キズ色カフェタイム

 彼のほうが先に店に到着するのも、待ち人が到着するまでの間、学術書に目を落としているのも、いつものことだった。彼の手元に半分だけ残る品のいい紅茶からは熱も香りも失われている、それもいつものこと。


 いつも、とは言っても、さほど長い付き合いではない。


 彼を知ったのは冬に入ってからで、言葉を交わしたのはほんの数度。共通の話題は多くなく、もともとお互いに口数が少ないせいもあって、共通の友人たちがにぎやかにやる横でただ笑っているような、そんな彼とわたしだ。


「待たせたみたいだね」


 彼の隣、カウンター席の壁から二番目の椅子に掛けると、彼は本を閉じて微笑んだ。彼は、学生らしからぬ大人びた笑い方をする。


「客観的に見たら、ぼくは長らく待ちぼうけを食わされるかわいそうな男なんでしょうが、その実、勝手に早く来ただけの変人です。時間に縛られるのが苦手だから、何時間も前から待ち合わせ場所に居着いておく習性があるんですよ」


「わたしもほかに予定がないときは、同じことをする」

「初めて会ったとき、そう言ってましたよね。だから、ここで待ってても気を遣わせないと判断したんですが、合ってます?」


 わたしはうなずく。


「独りの時間や沈黙の時間を嫌わない人が相手だと、わたしも気が楽だ。ああ、珈琲をブラックで」


 カウンター越しに置かれたお冷と引き換えに、色気もそっけもない注文をする。彼が少し笑って、わたしよりも長く伸ばした髪をしなやかに揺らした。


「ですます調をやめたら男っぽい言葉遣いになるって、本当なんですね」

「家族としゃべるときは、これに方言が加わるから、もっとひどいよ」


「幕末のきりっとした文章を書く人というのが第一印象だから、それほど意外ではないんですけどね。背も高いしファッションも男装っぽいし、独特の雰囲気がありますよね」

「分析ありがとう。普通じゃないことは、とっくに自覚してる」


 わたしはグレーのコートを脱いで畳んで、隣の椅子に載せた。細身のボートネックシャツにだぶついたジーンズ、ピアスだらけの両耳で平日の昼間に喫茶店に居座ったりすれば、どう頑張っても堅気には見えないから、ミュージシャンかと訊かれることが割とある。


 わたしはその問いに否と答える。歌うことがないとは言わないが、単なる趣味だ。本業はフリーランスの物書き。まあ、いずれにしても堅気ではないから、世間の目からすれば大した違いはないだろう。


 珈琲を出してくれたマスターに目礼する。ごゆっくり、と言い残してマスターがいなくなってから、彼はわたしの目をのぞき込んだ。


「今回は重症だって聞きましたよ。まだ幕末から帰ってきていないって。書き終えて半月以上経ってるのに、魂がこっちに戻れずにいるそうで」

「歴史物を書くと、引きずるんだよ。かなり入り込むから」


「執筆中は、SNSでも文体が混乱気味でしたよね。一人称が『オレ』になったときは、さすがに心配しましたよ」

「中断を挟みつつ一ヶ月以上、『おれ』や『オレ』で過ごしてたせいだ。前回、十三世紀を舞台に書いてたときは三人称だったから、やらかさずに済んだんだけど」


「メインキャラほぼ全員の死を見届けるような話でそこまで入り込んだら、やっぱりきついでしょう? 今だって、しゃべる言葉全部が痛そうな“音”をたてるのが、びしびし伝わってきますよ」


 彼は、そっと、自分の耳元の髪を掻き上げた。真珠色があらわになる。くしゃりとした形の軟骨や少し厚めの耳たぶが真珠色をしているのだ。わたしの角度からは右耳しか見えないけれど、両耳ともこんなふうだと知っている。だから髪を短くできないのだ、と。


 まだ学生の彼の「フィルター」がすでに透明度をなくしていることに、初めて対面したときは驚いたし、痛ましくも思った。


「他人から聞かされる言葉や音をいちいち律儀に拾う癖は、早めに直しな。精神的な負担が大きすぎる」

「あなたには言われたくないなあ。ぼくは音に対する反応が強いけど、あなたは『文脈』でしょう? 普通に生活するだけでも、目と耳から入る情報にフィルターが反応してしまうから、けっこうぼろぼろになってるそうじゃないですか」


 彼は、手袋をしたわたしの左手を指差した。季節を問わず、外出するときは、左手だけは必ず手袋をはめる。コントラバスとエレキベースを弾きこなす彼の指が躍って、布越しにわたしの手の甲に触れた。


 硬い。触れられたわたしも、彼の指が硬さを感じたことを知覚する。その硬さに彼が驚いたことも。


 わたしは手袋を外した。手首のすぐ上から指の付け根まで、手が一面に赤黒くて硬い。わたしのフィルターだ。柘榴石ガーネットに似た色と呼ぶにはもう、くすみすぎている。


「色、強烈だろう? ここまできつい色をしたフィルターも滅多にない。子どものころは透明で、手のひら越しに空を見て青い色がわかったのにな。こんな色になってからは、ぎょっとされることが多いから、手袋は欠かせない。傷をカバーするのにも便利だしね」


 手首には、表にも裏にも自傷の痕が白々と残っている。人差し指に噛み付く癖は今でも消えないから、皮膚はがさがさに荒れている。


 赤黒い色と傷を隠すように、彼がわたしの左手に自分の右手を重ねた。彼の手の意外な厚みと温かさに、わたしはびくりとしてしまう。並の男と変わらないくらい指の長い、関節の目立つわたしの手が、ひどく小さく華奢に見えた。


「露悪趣味というのかな、そういう言い方は精神衛生上、よくないですよ。自分から傷付きに行くのはやめてください」

「今の言葉、そっくりそのままきみに返すよ。岡目八目だ。自分のことは棚に上げて、他人の動きはよく見える」


「浄化カウンセリングは? その硬さと濁り方なら、勧告が来ているでしょう?」

「名称が嫌いだから行ってない。本格的にヤバくなったら、機械での強制を受けるよ。そのくらいの知恵はあるから大丈夫。やりたいことをやり切らないうちに精神崩壊なんかしたくない。カウンセリングの拒否は、きみも同じなんだろう?」


「まあ、そうですね。心理療法士にでもなれば社会保障として定期的に機械で濾過できると、そっち方面への就職を勧められますけど、興味ないです。好きで大きなフィルターを持って生まれたわけじゃないし、これに生き方を縛られたくありません」


 人は誰しも濾過器官フィルターを備えている。他人のつらい思い出を受け取って痛みをし、攻撃性のないものに換えて持ち主に返す。そんなコミュニケーションのために存在する器官がフィルターだ。最近では、一部の哺乳類にもフィルターを持つ個体があると報告されている。


 多くの人の場合、フィルターは眼球の一部か、手の爪の一枚だ。とても小さいから、じっと見つめる相手か密に触れ合う相手、それも毎日顔を合わせる間柄でしか、濾過は為し得ない。


 わたしや彼のように標準より大きなフィルターを持つ人間は、芸術家や学者に限って言えば、ちらほら見受けられる。わたしの好きな、「反撃」と「弱者」の名を冠するロックバンドのヴォーカリストも、長めの髪で隠した首筋に大きなフィルターがあるらしい。


 フィルターが大きければ大きいほど、痛みをキャッチしやすい。会話を交わすだけで、文章を読むだけで、あるいは音楽を耳に入れるだけで、誰に頼まれもしないのに、そこに含まれる痛みを受け取って濾過して、自分の中に貯め込む。


「アウトプットしたくなるのも当然か」

「何を、ですか?」

「痛み。わたしは、痛みを書いてる」

「その表現にこだわりますよね」


 わたしは、本来の肌の色をした右手を視界の真ん中に置いた。手のひらを見つめて、手の甲を見つめる。


 言葉を探すときや文章を組み立てるとき、手を見つめる癖がある。わたしが描く男主人公の多くはわたしと同じ癖を持つと、あるとき唐突に気が付いた。少し筋張って指の長い、自分の手の形が案外好きだ。


 わたしは、右手をテーブルに下ろした。


「アウトプットしなきゃバランスが壊れる。研究目的にせよ小説の執筆にせよ、過去の人間が書いた史料に触れることで、その人物の人生という文脈を読み取って、気付いたら貯め込んでるんだ」

「難儀ですね。だから、書いたり歌ったりするわけですか」

「他人事みたいに言うな。きみがバンドをやってるのも同じ理由だろう。次のライヴはいつ?」


 わたしの左手の上にある彼の右手が、かすかに震えた。わたしは目を上げる。彼はわたしに横顔を向けて、口元だけを笑みの形に歪めた。


「白紙です。バンドを飛び出してしまいました」

「知ってる」

「そうですか」


「きみのバンドメンバーを介さずに、二人で会うのは初めてだ。何の脈絡もなく呼び出されて面食らったよ。きみも重症らしいね」


「呼び出しは、あなたに限ったことじゃないんです。いろんな人に声を掛けて、一人にならないように……だって、出歩いたらそれなりに疲れて、きちんと眠れる。メンバーと一悶着あったこと、気付いてたんですね? それとも、誰かから聞きました?」


「勝手に気付いただけ。ばらばらの情報から文脈をつないだ。たぶん合ってると思うよ。そういうのを読み取るのは得意分野だから」


 彼がうつむいた。柔らかそうな髪が揺れて、真珠色が隠れる。


 フィルターは、生まれたときには透明だ。成長につれ、痛みをすればするほど、次第に透明度が失われていく。


 彼はわたしより十歳くらい若い。にもかかわらず、その真珠色が少しも透けていないのは異常だ。痛みを吸着しすぎている。


 何も知らなかった子どものころにずるい大人の道具にされていたと、ごく断片的に教えてもらった。異常な頻度の濾過は彼の心に大きな傷を刻んだ。治り切っていない傷を、彼自身、用心深く扱ってはいるけれど、敏感な耳に飛び込んでくる音から自分を守れないときもある。


 今回がそうだったらしい。


「ぼくだけ置いていかれたくなかったんです。ただそれだけ」


 彼の手が、いつの間にか冷えている。わたしの冷たい手がぬくもりを奪ったせいか、彼の胸が急速に冷えたせいか。


 すべき痛みが、わたしの左手を素通りしていく。言葉と沈黙が織り成す文脈は、普通ならわたしにとって十分な情報量を持つのに、彼は違う。彼とこうして話していても、わたしの手と胸は、あのじくじくとしたうずきを受け取らない。


 十平方センチメートル以上のフィルターを持つ者の九十九パーセントは他人のフィルターに痛みを与えない、という統計がある。なぜそうなのかは未解明だ。


 痛みを受け取ることの不快や苦痛を知っているから与えたがらないのだ、というお人好しな推論を、わたしは信じていない。どんなに大きなフィルターの持ち主でも、言葉による直接的な攻撃を容易におこなうことができるのだから。


「映画音楽だったんだって? 文脈から切り離されたその曲自体は、きみも知っていた。バンドメンバーが映画全体を踏まえた上でその曲を絶賛したから、きみも映画を観た」

「……その映画、知ってます?」


「学生時代、劇場で観た。嫌いだったよ。完成度は高いんだろうけど、なぜそれを制作しようと思ったのか、わたしにはわからなかった。けっこう多いんだよね、世間の評価と自分の感性がずれること。こんなわたしが書く小説がおもしろいのか、ときどき不安になる」


 彼が大きく息を吐いた。繰り返し吐く息だけが、はっきりと耳に引っ掛かる。過呼吸の一歩手前で踏み止まっているんだろう。


 吸い込む一方で吐き出せなくなったら、当たり前の呼吸の仕方を忘れる。それが過呼吸だ。対処できるのは、きっと、その症状におちいった経験があるからだ。


「よくできた映像作品って、暴力ですよね。絵も音も動いて、勝手に飛び込んでくる。拒絶できないうちに意識を呑み込まれて、全部終わってからやっと、トラウマからだらだら血を流してる自分に気が付くんです」

「経験あるよ、わたしも。だから、テレビも映画も滅多に観ない」


「まずいと勘付いたときにやめればいいだろって、傍から見ればそうなんでしょうけど、できなかったんです。今やめたら、嫌な感触と音楽が結び付いたままになる。メンバーが好きな映画と音楽を自分だけ違うふうに感じてしまうって、悔しいし寂しいし、それで……」


 声が止まる。震える息が吐き出される。いや、吐こうとするそばから浅い息が喉に入っていくようで、横顔が青ざめている。


 わたしは、彼の右手の下から赤黒い左手を引き出した。その手で彼の耳を包む。かちり、と硬い音が鳴った。


 ざらざらとした感触を、皮膚とは違う器官が知覚した。彼のフィルターが彼自身の痛みをする感触だ。わたしは彼の耳に自分の手を押し当てる。


 やめてください、と彼の唇が動くのが見えた。苦しげな呼吸にさまたげげられて、声は出ない。わたしはやめない。


「直接触れることで濾過の効率が上がる。だから、わたしは人と接触するのが嫌いになった。でも、今はこうしていたい」


 ざらざら、ざらざらと左手がうずく。他人の体温は簡単に握り潰せそうに柔らかくて、それが恐ろしい。


 あのさ、と前置きを言う。お節介は重々承知なんだけど、と。


「好きな人と同じものを好きなら幸せだよ。同じものを好きになろうと努力する気持ちもわかる。だけど、好みが完全に一致する相手なんかいない。バンドメンバーとの音楽性や芸術性の不一致は珍しくない。特にきみのバンドは、きみだけが若いしね」


 薄っぺらい言葉だ。誰かとの不一致に傷付くことに疲れて、わたしは一人になることを選んだ。そんな負け犬が何を言おうと、きっと彼の気休めにもならない。


 でも、無意味な言葉の羅列ではあっても、ここに文脈が生まれる。わたしがしゃべって、彼が沈黙で応える。文脈が動けば、わたしはを続けられる。


「きみのバンドメンバーからは、きみと連絡が付かないってことだけ聞いた。それなのに、わたしのもとに、急にきみから『会おう』って連絡が来た。こうして顔を合わせて、気付いたことがある。きみ、年齢相応に幼いな。安心した」


 彼が目を見張った。色の薄いまなざしを、わたしは受け止める。


「安心って……何ですか、それ?」

「きみの演奏も言葉も物腰も行動も、すごく大人びてる。ときどき必要以上に格好を付けようとする若さを感じることはあるけど、そんなのは還暦を過ぎた老人でもやったりするわけで、きみの年齢を思い出させるファクターにはならない」


 彼は少し笑った。


「ぼく、そんなに老けてますか?」


 自嘲の笑みは、ざらざらした感触を強くする。


「達観しているように見える、とでも言えばいいかな。きみはわたしより十歳若いのに、対等な気がしてた」

「十歳は言いすぎでしょう? それに、対等に扱ってもらえるほうが、ぼくとしてはありがたいです」


「嘘だ」


 わたしの断言に、彼の目が泳いで迷子になった。


「嘘、でしょうか?」

「今回の件があって初めて、きみが年下の男の子だってことを思い出した。きみは、もろくて幼い、繊細な人だ」


 彼は弱い人間ではない。情けなくも格好悪くもない。彼の幼さを目の当たりにした。それでいいと感じた。彼はその幼さに正直になっていい。傷付いた痛みを率直に訴えればいい。


 うつむいた彼は、ぽつりとつぶやいた。


「嫌われましたよね。この程度で傷付いたりねたりするなんて、扱いにくいガキだって、呆れられただろうな」

「わたしが読み取った範囲では、メンバーはきみに戻ってきてほしがってる。きみのベースでないと、バンドは立ち行かないよ。正直に、彼らの前で泣いてみたら?」


「泣きませんよ。泣けません」

「それも嘘だ」


 彼の耳にわたしのフィルターをぶつけると、かつんと硬い音とともに、痛みの欠片かけらぜた。わたしの左手を貫いたその衝撃は、無論、彼にも突き刺さる。不意打ちに、彼は顔をしかめた。


「痛いな。何ですか、今の?」

「泣かしてやろうと思って」


「精神に直接、痛みを突っ込んでくるって、あんまりですよ。ずきずきする」

「それがきみ自身の、見ないふりを決め込んだ痛みの実態。今みたいに、正直に痛いと言えばいいんだ。泣きわめこうが怒り狂おうが、きみがどんなに子どもっぽい振る舞いをしても、誰もきみを嫌わない。むしろ安心する」


「だから、その安心ってどういう意味なんですか?」

「年下くんには正直に甘えてほしいって意味」


「今さらですよ」

「残念ながら、物事はそう簡単には終わらないよ。日はまた、昇ってしまう。朝が来る前に泣きな。つらいなら、無理しないで」


 彼が、長く深い息を吐いた。吸い込む息に、静かなえつが交じった。ざらざら、ざらざらとわたしの手に流れ込む痛みが、涙の水圧に押されての速度を上げる。


 ぽつぽつと、涙の雨が降る。彼が目元を右手で覆った。ベーシストの長い指を、透明な雫が伝って落ちる。


 落ち着くまで泣けばいい。少しすっきりしたら、時間潰しの適当な相手じゃなく、本当に会いたい人に連絡すればいい。


 きみたちのバンドがもとに戻ってもらわなきゃ、こっちが困るんだ。きみたちの演奏は、わたしにとって貴重な浄化の機会だから。きみを気に掛けるのは、純粋にきみのためってわけじゃなく、わたしのために過ぎないんだよ。


 そんなふうに笑う濁った本心は、胸の底に隠しておく。わたしはただ、赤黒い手で彼の真珠色の耳を包んで、静かな嗚咽を聞いている。


 カップに半分の彼の紅茶の隣で、手付かずのわたしの珈琲が湯気と香りを失っていく。ここの飲み物くらいはわたしがおごろう。彼の気が進むなら、夕食も奢ろう。年下の男の子は、たまには正直に甘えてくれていいのだから。



【了】



BGM:BUMP OF CHICKEN「レム」

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【短編集】カフェタイム―ほろにがブレンド、せつなさ風味― 馳月基矢 @icycrescent

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