03-1 完全数はゼロを覗く

 千二百四十二回。暗色の立方体が天井を叩いた。枕元には落ちてきた木屑が散らばっている。

 しんとした部屋の中、がっ、がっ、と。立方体が宙を行き交う。

 八畳一間の部屋はいつものように綺麗に片づいていて。水に浸けておいた皿は綺麗に磨かれ棚に戻されていて。隅に固めたゴミは一階のステーションに出されていて。借り物の鍋は持って帰られていた。

 午後八時。真白ましろが夕飯を持ってくることはなかった。

 明かりを月光のみに頼った群青色の部屋で、机に置かれた合鍵は冷たい銀色をしていた。

 このまま延々と箱を投げていられそうだった。

 単調な時間が驚くほど円滑に進んでいて。御剣みつるぎは真白と別れたことを実感する。

 悲しみはなかった。後悔も、申し訳なさももうなかった。自分がなにに対して申し訳なく思ったのかさえ、もうわからなくなっていた。

 愛情の欠落は、御剣に平穏を取り戻させた。

「羊が千二百四十三。羊が千二百四十四」

 そうだ。明日からはずっとこうして羊を数えていよう。食材はある。カットサラダとレンジパックの米。まだ当分は家から出なくてもいい。

 防波堤へ向かう行動パターンの代わりを思いつき、よかったよかったと御剣は立方体を投げる。彼の表情から感情を読み取ることはもはや適わない。

「スクランブル、参上!」

 千二百四十五匹目の羊が閃光を放ち、スクランブルに変わった。

「……なんだよ眩しいなあ」

 言って、思い当たる。

「ああ、そうか夕飯か。まだだったな」

 今までは真白が導いてくれていたけれど、ちゃんと夜の食事もパターンに追加しておかないと。

 御剣は頭の片隅にメモをして立ち上がった。冷蔵庫からカットサラダとドレッシングを取り出す。

「今作るから待ってろ」

 およそ半年ぶりの自炊だったが、サラダを皿に盛りつけてドレッシングをかけるくらいのことは造作もなかった。

「…………月が、綺麗ですね」

 米をレンジに入れているとき、スクランブルが口を開いた。彼女にしてはめずらしくベッドの上にちょこんと正座で座っている。心なしか俯き加減だった。

 外では半月と満月の中間の中間くらい満ちた月がほどほどの高さでぼんやり浮かんでいた。

「そうか? 今日のを取り立ててどうとは思わないけど」

「……なんだか雨に降られたい気分です」

「晴れてるな。冷たいシャワー浴びてみるか?」

「いきなりは……恥ずかしいです……」

「その喋り方はなんなんだ?」

「おくゆかしい?」

「おかしいだけだよ」

 出会った頃の彼女とも違う。変に人間らしさを出そうとして失敗しているような口調だった。

「いじわる!」

 ぶくーっと丸い頬を膨らませるスクランブル。

「なんなんだ? もうすぐできるから『いただきます』まで黙ってろ」

「お腹、あんまりすいてない」

「でも食べるんだろ?」

「……今日はいらない」

 スクランブルの声はいつもより気持ち程度小さい。

 ようやく御剣は作業を中断して彼女を見た。

「なあ、おまえどうしたんだ?」

 闇の中にあって、金色の髪がぼやけた月光に映えていた。両横に垂れた尾が彼女の顔を隠す。

「…………乃音のおと

 ベッドシーツを見つめたまま、スクランブルは呟くように言った。

「…………愛って、なんだと思う?」

 喧嘩を売っているのかと御剣は思った。売られたところで立つ腹はないし、買う気もないけれど。

「知らないよ。僕にとってはもう、おまえに奪われた要素以上の意味を持たない過去だ」

 僅かにスクランブルが身を硬くした。

 けれどすぐに、すとんと。彼女は上げた肩を落とす。

「……そだね。私は乃音からこの感情を奪ったんだね」

「ああ、悪い。奪ったって表現は違うな。交換したんだ。願いと」

「…………」

 スクランブルはすっかり黙り込んでしまった。

 そんな折、レンジが鳴った。

「ほら、『いただきます』するぞ」

 御剣は一人分の皿を机に運ぶ。こんなことまで真白に任せていたんだなと、昨日までを客観的に顧みた。

「いいのか? 僕だけ食べて?」

 スクランブルは思い立って顔を上げる。

「……やっぱり私も食べたい!」

「ああ、そう」

 御剣はスクランブルの分も用意して再び座った。

「いただきます」

「いただきます」

 味覚のない者と食欲のない者。明かりを月に頼った部屋で二人、味けない食事をとる。

「しばらくはこれが続く。悪いな」

「いいよ」

 彼が思うよりずっと、彼女が思うより些細に、“二人”でいることの意味はあった。

 互いに黙って食事を済ませる。ときどき箸と食器が当たって小さな音が鳴る。それだけ。

 月が少し高くに昇った。

 ちょうど同じタイミングで二人は食べ終わった。御剣が目を閉じて手を合わせる。

 そこで唐突に、彼女は胸の内を口にした。

「…………私…………乃音が好き…………」

 泳ぎそうになる金色の瞳を据えて意中の人を見る。

「ごちそうさま」

 先に『ごちそうさま』をして御剣は食器を水に浸した。

「乃音が好き好き大好き!」

 きこえなかったのかと、今度は大きな声で。羞恥心ではないなにかによるセーフティーを破壊して想いを告げる。

「ふざけてないで、食べ終わったならさっさと箱に戻れ」

 はーい。条件反射でそう言いそうになる口を両手で押さえて、スクランブルは唾液ごと言葉を飲み込んだ。

「ふざけてないもん! 好きなんだもん!」

「好きって、僕のどこが?」

「全部!」

「話にならない」

「でも好きなんだもん!」

 御剣は悟った。スクランブルは受け取った愛情を持て余している。

 こういうことは何度もあった。

 自分の中に突如湧いて出たものの御し方がわからず、彼女はまるでストレスを発散するみたいに生まれた要素を安売りすることがあった。記憶に新しいところでいえば、キスがうまくなった途端にうまいキスをしようとしたのがいい例だ。

 悲しみなどのマイナスに働く要素の場合、発散は起こりづらい。もしかすると受け取ったマイナスの要素は本能的に心の底へと押し込めているのかもしれない。

 そもそもエキセントリックボックスに心があるのか、愛情がプラスの要素なのか、御剣にはわからなかったけれど、こういうときどうすればいいかは経験で知っていた。

「ああ。僕も好きだよ」

 とりあえず、合わせておけばいいのだ。

「ホント⁉ ホント⁉」

 御剣は窓を開けた。心地良い夜風が暗鬱とした部屋に入ってくる。夏の虫の囁きも一緒に。

「……でへへ」

 スクランブルはスクランブルのまま、ニタニタとひとりで笑っていた。鼻歌交じりで首を横に振るたびツインテールがペチペチと顔を叩く。

「はあ……」

 御剣は氷室ひむろのことを考えていた。

 ひとつききそびれたことがあった。べつにきく必要はないしそこまで気にもならないが、謎を残したことによる居心地の悪さがのっぺりと纏わりついていた。

 ──なぜ氷室は自分と接点を持ちたがっていたのか。

 至極簡単なはずのその答えが、御剣にはもうわからなかった。

 四等星までが見える晩。見上げた群青色の星空に、もうひとつ考えるべき矛盾を溶かす。

「ずいぶんと間に合わせな生き方をしているね。心臓はパズルピースでできていたりするのかな?」

 隣のベランダから声がした。夕凪ゆうなぎだった。

 上下紺のジャージに裸足。死んだ魚のような目が不健康なクマを携えて、僅かに水滴を乗せた細い前髪の下で空を見ていた。相変わらずだった。

 ぷかーっと吐かれたタバコの煙が群青に溶ける。

「感性ですか?」

 御剣は柵半個分の距離をおいて尋ねる。

「興味だよ」

 夕凪は柵に背中を預けて少しだけ外に身を乗り出した。

 彼女にとって御剣は初対面である。

「夜にひとりで空を見るため外に出るやつは、大概パズルピースが欠けているのさ」

「じゃあ、同じですね」

「そうだね。その年で私の領域にまで踏み込んでいるなんて。まったくかわいそうに」

 そんな愚にもつかない言葉を並べてようやく、彼女は本来会話の頭にもってくるべき言葉を口にした。

「はじめまして。隣人くん」

「はじめまして。隣人さん」

 御剣にとっては四度目の「はじめまして」だった。

 昨日の今日。今回は再会のスパンがずいぶん短かったなと御剣は思う。

「夕凪アリス。引きこもりの美大生さ」

「御剣乃音。夏休みの高校生」

 彼女はいつものように風呂上がりの露を滴らせ、ジャージを危機感の薄い着こなし方で羽織っていた。

「高校生の時分に少女を連れ込み告白されるとは、青春じゃないか」

 夕凪は防音もなにもない薄い壁を剥き身の足でトンと叩く。

「隣人くんはけっこうモテたりするのかい? あまり人を幸せにはできそうにないけど」

 いかにも嫌味っぽいセリフをまるで嫌味っぽさなく言われたのは、これで四度目だった。

 だから御剣もこれまでと同じように返す。嘘や偽りを交えずに。

「こんな僕に唯一付き合ってくれていた人と、今日別れました」

「ああそう」

 夕凪はまたタバコに口をつける。

「それでさっきのかい?」

「好きって言われたから好きって言っただけですよ」

「なるほど。最高だ」

 ふっふっふっ。夕凪は喉の奥でおかしそうに笑ってクルリとタバコを回した。

 ──タバコ、やめたほうがいいですよ。昨日と同じくそう注意しようとしたとき。

「やだぁー!」

 暗がりの部屋から飛び出してきたスクランブルが御剣の腰にひしと抱きついた。

「うわっと」

 あまりの勢いに押されて転がり落ちそうになる身体をぐっと戻す。

「おいスクランブル。火傷はまだだ」

 命じるまで他人に姿を見せるなと言っておいたのに。

「他の女の人と話しちゃやだー!」

 ぐしぐしと丸い顔が背中に押しつけられる。

「おや驚いた」

 これはおもしろいと夕凪はタバコから口を離す。

「ずいぶん幼い声質だと思ったが、まさか本当に幼かったとは。幼女趣味かい? 相容れないな」

「違いますよ」

 御剣はスクランブルの丸い頭を掴んで降ろした。

「今日のおまえは変だぞ」

「乃音が私を雑に扱うからだもん!」

「ふっふっふっ。これはいい」

 夕凪は柵に押しつけてタバコの火を消した。

「幼女。キミは隣人くんが好きなのかい?」

「りんじん? 私は乃音が好きー!」

「そうかそうか。でもな、幼女。好きな相手には直接『好き』なんて言うもんじゃない」

 首を傾げるスクランブル。

「ならなんていうの?」

「『一緒に死んでみたい』くらいがロックだぞ」

「やだ!」

 がしっ。御剣の身体が掴まれる。

「乃音が死んじゃやだ!」

「おしいな。その場合は『だったら私が先に死ぬ』だ。相手に永遠を残してやるのはたぶん、なかなかに気持ちいいぞ」

「あんまりからかわないでくださいよ」

 御剣のため息が夜の世界に溶ける。

「こいつはまだ人間として不十分なんですよ」

「それを隣人くんが言うのかい? 好きを好きと言えるだけ、少なくとも私や隣人くんよりは人間をしていると思うけど」

「そういう隣人さんも、好きだの恋だのの話をするときは普通の女の子みたいにイキイキするんですね」

「オーライ。キミはやっぱりモテる部類じゃないね。普通の女の子なら今のでカチンときてるところだ」

 ふっふっふっ。夕凪は昨日より長い間笑っていた。

「ところで隣人くん。キミはどうしてそんな目をしているんだい?」

「え?」

神代かみしろ』にはなっていない。まだ御剣の目は一般的な栗色のままだった。

「人間味が感じられないよ」

 なんだそういうことか、と御剣は柵に頬杖をついた。

「どうしてでしょうね」

 曖昧にぼかす。

「隣人さんこそ、目が基本的に死んでますよ」

「ふっふっふっ。そりゃあ私はべつに生きていることが楽しくないからね」

「どうして?」

「どうしても」

 どうしても。いろいろと勘ぐれる物言いだった。

 例えば。どうしても好きじゃないのと、どうしても好きになれないのとが、似ているようで決定的に違うように。

「だから私の愛にはたぶん、いつも死への願望が付き纏う」

 御剣は黙って耳を傾ける。

 スクランブルはわけがわからんと言いたそうに口をポカンと開けていた。

「隣人くんは」

 と夕凪は言って、その先を飲み込んだ。

「……いや、やめておこう。これでも女の子なもので。出会って初日の男子に重量を測られたくはない」

「なに?」

 企みを冗談で包むことをよしとしなかったのはスクランブルだった。

 彼女が人身御供ひとみごくうである御剣以外に対してここまで──しかも自分からコミュニケーションをとったのは初めてのことだった。

 やはり愛情を受け入れてから、スクランブルはいつもより目に見えて変わっていた。

 柵の間に顔を埋める少女に急かされた夕凪は、うーんと夜空を眺めてため息交じりに口を開いた。

「隣人くんは、例えば私が頼んだら殺してくれるかい?」

「殺さないですよ」

 二桁の足し算に答えるように御剣は言う。

「そうか」

 僅かばかり残念そうに夕凪は目を細めた。赤い髪は朧な明かりによく映えた。

「いかにも人助けをしそうな人間に見えたから、人殺しくらいわけないかもと思ったんだけど」

「どういう理屈ですか」

 軽く笑って御剣は流す。流して、飲み込んで、理解した。

 彼女がもう、自分を対等には見ていないことを。自分より壊れた人間として御剣乃音という存在を見ていることを。

 夕凪アリスにとって、人助けは人殺し以上の破戒だった。

「…………乃音のこと、好きなの?」

 そう、スクランブルが尋ねた。御剣には『プリンが好きなの?』と同じ質量の問いにきこえたが、スクランブルはスクランブルなりに真剣だった。

「まさか。私の命は出会って間もない少年と心中したがるほど安くないよ」

 それに、と弁解は続く。

「一目惚れなんて年でもない。一目惚れが許されるのは十二歳までだ」

「なんで十二歳?」

「語呂がいいだろ」

「なるほど」

 御剣にはさっぱりわからなかった。

 それに、と弁解は続く。

「私はこれでも美大生なんだ」

「びだいせー?」

「そう。大金積んで隔月で絵を描いているのだ。そんでお偉いさんに見せている。いつか有名な絵描きになるために」

「有名になってどうするんですか?」

 後半は初耳だった。絵を描いていることもそうだが、御剣は夕凪を、勝手に名声や金には興味のない人間だと思っていた。

「それは秘密だよ」

 秘密の断片を語る夕凪の目はありふれた少女以上に輝いていた。

 その秘密が死と深い結びつきにあることなど想像もできないくらい。

「だからその夢を叶えるまでは死んでやらない」

 真っ赤な髪は月夜を飾り、細くまっすぐな瞳は世界の裏側にある太陽を睨む。

 夜にだけ咲く花よりも儚く。朝の日差しを浴びる雑草よりも強い意志がそこにはあった。

「こんな私は、どうだい? 隣人くん」

「意外でした」

「それで?」

「死にたがりなあなたと、生きたいあなたが、うまく折り合いをつけられたらなあと思いました」

 そうなったら、もしかしたら彼女はタバコをやめるかもしれない。

「ふっふっふっふっふっふっ」

 六連府で夕凪は笑う。

「この関係、最高に気持ち悪いね」

 昨日もきいたセリフだった。けれど今日は、なにを指して彼女が笑っているのか、御剣にはわからなかった。

「さっきの言葉、隣人くんにそっくりそのまま返すよ」

 彼女は最後まで小さく笑いながら、これ以上は湯冷めすると言って部屋に戻っていった。

 鼻から息を吐き出して、御剣もスクランブルを連れて同じようにする。

 関係性にもし勝ち負けがあるとしたら、今回は夕凪の勝ちだった。

「乃音ー」

 そんな勝負など関係なく、スクランブルは自身の内から込み上げてくる愛情に従って御剣にこびりつく。

「ボックスに戻れ、スクランブル」

 バタリと倒れる二人の身体をベッドが弾んで受け入れる。

「キスしてくれたら戻るー」

「いいから戻れ」

「……はーい」

 やや強い口調で命じられ、渋々スクランブルは言う通りにした。

 人間が折りたたまれて立方体になる。その立方体を御剣がまた天井に投げようとしたとき。

 ──ガゴン。玄関扉が一回叩かれて、懐に荷物を受け入れた。

「……?」

 こんな時間にルートポスティングかと訝しがりながら、御剣は郵便受けの中を覗いた。

 真白からの手紙が入っていた。


          ◆


 やたらと靴音が反響する階段を上る。夏の蒸し暑さを寄せつけないアクリルは冷たい。

 うぐいす色の壁に四方を囲われた、まさに上に上るためだけの場所。目の前には十四階の表示。その先には錆びついたノブを突き出したドアが行き止まりみたいに立っていた。

 御剣はノブを捻る。キイィと嫌な音をたててドアは開いた。

 閉塞感を叩いて延ばしたような階段の先には開けた夜が佇んでいた。粒ほど近づいた、欠けている月と薄らぼやけた星。大三角と大熊の間を明滅する鉄板が羽を生やして飛んでいる。遠くのほうには高い建物がいくつか。街の明かりのほとんどがこちらを見上げている。西には海、東には落日ストリートが眠っていた。一軒家の住宅なんかは宛ら地面に落ちたおもちゃだ。平面のセメントが縦に広がり、端を囲うざらついた壁は簡単に乗り越えられそうだった。

 そんな屋上の真ん中に、少女が立っていた。

 高い場所はそれだけ吹く風も強く、括られていない無防備な黒髪が海のほうに流れていた。まるで夜が漂っているようだった。

 セーラー服と紺のフレアスカート。学校指定のニーソックスとスニーカー。彼女の装いは今朝と変わらない。

「話って?」

 御剣は懐に手紙をしまった。

 少女はそよぐ髪をおさえてゆっくりと振り返った。

「大事な話だよ」

 真白セツミの弱った声は細かな波形を描いてなんとか御剣まで届いた。

「乃音、ケータイは?」

「ああ、捨てた」

 連絡をくれる相手はもういない。ならば願いも叶えない物を持っている意味はなかった。

「捨てたって……それじゃ話もできないじゃない」

「ああ、悪い」

 御剣は謝る。責められる覚悟はできていた。

「私がどうしてここに呼び出したか、わかる?」

「ああ、悪い」

 真白は笑った。

「なにが?」

「一方的に別れを切り出して」

 彼女の奥歯が軋む。

「私のこと、もう好きじゃなくなった?」

 感情のない淡々とした問いが三メートルを泳ぐ。

 感情のない淡々とした答えが三メートルを泳ぐ。

「ああ、悪い」

「なにが?」

「好きじゃなくなって」

「どうして?」

「え?」

 エキセントリックボックスは腰に巻いたポーチの中で静かにしていた。

「……ねえ、乃音」

「ああ」

「私たちって、いつから付き合ってたんだっけ?」

「……わからない」

「私も」

 あるいはその関係は、どこかでなし崩し的に始まったのかもしれない。「好きだ」という言葉もないままに。

「じゃあ、私たちってどうして付き合ってたんだっけ?」

「……わからない」

「…………わからないかあ……」

 真白の心臓がパズルピースを象った。思い出という絵を完成させるために一欠片ずつ機械的に抉り取られていく。

「私はたぶん、お互いに好きだから付き合うんだと思うよ」

「ああ」

「だから私はそういう理由で付き合ってたよ」

「ああ。僕もだ」

「そっか」

 少女の心が今と過去で分離していく。

「その『好き』を、僕は失くしてしまったんだ。失くしたのに、この関係を続けるわけにはいかない。関係で真白を縛るわけにはいかない」

「どうして?」

「え?」

「どうして失くしちゃったの? 私、なにかした? 写真のことで怒って、嫌われたかな?」

「違う」

 どうして失くしたか。エキセントリックボックスに愛情を格納されたからだ。

 けれどそんなことを真白に伝えるわけにはいかない。普通の人間には信じられない荒唐無稽な話だし、もし信じたとしたら、彼女はきっと僕の境遇を思って胸を痛めるだろう。最小価値である自分のために彼女が傷つくことは望まない。

 そんな思考が真実を隠す。嘘をつかずに真実を霞ませる。

「僕は真白のことを嫌いになんかなっていない」

「じゃあどうして?」

「嫌いじゃない。ただ、好きでも嫌いでもない存在になっただけなんだ」

 少女の心はバラバラに分解され、彼女の中にいくつもの思い出を象った。

「…………は……っはは!」

 その絵の全てを、彼女は笑いながら破壊してまわった。無の暗黒に喰われて形のなくなった心臓を携えて。

「っははははっ! ははっ!」

 鈍器。ライフル。果物。麦わら帽子。紫。自転車。文房具。答案用紙。宇宙の向こう。放課後。テレビゲーム。明日。トランペット。バスケットボール。小説。

 実体のある物から、事象、概念に至るまで。全てのものを笑いながら投げて、彼女は彼女の絵を破壊した。それらは途中から彼女の指示を待たずに覚えた破壊を繰り返した。

 数千。数億。無数のひび割れたピースが無秩序に暗黒へと散らばる。

「はははは! はは、はぁ……!」

 広大な夜の闇を背負って、少女は屋上で息をするのも忘れて笑う。

 心はもう見つからない。

「真白、どうしたんだ? 大丈夫か⁉」

 御剣は彼女の豹変ぶりにたじろいだ。その理由もわからずに。

『大事な話がある。屋上に来て』

 それだけが書かれたノートの切れ端を受け取って御剣はここまできた。

 彼と彼女の“大事な話”は笑えるくらいに違っていた。

 事実は事実として、覆しようのないものとして。御剣はのこのこと責められにやってきていた。そのことも含めておかしくて。真白セツミは涙を流しながら笑った。

「…………無色透明」

 言葉にして、彼女はようやく息を吸う。

「……乃音。わかる? 好きでも嫌いでもないっていうのは、嫌いになられる以上に……くるんだよ?」

 御剣は自分の言葉が、心が、彼女を傷つけたのだという認識に至らない。至れない。接点を持った人間から忘れられることにさえ無痛でいられる御剣には、自らの悪徳がわからない。自分を最小価値に置いた御剣には、自分に最大の価値を見出す人間の気持ちがわからない。

 御剣乃音は壊れている。

「悪い」

「うん。悪いよ。同じくらいに、私も悪い」

「……? 真白は悪くない。一方的に関係を切ったのは──」

「──乃音」

 長い息が透明な夜風にさらわれた。

「今日、愛情を失くしたんでしょ?」

「……ああ」

「じゃあ……」

 彼女は線を引いた。最初から壊れていた関係の輪郭をなぞった。

「乃音は昨日まで、ホントに私のこと……好きだった?」

 当たり前だと御剣は頷く。愛情は今日失ったのだから。

「じゃあ……」

 真白は言葉にする。なし崩しで繋がっていた関係に鋏を入れる。

「乃音は私のどこを愛してたの?」

 星が瞬く。月が移ろう。鉄板が空を飛ぶ。街の明かりが消えていく。

 数秒待っても、十年待っても、答えは返ってこなかった。

 あるいはその沈黙が、何にも勝る最悪の──圧倒的な答えだった。

「…………僕は……」

 どうして答えられないのか。

 どうして言葉が出てこないのか。

 どうして口は噤まれるのか。

 まるで御剣乃音が御剣乃音に縛されているよう。恨みのように。怒りのように。捨てられた要素が束になって今の彼を痛めつけているかのよう。

 心が、軋んだ。

 愛情という感情は忘れた。もう御剣がだれかを愛することはない。

 それでも、過去にどう愛していたかは伝えられるはずなのだ。

 打算を失い信念に突き動かされるようになっても、それまでどんな打算をしていたか思い出せるように。悲しみを失っても、どんなふうに悲しんでいたか覚えているように。キスのうまさを失っても、どんなふうにキスをしていたかは知っているように。

 どんなふうに彼女を愛していたかは、伝えられるはずなのだ。伝えられないはずがないのだ。

 分解された心が、軋んだ。

「僕は……!」

 どうして思い出せない?

 どうして覚えていない?

 どうして知らない?

 愛がなにかわからなくても、どう愛していたかはわかるはずだ。どう思って、どう感じて、どう行動して、どうなったか。彼女がなにかをしてくれたときにどう思ったか。自分が彼女のためになにかをしてあげたときにどう思ったか。彼女に対してどう接していたか。

 自分の中の特別を探す。他の人間と、有象無象と真白の違うところを探す。

 考えるたびに、ない心が、軋んだ。

「僕はッ!」

 探す。探す。考える。考える。思い出す。思い出せ。あるはずだ。なにかあるはずだ。共通点。相違点。呼吸が荒くなる。疲れはないのに苦しい。痛みはないのに心が悲鳴をあげる。

 御剣乃音が分解されていく。

「……乃音は……」

 身体が重たい。沈んでいく。セメントの大地に沈んでいく。

「乃音は私のことを……」

 立っていられなくなる。倒れる。心が、砕け散る。


「…………最初から愛してなんかいなかったんだよ」


 最初から見えていた真実を告げた真白の瞳から雫が垂れて流星となった。

 星も、月も、空飛ぶ鉄板も、街も、その雫は他の光を全部吸収して残酷なほど美しい輝きを放ち、落ちた。

 冷えた地面に落ちて弾けてシミになるまで、一瞬一瞬見る角度によって光り方を変える様は、人間から生み出された──形のないエキセントリックボックスのようだった。


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まるで人だな、ルーシー 著:零真似 角川スニーカー文庫 @sneaker

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