53 夢を乗せて走る車道

 3年間使った椅子をデスクにきちんと入れ、ロッカーの鍵を返却し、周りの教職員に挨拶をした後でいよいよ外へ出ると、青空を背景とした白い校舎が陽光を受けている。

 初めてここを訪れた日から3年。今思えばあっという間だったが、あの日の自分とは明らかに違う自分が、今ここにいる。

 視線をグラウンドに向けると、ラグビーゴールが立っていて、右手には大きなケヤキがある。宇田島の特等席だ。

 クラブハウスがあり、一番手前がラグビー部の部室だ。その横の水道では、マネージャーたちがバケツに水を汲んでいた。

 今日は午後から新1年生の仮入学があるためにどの部も練習を終えている。グラウンドは、3年前と同じく、静かだ。

 フェンスの向こうには海が広がり、数羽の白いカモメが、まだ冷たい潮風に漂っている。ホテル楊貴妃が見え、合宿でカレーを作った公会堂も見える。

「先生!」

 ふと振り返る。そこには花束を持った白石とトコと蒔田あゆみが立っている。

「どうしたんだ?」

「今日で先生が最後だということを校長先生から聞いて、ここに来ました」

 白石は無念さをにじませた表情で切り出す。するといつもは自分から話をすることのないトコが口を開く。

「センセイニ、サイゴニ、オレイヲイイタイデス。ワタシハ、ミタニセンセイノオカゲデ、ムカツクガクエンガ、トテモスキニナリマシタ。メチャ、サミシイデス」

 トコの目からこぼれ落ちる涙を見た時、三谷も思いがあふれてくる。

「先生、私もとても寂しいです」

 トコの横で蒔田あゆみも言う。

「でも私、東京教育大学の国語科教育専攻に合格しました! 先生の後輩になることができます」

「マジか、よかったじゃないか!」

「先生のおかげです。先生が言われたとおり、文武両道の方が、集中して勉強ができました。それと何より、三谷先生みたいな教師になりたいという思いが最後までモチベーションを保ってくれました。先生がされてきたような、生徒が活躍する授業ができる教師を目指します」

「そうか、それは頼もしいな。ぜひ、地元に戻ってきてほしいところだな」

 蒔田は微笑を浮かべたまま応える。

「三谷先生もご自身の地元に帰られるのなら、私も長門で頑張りたいって思っています。でも、本心では、三谷先生と同じ職場で働きたかったです」

「ありがとう。でも、いつ何が起こるか分からないのが人生だ。ひょっとして、一緒に働くことがこれからあるかもしれないよ。その時に、格好悪い姿を見せないように、俺も今から頑張るよ」

 隣で涙をすする音が大きくなる。トコが両手で顔を押さえて泣いている。

「おいおい、トコ、そんなに泣くなよ。来年花園に行ったら、応援に行くからさ」

 すると白石が口を挟んでくる。

「いや、先生、違うんです。トコは蒔田先輩に振られたばかりなんで、それで泣いてるんです」

「ちょっと、白石君、言わなくてもいいことじゃない」

 蒔田は、顔の前で虫を追い払うように手を振る。

 日本語がまだ完全に分からないトコは、蒔田に背を向けるようにして涙にむせぶ。どちらが女子なのか分からないほどの仕草だ。


「先生、3年間、お疲れ様でした」

 校舎の影からぞろぞろと人が出てくる。先頭に立って花束を持っているのは、白石の父だ。それは、上半身が隠れてしまうほどの大きくて色とりどりの花束だ。

「三谷先生 御指導ありがとうございました スリーアローズ一同」というメッセージが視界に入ったとき、胸元でつっかえていた涙が一気にあふれ出す。この3年間のあらゆるシーンが堰を切るように吹き出してくる。ほとんどが苦しい思い出だ。しかし、そんな思い出ほど、今になって、三谷にやさしくほほえみかけてくる。

 人だかりをずらして、浦が前に出てくる。

「先生、島根大学に合格しました」

 浦は満面の笑みを浮かべる。初めて会ったとき、体力作りをするためにラグビー部に入るのだと宣言した頼りなさは、もはやどこにもない。どこからどう見ても、ラガーマンの風格だ。

「島根大学といえば、一昨年おととしまで山本教授がいた所じゃないか」

 三谷は涙を手のひらでぬぐいそう言う。

「そうです。多くの企業と提携しているということで志願しました」

 浦は迷いなく答える。

 だったら、将来的には愛知国立大学の大学院に編入して、山本の直接指導を受けることもあるかもしれないな、という三谷の提案に、浦は「ぜひ、お願いしたいです」と返す。

「人工知能を活用するベンチャーを作りたいです。人工知能に頼りすぎると力が出せなかったですが、逆にうまく活用することで、普段以上の力が発揮できました。その技術は、いろんなところで応用できるはずです。人間中心の人工知能を作り出して、農業や漁業に活用するんです。この長門をハイテクの街にして、世界中から優秀な人材が集まるような場所にしたいんです!」

 普段は朴訥な浦だからこそ、その言葉には説得力がある。人だかりからは、拍手が巻き起こる。周防高校との試合の光景が鮮やかに蘇る。

 浦の背後からは神村と三室戸も出てきた。

「先生、寂しいです」

 神村は1歩前に出て言った。

「憲治、2年間もキャプテンを務めてくれて、本当にありがとう。お前がいなかったら、スリアローズはこんなにもまとまらなかったかもしれない」

「そんなことないです」

 神村の目に涙の露がにじみ出てきた。三谷はそんな神村の肩に手をやった。3年間でずいぶんと逞しい肩になったのを感じた。

 3人の3年生を取り囲むように、スリーアローズの全てのメンバーが揃っている。三谷は心の底から声を振り絞る。

「皆さん、本当に本当にありがとうございました。必ずまた、お会いしましょう」

 人混みからは拍手が起こる。周防高校との試合を思い出す。

「先生、胴上げしようじゃないですか」

 白石の父が提案してくる。

「でも、それは、花園に行ったときにっていう約束でした」

「まあ、そうですが、先生はそれ以上のものを我々に残してくれたんじゃ。感謝の気持ちを込めて、みんなで胴上げさせてください」

「行くぞーっ、せーのっ!」

 三谷は多くの人たちの温かい手により、3回、長門の空に舞った。

 宙を舞う瞬間、胸の奥が無常力の快感に満たされ、花園ラグビー場の光景が鮮明に浮かび上がった。満員のスタンドがスリーアローズの選手たちを応援してくれている。誰もが幸せに満ちた顔をしている。宇田島も、笑っている。

 向津具学園に来ることができて本当に良かったという想いが腹の底から一気に沸き上がり、涙と渾然一体となって、空中に昇華していった。

 

 みんなに別れを告げた後、坂の下でスピードを緩め、学校を見上げると、グラウンドのフェンスがキラキラと光っている。3年間の練習の間、スリーアローズの成長を見守り続けてくれたフェンスに見送られながら、ランドクルーザーのアクセルを踏む。重厚なディーゼルエンジンの音が春の息吹を感じる向津具の大地に響き渡る。

 今日はこのまま福岡空港から上京する予定だ。明日、奈緒美の両親に会うことになっている。どんな言葉を選ぼうかと思う。

 坂口教授がよく言われる、「自分の言葉」で、ストレートに語るべきかなと思う。下手でもいい。人工知能に選んでもらうようではいけない。

 だが、いくら思案しても、言葉はなかなか出てきてはくれない。

 向津具学園での思い出や、接してきた人たちの顔が次々と浮かびあがってきて、言葉を塞ぐのだ。

 国道に出た後、最後にもう1度、思い出深い学校の方に目を遣る。3年前、初めてここに来た時とはまったく違う景色に映る。

 人間のプライドとは、地獄のような孤独を耐え抜いた末に、こんなにも苦しい経験を乗り越えてきました、と胸を張って言い切れる自信なのではないか。

 青く穏やかな春の油谷湾越しに見える白い校舎を見ながら、三谷は最後の涙を拭き取った。 ( 了 ) 

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