 ナルタはロスクレイの隣に腰を下ろして、置かれていた水筒の中身を一気に飲んだ。彼が見せていたのはもちろん本当の戦いなどではないが、真に迫った演技には、それに近い消耗があることも知っている。


ドラゴンに勝てるもんなの?」

「ああ? いやそりゃ勝つよ。偉力のアルトイの筋書きはロスクレイも知らない? あの後、こう、ジグラディルとの死闘の果てだよ。『ジグラディル! 我が剣筋をまさに通さぬと驕るのならば、この一撃をも防いでみるがいい!』――で、生術士ヒットリップから奪っていた矢を」

「……そうじゃなくて。知ってるよ。僕も台詞覚えちゃったもんそこ。現実的に人間ミニアドラゴンに勝てるもんなのかな」

「知らないけーどー、アルトイはやるんだよ。できなきゃいけないだろ。そうじゃなきゃ伝説の英雄になれないんだからよ」

「授業で習ったんだけどさ。昔の人間ミニアと今の人間ミニアで、そこまで物凄く身体能力が違うとは思えないんだよね」


 この世界にも伝説がある。世代を越えて民の記憶に伝承され、劇団や詩人のように、それを生業とする者たちがいる。時には文字としてそうした物語の古い記録が見つかることもある。

 彼と同級の兵学校の生徒はそうした伝説に憧れ、いずれ自らもそのような偉大な英雄になることを目指している。そのような憧憬はロスクレイにも理解できたし、自分の中にそうした部分があることも自覚している。


「そういう伝説って、実際はだいぶ作り話なんじゃないかって思うんだけど」

「だからそういう、夢をわざわざ壊すような発言! モテないな~! ロスクレイくんそれ、典型的なモテない奴の特徴!」

「いや僕はモテるよ。この間なんか、将来子供をお嫁にもらわないかなんて言われてさ。生まれたばかりの赤ん坊だよ?」

「ク……ク、クソガキ……!」

「フ」

「顔がいいからってな~! クソ! 俺だってガキの頃もっと女の子にちやほやされたかったんだ! 顔なんだよ顔! 世の中、顔ッ!」


 特に意味も発展性も求めない、こうした他愛のない会話をナルタと交わした多くの時間のことを、ロスクレイはよく覚えている。


 ロスクレイの美貌は父譲りだとよく言われたものだが、父の顔立ちを知らない彼には確かめようがなかったし、自分ではむしろ、母に似ていると信じていた。

 彼の青春は、暗黒の時代の只中でもある。――ロスクレイが生まれて間もない頃、父は“本物の魔王”の初期討伐隊として出兵し、帰らぬ人となった。恐るべき魔王を相手にどのように戦い、死んでいったのかは、母が語りたがらないことなので、ロスクレイも聞かないようにしていた。あまり英雄的な死ではなかったのだろう。


「顔が良ければ、役者になれるかな」

「あー……役者? 王城騎士になるんだろ、ロスクレイ」

「まあね。うん。お母さんがなれっていうから。……でも、別に、騎士ってあんまり好きなわけじゃなくて」

「……それはちょっと初耳だぞ。あんなに真面目に剣やってんのに、嫌なんだ」

「嫌、じゃない。剣は好きだけど……騎士は死ぬかもしれないでしょ」


 ナルタは複雑そうな困惑を浮かべた。そうしたロスクレイの不安をまるで想像していなかったような顔だった。


「うん。そうだな……。いやいや、俺もさ。実はそういうのが嫌で芸の道に行ったみたいなとこもあるから。分かるよ。魔王、怖いよな」

「……誰か、倒してくれるのかな」


 兵学校の生徒は伝説に憧れ、いずれ自分もそのような偉大な英雄になることを信じている。王城騎士として“本物の魔王”の脅威に立ち向かい、自分が何かを残せるとも。だが、ロスクレイは信じてはいなかった。人間ミニアドラゴンを倒せるとも。


「じゃあロスクレイ! 役者やってみろよ。俺の弟子だぜ! やればできんじゃないの? 練習さえ毎日やればな。世の中顔だぜ」

「いや……別に、分かってるよ。やっぱり無理。剣と授業の時間があるから――毎日はできない。現実的に、無理でしょ」

「できるだろ」

「なに、ナルタ。どうやって?」

「剣と一緒にできる」


 泥かきの板を取って、ナルタは立ち上がった。片手で剣を突き出して、構えた。演技以外で彼の真面目な表情を見るのは、とても珍しいと思った。


「兵学校ではどんな姿勢を教わっている? 前と後ろ、飛び出す方向に骨盤を傾けておくように……そのために、背筋を柔らかく使う。大体そんなとこじゃないの?」

「……うん。そんなとこだけど」

「でも、実戦や授業以外でも、いつもそうしている必要なんてないだろ。見ろロスクレイ。踵から首まで、まっすぐ体幹を伸ばして……顎をやや引きながら、目は前方に向ける。こう構えるとどうなる?」

「それは……構えとして、全然弱いよ。筋肉が緊張しすぎだし、関節の動きは見たまんま固くなるし」

「違うだろ! 答えはこうだ」


 ナルタは不敵に笑った。彼はずっと演じてきている。決して力が強いわけでもなく、天才的な才能があるわけでもなかった。それでも、ロスクレイと同じ年の頃から、そうしてきたのだという。


「……」

「剣の上だって、悪いことばかりじゃない。気を張って、筋肉をがっちり強張らせる。他のやつの目線を意識して動いてみる。するとどうだ……びっくりするほど、疲れるんだよな」

「そりゃ、当たり前だと思うけど」

「疲れるってことは、それだけ体に負荷がかかってるってことになる。立っているだけで鍛えられるってことにならない? 経験則としてだけどさ」

「フ。そんな都合のいいことは、さすがにないよ」

「待て。格好をつける訓練は他にもある」


 ナルタは屈んで、ロスクレイの肋骨の下側辺りに手を置いた。


「――呼吸の方法だ。兵学校では腹式呼吸を教えているだろうが、声のでかさなら、演劇の世界のほうが千年前から専門だぞ。正確には腹の筋肉で吐くんじゃない。その内側、横隔膜だけを使って息を吐き出す。ロスクレイ、できる?」

「……ううん」

「じゃあ訓練だ。大きく呼吸ができて、声がよく通れば、他のどんな奴より動けるし、強く見える。剣と演技、両方やればいい。というか……俺はそれで後悔したから、ロスクレイはやれ。いずれ、どっちの道も選べるようになる」

「……気休めだよ。ナルタ、根拠なんてなくて言ってんるでしょ」

「まあ。まあ、そうかもしんないけどさ」


 煮え切らない反応に苦笑を返しつつも、憎まれ口を叩いていても、ロスクレイは、それでもやってみようと思った。本当にそんなことが可能なのか、効果があるのかなど分からなくても、そこには夢があるような気がした。

 命を賭して戦いに挑み、英雄になれずに死んでいくだけの、この時代に生まれた兵士よりは、余程そう思えた。


「やっぱ面白いよ、ナルタは」

「だろ? 俺ってばいずれ主演男優の座を射止める男だからさあ」

「その顔で?」

「はあああ!? 俺だってな! 顔くらいなあ!」


 ――世界に落陽が訪れて、少しずつ闇の帳が覆うように、“本物の魔王”の恐怖が希望を奪っていった時代である。

 旅劇団の一員として王国を旅立ったナルタも、魔王軍による虐殺の狂乱に呑まれて死んでいった。五体を引き裂かれた、惨めな死だったという。


 服膺のナルタの最後の役柄は、偉力のアルトイでも、他の英雄でもなく、舞台掃除の、取るに足らない雑用だったと、誰かから聞いた。


――――――――――――――――――――――――――――――


 外縁警備兵として採用された王城騎士には、大一ヶ月に二度、旧来の全身鎧に身を包んだ実戦形式の訓練が課せられている。

 当然、これは鎧に籠もる熱や重量のために過酷な訓練であって、ロスクレイですら、終わった後には脱いだ兜から滝のように汗が流れる。それでも彼は二枚目の長手拭いにそれを吸わせ、他の誰かに疲労や努力の程を見せないように徹していた。


「ロスクレイさんは、やはり騎士の家系だったんですか?」

「いいえ。父は騎士でしたが、農民から徴兵されたものでしたから」

「そうなると、血筋というより才能ですかね。はは……いや、全く当てられる気がしませんでしたよ」


 対戦相手の男も同じ警備部隊の兵士だったが、そうしたロスクレイの演技に気付いている様子はない。ロスクレイにはその自信があった。


 ――強みとする部分は、より強く見えるように。弱みとする部分の披露からは巧妙に逃げ、あるいは隠す努力を講じる。

 ロスクレイは実力面において既に一流の騎士であったが、そのような、ある種の子供じみた見栄を貫き通して、ここまで戦い続けてきた男でもある。


「ここだけの話、次期の副長昇格はロスクレイさんという噂もありますよ」

「……まさか。自分では若すぎるでしょう」

「けれど、オスロー将軍に認められるほどの腕です」


 若すぎる、という自己評価は謙遜ではない。同世代の間でどれだけ天才と持て囃されようと、ロスクレイは客観的にそれだけの力には達していないし、そのつもりもなかった。それほど甘い部隊ではない。

 彼ら外縁警備兵は、万一に王国が魔王軍の侵食を受けた際の最初の盾であり、アウル王が組織した二十九幕僚の第二将――不撓のオスロー直属の精鋭部隊でもある。無論、これはロスクレイが望み、努力の末に手に入れた地位だ。


 だがその実、直属部隊として出世の道を歩む気もなかった。防衛部隊として王国に留まってさえいれば、かつてロスクレイやナルタが望んだように、“本物の魔王”と戦うことなく生を終えることができる。少なくとも王国が滅びるまでは。

 この世界の兵士の大半と同じように……兵学校の若者が夢見た未来と裏腹に、戦う力を習い覚えながらも、その力で誰かの命を救えた試しはない。いつかのナルタに報いる道があるとすれば、彼から習い覚えた技で、同じように戦いを望まなかった自分自身を生かし続けることなのだろうと、ロスクレイは信じていた。


「それに、ここ最近隠れて詞術しじゅつの鍛錬を積んでいるのは、昇格試験に臨むためじゃないんですか? 攻撃詞術しじゅつの評価は、試験の有利に繋がりますし」

「どこからその話を?」

「食堂で聞いた話ですが、誰かが噂していましたよ」

「……そうですか」


 全く身に覚えがない話だ。天才騎士という評価について回る尾ひれとして、時折こういった根も葉もない噂が流れることもある。そうした買い被りにも、ロスクレイは出来る限り否定をしないよう立ち回っていたが、仮に詞術しじゅつの披露を誰かに求められたなら、適切な言い訳を用意すべきだとも思った。


(……できない、と断言してしまえば、そんな努力もせずに済むのだろうな)


 だが同時に、そうした巨大な期待に追い立てられなかったなら、ロスクレイは今ほど強くなることはできなかっただろう。彼の血筋は平凡だ。かつての父は、今のロスクレイと比べてすら遥か下の、取るに足らぬ一兵卒だった。


 強者を装い、あらゆる手段で望まれた結果を出し続けることで、実力を欺瞞に追いつかせている。周囲からの視線と、風評の流れに気を配り続けることで、誰かの考えを読むこともできるようになった。

 もしも虚飾を取り払って弱さを曝け出してしまえば……演じることを止めてしまえば、取るに足らぬ一兵卒としての末路が待っているような、ナルタのように惨めな現実が待っているような気がしてたまらなかった。ロスクレイは恐れている。


「実際のところはどうなんですか?」

「自分は……皆さんに見せられる技しか見せないと決めていますから。昇格試験にも、今回は挑戦するつもりはありませんよ」

「はは。残念です――」


 その笑いを遮って、早鐘の音が鳴り響いた。同僚の兵士の顔から血の気が引いていく様子が鮮明に見えて、自分が同じように動揺を露わにしていないか、ロスクレイは最初にそれを思った。


「南門です」

「……」


 二人はすぐさま訓練装備を実剣へと持ち替え、鐘の示す合流地点へと向かう。途中の路地で訓練場を飛び出してきた幾人かと合流し、そして広場の青旗の下へと集った。その場には騎士のみならず、骨の番のオノペラル率いる詞術しじゅつ兵の部隊までも揃っている。並ならぬ事態であることが分かった。


 そして老若様々な精鋭兵の中央、木造の台上に立つ長髪の偉丈夫こそは、無敵なる第二将、不撓のオスローであった。


「……全員集ったか。皆に危急の任務を伝える!」


 正面に威圧的に突き立てた幅広の両刃剣は、触れる者の生体電流を乱す魔剣なのだという。アウル王が指名した二十九幕僚の第二の座、国防の要に相応しき最強の武官として、オスローの名は地平に広く知れ渡っていた。


「現在、南方に魔王軍が迫っている! 外縁部隊の総員をもってこれを迎撃する!」

「――隊長!」


 群衆の中の誰かが声を発した。オスローの方針により、外縁警備部隊では、このような隊員からの疑義や提案がむしろ奨励されている。


「敵の総数は如何ほどですか!」

「何故その質問をしたかを答えろ」

「は! 敵兵力は部隊編成に大きく関わるためです! 場合によっては、城内警備の者と連携を行う必要があり……」

「必要はない!」


 オスローは断言した。


「理由を述べる! この戦闘は城内との連携を取った時点で、我々の敗北を意味するためだ! 敵総数に関してもここで知らせる! 総数は一柱! 王国の存亡を背負う一戦である!」


 警備兵の間に、畏れのざわめきが広がった。ロスクレイですら、そうした当然の反応に同調してしまいたかった。

 この地平広しといえど、個体数をと数える種族は、ただ一種しか存在しない。


「――敵はドラゴン! 魔王軍の狂乱者、拉ぎのティアエル! 今一度告げる! 王国の存亡を背負う一戦である! 例外はない! 全員、この日を死に場所としろ!」


 その叫びには、配下の兵に対する絶対的な信頼の熱があった。彼らは作戦行動に対する発言が許されている。“本物の魔王”に立ち向かうことはなくとも、外縁警備兵は一人の例外もなく、オスローの不撓の誇りを体現した、国家最後の盾であった。


「立て! お前たちの生の結果を問う時が来た! 英雄となるため、立て!」


 声に応じて、ざわめきは困惑から昂揚に、昂揚から戦意に変わっていく。


 世界に落陽が訪れて、少しずつ闇の帳が覆うように、“本物の魔王”の恐怖が希望を奪っていった時代である。

 かつてのロスクレイやナルタと同じように、彼らもまた、無為な死こそを最も恐れた。彼らの心の奥底にはまだ、少年の滾りがある。伝説に憧れ、いずれ自分もそのような偉大な英雄になることを望んでいる。


(……無理だ)


 ロスクレイの心もやはり、少年のままだ。今も信じてはいない。


(全員死ぬ)


 人間ミニアドラゴンを倒すことはできない。

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