2018年のシーズン

52 サイダーみたいな涙

「というわけで、この3月をもって、退職させていただこうと思います」

 三谷はソファに座ったまま深々と頭を下げる。校長は目を伏せ、口を真一文字に結んでいる。

「4月からは、どうなさるつもりで?」

「地元の福岡に戻って、福岡県教員の採用試験を受けます」

「福岡、ですか」

「向津具の土地、人々、すべてがあたたかくて、ずっとここで暮らしてもいいとまで思ったのですが、やっぱり、この年齢になると故郷とか母校とかが気になるものなのかもしれません」

 三谷はあえてラグビーや宇田島のことは言わない。言わないようにしている。言ったら負けだと思っている。

 自分はアウトプット型の人間で、ほとんど前しか見てこなかったから、これまで多くの人を不快にし、知らず知らずのうちに敵に回してしまったはずだ。だからこそ、最後に余計なことを言いたくはない。立つ鳥跡を濁さず、だ。

「教員試験は、夏ですよね? それまでは?」

「もちろん受験勉強をしますが、時間があれば、ここでの実践を論文にまとめたいとも考えています。それに、福岡のトップリーグのチームからちょっとしたアルバイトも頼まれているので、学生に戻った気分で文武両道に取り組みます」

「なるほど」

 この校長には何でも打ち明けられそうな気がしてくる。

「ここでラグビーの監督をさせていただき、自分にとって本当に大切なテーマが明確になってきたように思うのです。私は、ラグビーとは教育ツールだという信念をもっています。ただ、これまでは、『教育』という言葉で止まっていて、その先がありませんでした。私の目指す教育とは、地方に活力を与え、地方からグローバル社会にチャレンジする人材を育成するのだということが、ラグビーの指導を通して、はっきりとわかりました。私は、それを、ぜひ故郷でやってみたいと思っているのです」

 校長は話を受け止めた後、静かに口を開く。

「そうですか、先生のような情熱のある教師を失うのは、はなはだ残念です。理事会の方々や教職員、なにより生徒が悲しむでしょうね」

 生徒の話を持ち出されると、口を閉ざすことしかできない。

「ただ、先生が決心されているのなら、引き留めようがありません。先生の人生です。先生には、この3年間、ほんとうにお世話になりました。先生が来られてから、学校に活気が戻ってきたように思います。最後に、」

 校長はそこで一旦唾を飲み込み、こう続ける。

「最後に、私の力不足で、先生のような優れた方を転出させる事態を招き、先生ご本人にも多大なご迷惑をおかけした責任を、痛感しています」

 校長はゆっくりと頭を下げる。誠意がひしひしと伝わってくる。

 校長室を出て、ドアを閉めた時、サイダーのようなすがすがしい思いがこみ上げてくるのを感じる。


 その夜、奈緒美から電話がかかってくる。

「私も、福岡に行ってもいい?」

 突然の提案にびっくりさせられる。

「だって、それしかないでしょ。タロウさんが福岡県の教員になったら、東京に来る見込みはないじゃない」

 心が燃え上がるような喜びを覚えながら、「ほんとうに、ごめんな」という言葉が先に出てくる。

「私、もう、完全に腹をくくってるのよ。東京を離れる決心もついてる。東京は自分の故郷だし、大好きなのよ。でも、仕事も閉塞感があったし、地方に出るのも楽しい気がするの。タロウさんについていけば、私もぶれない人生を送れるって思うし」

 三谷の頬には涙が流れる。この向津具に来てから、ずいぶんと涙もろくなっているのを感じる。

「で、1つ、お願いがあるんだけど」

 奈緒美は声のトーンを変える。

「近いうちにお父さんに話をしてほしいのよ」

「もちろんだよ。めちゃくちゃ緊張するけどね」

 奈緒美の父は表情こそ穏やかだが、大企業の経営者としての風格と貫禄が漂っている。

「大丈夫よ。もう、遠回しに伝えてるし、お父さんはタロウさんのこと気に入ってるもの。元々熱い人が好きなのよ。だいいち、福岡だったら、飛行機を使えば案外近いしね」

「でも俺は、4月からプータローになるんだ。君とは身分が違いすぎる」

 奈緒美はいつもの通り受話器に息を吹きかける。

「私が福岡に行くのは、タロウさんが採用試験に合格してからよ。そこはプロとしちゃんとやってちょうだい」

 もし合格できなければどうなるんだろう、と口先まで出かかったが、寸止めする。ネガティブな言葉はネガティブな心を引き出す、というのは太多の口癖だ。そもそも、そんな生半可な覚悟で受験するつもりなどない。

「それともう1つ、タロウさんが福岡で教師になって、花園に出場したら、うちの両親を招待してほしいの」

「もちろんだ! ただ俺は、ラグビーだけを指導するつもりはないよ」

「分かってるわよ」

 奈緒美はうれしいともさみしいともつかぬ声で笑う。

「奈緒美」と三谷は言う。「ありがとうな、ほんとに。合格したら、改めて君に結婚を申し込むよ。それまで、もうしばらく待っておくれ。もちろん、俺のことだけを考えてな」

 しばらくして、受話器から涙をすする音が聞こえてくる。


「そうですか、それはいいことだと思います」

 東京教育大学の坂口宏文名誉教授は、三谷が学生だった頃と変わらぬ、しっかりとした口調で噛みしめるように答える。

「国語科教育の研究は続けていきます。ただ、なぜ国語が必要なのかを、改めて、納得できるまで突き詰めたいと考えています。これからの日本の高校生が国語の授業で何を学び、その成果をどのように活かしていくべきかを追及したいのです。そのためには、もっと生徒と関わり、見識を広げ、地域に根ざし、そこからこの国の姿を捉えたいのです」

 坂口教授は三谷の言葉を味わうように相づちを打ち、こう言う。

「大切なことです。実社会での経験を通じて、三谷君自身の言葉を獲得されることを願います。そうしてそれを、必ず目に見える形で表現してください。論文にこだわる必要はありません。私も知らない新しい方法があるかもしれませんから。そうして一回りも二回りも大きくなられた三谷君が、再び大学に戻ってこられる日を楽しみにしています。それまで私も、がんばって生き続けなければなりません」

 三谷は感謝の気持ちを伝えた後、スマホを握ったまま、電話が切れるまで頭を下げ続ける。

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