01-2 脆弱な整合性


          ◆


 御剣がひとりの時間は長く続かなかった。

 視界の隅でエキセントリックボックスが宙に浮き、ひとりでに展開を始めた。昼間と同じ要領で、彼女はすっかり暗くなった部屋に誕生した。

「スクランブル、参上!」

 しゅぴーん。そんな効果音がきこえるようだった。

 高くない天井に足をついて逆さまに立つ、見た目小学生の現象──スクランブル。彼女を包むマーブル模様のスカートが無防備に捲れ上がり、彼女のツインテールを後ろから丸め込んだ。

「お腹すいた!」

 開口一番、いや、二番にそう言って、七色パンツの幼女は食事を要求する。

「はいはい」

 いつものように座っているよう御剣はスクランブルに命じた。

「この残り食べたい!」

「好きにしろ」

「じゃあ食べる!」

 クルリと縦に半回転して円卓の前に座った彼女は箸とスプーンを両手に持って、がつがつがつ! テーブルマナーを喰い殺す勢いで皿の上にあるものを片っ端から口の中へ流し込んでいく。

「乃音のもほしい!」

「好きにしろ」

「じゃあ食べる!」

 スクランブルには味覚がない。ただし食欲はある。御剣から奪ったから。

 食欲を奪われた日、どんな味がするかと皮肉っぽく尋ねた御剣にスクランブルは「わからない」と答え、どんな感じがするかと尋ねられると「生きている感じ」と答えた。

 まったく「生」をバカにした存在だと御剣は思う。既にそこに自分も含まれていることを笑いながら。

「おかわりもほしい!」

 あっという間に二人分(正確には減っていたからだいたい一人分)のカレーを平らげたスクランブルがキラキラした目で鍋を指さす。彼女の身体とその周辺には思い切りブラシを振ったみたいに茶色いシミができていた。

「それはダメだ」

 御剣には食欲がない。しかし食べなければ死んでしまう。だから明日の朝食べる分は置いておかないといけない。

「はーい!」

 元気な返事を天井へ飛ばし、スクランブルは残りのサラダとスープと麦茶をひとつずつ片づけていく。

「なあ、スクランブル」

「んーっ?」

 御剣は部屋の隅についたスイッチで風呂の湯を沸かしながら尋ねた。

「おまえと出会った頃と比べて、僕はどのくらい変わった?」

「えっとねー」

 食べ物を胃に落とすだけの作業を止め、口許に手を当てながら考えること数秒。

 ちっちゃな中指と親指をパチンと鳴らしてスクランブルは答えた。

「私が変わったぶんだけ変わったー」

 スクランブルは時々真理を口にする。それはやはり、幼く見える彼女が同時に人智を超越した存在であるからなのかもしれない。

 昔のスクランブルと今のスクランブルはだいぶ違う。

 どうやらつまり、自分は真白の言う通りけっこう変わってしまったらしい。

「じゃあ」と問いは続く。

「それが今のおまえは悲しいか?」

 変わった僕が──変わった自分が──変わることが悲しいか?

「んーっ」

 口許に手を当てながら考えること数秒。

 スクランブルは指をパチンと鳴らして答えた。

「わかんない!」

「だろうな」

 当然だ。昨日まで悲しみは僕の感情だったけれど、変わることが悲しいかどうかなんて考えてもわからなかったのだから。今日悲しみを手に入れたやつにわかるわけがない。

「食べ終わったら食器は水に浸けとけよ」

「はーい!」

 脱衣所にいって服を脱ぐ。湯船に浸かって考える。

 ──真白とのキスを拒んだのは、本当に真白のことを思ってか?

 真白はキスをするかどうかの選択を僕に委ねた。でもあのニュアンスは、たぶんキスを求めていた。

 注意されて写真を捨てることは簡単にやめられたのに、せがまれたキスをできなかったのはなぜだ?

 ……僕は真白を愛せているのだろうか?

 三年前から始まり、人身御供として、僕を構成するいくつもの要素を支払ってきた。いつどこでなにを買ったか逐一記憶していないのと同じで、自分が今日まで願いを叶えるために差し出してきた代価の全てを記憶してはいない。

 愛情は、まだ残っているのだろうか?

 疑問は髪についた泡ほど簡単には洗い流せなかった。

 数十分して風呂から上がると、既にスクランブルは円卓の上で縦横二十センチの立方体に戻っていた。皿は言っておいた通り全て流し台の桶に浸けられていた。

 改めて、奇妙な立方体だと思う。

 願いを叶える力を与え、人に擬態し、願った人間の構成要素を奪う。感情であったり、思考パターンであったり、癖であったり。

 先程それを“代価”と例えたが、差し出すものと願いの内容に関係はない。

 些細な願いを叶えるのに大きな代償を要求されたり、かと思えば無理難題を要求しても些細な代償で許されたりする。

 願えばそれは必ず叶うが、必ずなにかを失う。エキセントリックボックスはそういうふうにできていた。

「……ひとり、か」

 呟き、無性に寂しさを覚えた。

 悲しむ心は失われても、寂しく思う気持ちは残されていた。その辺のさじ加減は曖昧だったりする。だからこそいつの間にか不感症になっていく自分が御剣は怖くもあった。恐怖する心もどうやらまだ残っているらしい。

 御剣は窓を開けてベランダに出た。遠くないところで夏の虫の声がした。

 日があるうちはなにも考えないでいられるが、月明かりはいつも鏡となって自分と向き合うことを強いる。そんなとき、御剣はよくこうして外に出る。

 眼下に散在する家々からは幸せの灯が零れていた。

 御剣はベランダサンダルに履き替えて視線を上にあげる。

 広がる星空は、普段人見知りをする六等星さえはしゃぎたくなる美しさだった。無理なこじつけで成り立っている星座や、世界を汚して飛ぶ鉄板さえ許してやれるくらいの。

「ずいぶんと尊大な感性をしているね」

 と、隣のベランダから声がした。

 血よりも濃い赤に髪を染めた女性──隣の部屋に住む美大生だった。

 上下紺のジャージに裸足。死んだ魚のような目が不健康なクマを携えて、僅かに水滴を乗せた細い前髪の下で空を見ていた。ぷかーっと吐かれたタバコの煙が闇に溶ける。

 彼女のベランダは四隅に植えられた植物と散らかった吸い殻でできていた。

「エスパーですか?」

 御剣は柵半個分の距離をおいて尋ねる。

「感性だよ」

 女性は背中を柵に預けて少しだけ外に身を乗り出した。

 彼女にとって御剣は初対面である。

 元々他人との適切な距離感というのを探るのが嫌いな人だったと、御剣は記憶している。

「夜にひとりで空を見るため外に出るやつは、大概世界をバカにしているもんさ」

「じゃあ、同じですね」

「そうだね。その年で私の領域にまで踏み込んでいるなんて。まったくかわいそうに」

 そんな愚にもつかない言葉を並べてようやく、彼女は本来会話の頭にもってくるべき言葉を口にした。

「はじめまして。隣人くん」

「はじめまして。隣人さん」

 御剣にとっては三度目の「はじめまして」だった。

「夕凪アリス。引きこもりの美大生さ」

 夕凪は御剣の返しが気に入ったのか、柵から背中を離して代わりに片肘をつく。

「御剣乃音。夏休みの高校生」

 胸元まで降ろされたジャージのチャックの上では肌色の深い谷間が覗いていた。彼女がベランダに出るときはいつも決まって風呂上がり。裸の上にジャージだけ着て夜風に吹かれている。

 わりと仲良くなった二周目──辻褄合わせに合う前の彼女が教えたことだった。

「高校生の時分に違う女の子を同じ日に連れ込んでるのは感心しないね」

 夕凪は防音もなにもない薄い壁を剥き身の足でトンと叩く。

「親の顔が見てみたい」

 いかにも嫌味っぽいセリフをまるで嫌味っぽさなく言われたのは、これで二度目だった。

 だから御剣もこれまでと同じように返す。

「親はもういないんですよ」

 御剣がその事実を事実のまま伝えたことがあるのは彼女にだけである。

 夕凪なら、自分のことを理解しようとして理解できないことに傷つかないから。

「ああ、そう」

 夕凪はまたタバコに口をつける。

 無遠慮というか、淡泊というか、御剣は彼女のそういう冷たさが好きだった。

『人の事情なんてわからないものだ。だから空虚な同情に意味はない』

 以前の彼女が口にした言葉である。

 御剣は夕凪に対して自分と似たなにかを感じていた。

 大事な部分が欠落し、なお落とし続けている人間。空白に向かって生きているような人。無に近づいていく人。それがなぜかは彼女の言う通りわからないけれど、夕凪もまたどこかがずれた人間であることは、世俗離れした雰囲気が教えていた。

 エキセントリックボックスなどなくても、人間は場合によっては“こう”なるようだ。

 そう思うと、自分の変化も正当化できる気がした。

「一人暮らしは楽しいかい?」

「いえ、特には」

「自堕落な引きこもり生活はなかなかだよ」

 ふっふっふっ。夕凪は喉の奥でおかしそうに笑ってクルリとタバコを回した。

「タバコ、やめたほうがいいですよ」

「むっ」

 会話の流れそのままに注意され、楽しそうに煙を吹かしていた夕凪が途端に「つまらない」と鼻でため息をついた。

「がっかりだな、隣人くん。キミはそういう当然のことを口にしないやつだと、この一分少々で勝手に思っていた」

「べつにタバコはいいんですけどね。すぐうっかり火種落としちゃったりするんですから。火傷跡とか残ったら嫌でしょう? 一応、女の子なんだし」

「安易なキャラ付けはやめてほしいな。隣人くんも勝手な思い違いはよくないよ。自堕落なお姉さんにドジッ子属性は含まれない。それは隣人くんの趣味かな?」

「さあ?」

 惚けながら、御剣はそういう部分が真白にあるのか考えてみた。

 気立てが良く、僕のために泣いてくれる真白。

 カレーを残して去ったのはドジなのか。そんな単純な話ではない気がする。彼女に理由を見出そうとすること自体が間違っている気がする。

「おや?」

 と、惚けたきり黙り込んだ御剣の顔を夕凪がおもしろそうに覗く。

「思い当たる節でもあったかい?」

「そうだといいんですけどね」

 御剣がそう答えたとき、夕凪が疎かにしていた手元から滑るようにタバコが落ちた。

「あっつ‼」

 諦観色の余裕を纏っていた夕凪が跳ね、ジュウッと炙られた足を抱える。足には明日青く変わるであろう赤い炎症ができていた。

「言わんこっちゃない」

 慌てた様子で自分の足をふうふう冷ます彼女は、自身の輝かせ方さえ知っていればもっと可憐に見えると思う。外見のパーツひとつひとつは決して悪くはない。

 吊り上った目は繊細な線を描き、スッと通った鼻筋は彼女の人生観とも通じる芯を窺わせる。肉厚な唇ときめ細やかな肌。扇情的な流線形の脚線。熱や痛みに晒されたときにだけ見せる子供のような反応。

 足先だろうと、火傷跡を残すのはやはり忍びなかった。

「なんてことはないさ。私の唾と吐息の甘美な魔法でこんなのは治る」

「じゃあその魔法は、いつか僕にかけてください」

 御剣が右手を広げる。意志をもってまっすぐ部屋から飛んできた立方体がその中にピタリと納まった。

 夕凪が抱えた足をストンと落として、ほんの少し驚きを表情にする。

「彼女の火傷を治せ。エキセントリックボックス」

 夜空に放られた、今は冷色のエキセントリックボックスが夜空を真っ白な閃光で染める。

 星も月も街灯も、閃光は全部を飲み込んだ。

 そして世界が色を取り戻したとき、宙に制止した箱は崩れて少女の姿に再構築される。

「スクランブル、参上!」

 今回はダブルピースで参上したスクランブル。

 彼女は細い柵の上に舞い降りてアンバランスを楽しみながら確認する。

「代償は、キスのうまさだけど?」

 御剣は「なんだそんなものがあったのか」と鼻で笑った。

「ああ。そいつは僕にいらないものだ」

「そっか!」

 スクランブルはうれしそうにニコーッと笑って、柵からベランダに飛び降りた。

「じゃあ、いくよ?」

「ああ」

「オッス!」

 スクランブルは両手をない胸の前で構えた。腰を捻り、その片方を御剣の腹へ捩じ込む。

「どおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおんんんんっ‼」

「ごっっはっっっあぁああああっ‼」

 御剣はスクランブルのピンポン玉みたいな手の上で「く」の字になった。

 同時に今回の願いの叶え方を理解した。前の二回と同じ要領だった。

「じゃあ、一分間の『神代』タイム、スタート!」

 伸びた髪の奥で瞳を赤くした御剣が、軽く助走をつけてひょいと向こうのベランダまで跳んだ。手を柵につき、両足を投げ出して、七階の上空──幅一メートル、高さ二十メートルの空間を渡る。

 トン、と命ごと隣のベランダに着地した御剣は、足下に散らばった吸い殻を見て「はあ」と息を吐いた。

「隣人くん……キミは被虐願望でもあるのかい?」

「あれが僕にとっての魔法を使う準備なだけですよ」

「…………魔法、ねえ」

 御剣の背後には、仰向けになり、柵で身体をU字に曲げて遊ぶ幼女がいた。頭に血が上る感覚や手を伸ばしても届かない星を見てキャッキャとはしゃいでいる。

「まあ、そういうこともあるんだろうね」

 夕凪はいつも順応が早かった。

“あれ”がなんであるか、考えたところで理解できない手合いのものだと悟ったから。

 他人の事情や自分の未来を思ったとき、「どうせわからない」とすぐに諦め相対することをやめてきた彼女だからこそ、現象として存在するあの箱を見てもそれを現象以上には捉えなかった。

 ──隣人くんがそういうのなら、きっと本当に魔法が使えるのだろう。そう見切りをつけて、彼女は尋ねる。

「それで? まさか私の火傷を治すためだけにその魔法とやらを使うのかい?」

「はい。僕は他人を助けるために生きてますから」

 迷いなく。曇りなく。御剣は彼女の嘲笑とまっすぐ向き合ってそういった。

「おいおい、夜の冗談は恋の話より笑えないよ」

 間になにも介さない距離で、彼女は困ったように向けられた感情を笑う。

「私の、この? ちょっと熱かっただけの、痛み? 痕跡? そういうのを取り除いて、隣人くんになんの得がある? 恩を着せるには相手もタイミングも悪すぎるよ」

「そうですね」

「だったら美辞麗句で行為を飾りたてるのはやめようじゃないか。私はその『人助け』ってやつが一番嫌いなんだ。その次が『無償の奉仕』でその次が『ボランティア』だ。『無料』と『施し』はわりと好きだけどね」

「それでも僕はあなたが困った瞬間にあなたを助けますよ。いつでも、どこでも」

「わからないやつだな」

 夕凪は幻滅する。

 他人にしばらく評価をつけていなかった彼女にとって、それは久しぶりの感情だった。

「夜に星を眺めようとするやつはもう少し賢いものだと思っていた。正しくない世界を正しくバカにした者同士、私たちはもうちょっとうまい関係を築けると思っていた。隣人くんは『助ける』なんて浅慮な言葉だけは使わないと勝手に思っていた」

 自分でも急に饒舌になったなと夕凪は思う。もしかしたら自分と同じように歪んだ人間を見つけてうれしかったのかもしれないと夕凪は思う。彼が急に正しくなって、傷つきはせずとも悲しくなったのかもしれないと夕凪は思う。

「人の事情なんてわからないものだ。だから空虚な同情に意味はない」

「……」

 夕凪のよく回っていた舌が止まった。

 それは本来彼女の言葉であり、彼女の生き方だった。世界をバカにしてずれた人間の信条だった。

「僕は僕の事情で人を助ける。目の前に襲われている人がいれば自分が死ぬことになっても助けるし、子供が風船を飛ばせば宇宙までだって手を伸ばす。人を助けることだけが、僕の生きている理由だから」

 御剣乃音は人身御供としてその身を捧げ、他人を助ける。そのために生きている。

「わからないでしょう? わからないことは、あなたらしく、わかろうとしなくていいんですよ。隣人さん」

「……ああ。ちっともわからない。けれどべつのことはハッキリとわかった」

 ──御剣乃音はこれ以上ないほどずれている。身に余る矛盾を抱えて。

「足を出してください」

「……ふん」

 夕凪は不満そうに鼻を鳴らしつつ、言われた通り焦げ跡のついた白い足を上げて、すっと御剣の前に差し出した。

「拒まないんですね」

「魔法がどんなものか見てやろうと思っただけだよ」

 そう強がりながら、夕凪は星空と街灯に群がる虫を見ていた。

 それに気づかないフリをして、ほんの少し頬を赤くしている彼女に御剣は魔法をかける。

「──いたいのいたいの、とんでいけ」

 人差し指が傷口の上で三度回ってそのまま夜の向こうへ流された。

 既に冷めていた夕凪の足先から、赤い炎症痕が消えていく。

「へえ」

 彼女は淡泊に思ったことを口にする。

「……気持ち悪いな」

「それ、じつは三度目のセリフだったりするんですけどね」

「私とキミが、もう三度会っていると。そういうことかい?」

「さあ?」

「隠すねぇー。もしそういうことなら、どうせ私の記憶が消えたり書き換えられたりするんだろう?」

「いつも鋭いですね」

「一度目と二度目はなににその力を使ったんだい?」

「三回とも、タバコの不始末ですよ」

「なるほどね」

 ふっふっふっ。世界をバカにした笑い声が地上に落下した。

「道理で隣人くん──キミを見たとき、声をかけたくなったわけだ。既視感とでもいうのかな?」

「最初からあなたはそんな感じでしたよ。タバコの落とし方も」

「好きなんだけどね。慣れないんだ」

「べつのことを好きになって、やめたほうがいいですよ。それかちゃんと靴を履くか」

「説教しても無駄だよ。綺麗さっぱり忘れてやるから」

「でしょうね」

 御剣は来たときと同じように柵を跳んで自分のベランダに戻る。吸い殻どころか目立つゴミひとつないその場所は、悲しくはないけれど、少し寂しく思えた。なんだか先の自分を見ているようで。

「いっぷーん!」

 ふざけた調子のタイマーが鳴り、干されていたスクランブルが柵から外に転がり落ちる。間もなく御剣と同じ高さまで浮き上がって彼女は宙で制止した。

 御剣の瞳が栗色に戻る。

「またあなたが困ったら、僕が勝手に助けますよ」

「なるほど。私になにかあると、他人を助けたいという隣人くんの願いを結果的に叶えることになるのか。それがどんなに些細なことでも。隣人くんは私を無償で助け、私はそんな隣人くんを無償で助けてしまっているのか」

「そうですね」

 先にスクランブルを部屋に入れ、自分もそうしようと御剣が半分段を跨いだときだった。

「ねえ、隣人くん」

 ぶつぶつと呟いていた夕凪が状況の咀嚼をやめ、御剣を呼んだ。御剣は振り返って右半分の顔で彼女を見る。

「この関係、最高に気持ち悪いね」

 至上の蜜を蓄えた花のような。清流に反射する月光のような。

 慈悲そのもののような微笑みで、彼女は溌剌とそう言った。

「そうですね」

 御剣は苦笑して窓を閉める。そして。

「じゃあ、キスのうまさをもらうね」

「ああ」

 御剣とスクランブルは愛のない口づけを交わした。

 自分が築いている関係は、人間味のない気持ち悪い関係なのだろうと御剣は思った。

「さらばっち!」

 スクランブルはまたエキセントリックボックスとして縦横二十センチの立方体に戻った。

「……今日は少し喋りすぎたかな」

 口許を軽く拭い、御剣はベッドに倒れた。そのまま習慣でエキセントリックボックスを天井に投げようとして、やめる。また真白になにか言われたくない。

「羊が一匹。羊が二匹…………」

 御剣はエキセントリックボックスを放して眠ることにした。

 食事をして、風呂に入ったら、あとは眠るだけだ。

 午後十時。羊が三百匹精肉された頃、御剣は目を閉じて今日の活動を終えた。


 だから彼は知らない。遠くない場所で一瞬、夜が降ろした闇を裂く真っ黒な閃光が蛇のように走り、欠けた月と重なったことを。

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