01-1 脆弱な整合性
エキセントリックボックスがなんであるかを
不思議な箱と表現するにはあまりに奇妙な点が多く、また、不思議な人間と表現するにはあまりにそれを超越し過ぎていた。
だからその立方体はたぶん、神様だとか悪魔だとか、そういうものが生み出して、正しく捨てなかった見切り品のようなものなのだろうと思う。
エキセントリックボックスは御剣の願いをなんでも叶える箱であり、いずれ御剣を破壊し尽くす箱だった。
同時に。
赤子以上に無垢で、純粋で、空白の人間であり、いずれその対極に居座り全知全能となる人間だった。
つまりそれは、物体を真似た現象であり、概念だった。
「──羊が四百十二匹。羊が四百十三匹」
ごん。ごん。ごん。
シミとキズで実質以上古く見える天井を一定の間隔でエキセントリックボックスが叩く。
御剣はベッドに仰向けで寝転がると、口遊びでなんとなく羊を数えながらエキセントリックボックスを投げていた。
シミはともかく、天井のキズはほとんどがこの無意味な行為によってできたものである。
今日も家に帰ってかれこれ三時間弱。べつにまだ眠る予定はない。
曇りガラスの向こうにある世界はオレンジ色に染まっていた。
エキセントリックボックスは御剣の手と天井を行き交い、影に向いた面と窓から差し込む明かりに向いた面とで色を変えた。
ふいに、ごとんと。もう何年も画面を映していないテレビの横に飾っておいた写真が倒れた。
御剣はエキセントリックボックスをベッドに置いて写真を立てかけ直す。
そこにはもう会うことのない父と、血の繋がっていない母と、二人の手を肩に置かれてぎこちなく笑う十二歳の自分がいた。
「……もうこれもいらないな」
昨日までの御剣は、この写真を見る度、胸に楔を打たれるような気分になっていた。その楔をよこす写真を戒めか救済のように飾り続けていた。
けれどもう、その写真からなにかを訴えかけられることはなくなっていた。
悲しみはもう、なくなっていた。
御剣は部屋の隅に置いてあったゴミ袋に写真を詰めて縛る。
そして再び羊でも数えようかとベッドに向かったところで、インターホンが鳴った。
だれが来たのかはだいたい想像がついていた。
「やっほ」
玄関ドアを開けた先には
差し込む夕映えに、後ろで括った黒髪が艶めいて光る。
「まーたドンドンいわせて」
「ああ、悪い」
靴を脱いだ真白が御剣の腕を潜って家の中へと入っていく。味けない返答に膨れる真白を通して、御剣はドアを閉めた。
「ちゃんと呼んでよね。来るから」
「ああ、悪い」
「もう」
まっすぐキッチンへ向かってコンロに鍋を置いた真白。慣れた様子でつまみを捻って火をつけると、中のものを温めている間に食器ケースから二人分の皿を取り出す。
「ちょっと待っててね。今朝作ってたやつだから」
「ああ、助かる」
ドサリ。ベッドに腰かけ御剣が言う。
やや考えて、真白は呟いた。
「まあ、よし」
収納棚からパックの米を取り出し電子レンジへ投入。パックが回っている間に鍋の蓋を開け、取り出したオタマで浅く掬い、一口。
「うん、やっぱ半日でもねかせると違うね」
漂ってくるカレーの匂いで鼻を満たしながら、御剣は手際よく調理をこなす真白をぼんやり眺めていた。
トレンカレギンスとフレアスカートの間から覗く細い足。手入れの行き届いた白い肌。局部は滑らかな起伏を描きつつ、全体の印象としてはスラリとしてしとやかに見える身体つき。大人びた優しさと子供っぽい悪戯心を混ぜ合わせて美しさと可憐さを抽出したような顔立ち。外見だけみても釣り合っていない関係だと思う。
では内面でなにか勝っているところがあるかと言われればかぶりを振るしかない。
放っておけば外に出ているとき以外は延々羊を数え続けていかねない自分を気遣い、真白はこうしてよく食事を持ってきてくれる。食事だけではない。部屋の掃除や洗濯だって自分でやった回数より真白にやってもらったことのほうが多いだろう。
夏休みに入るまでは数日おきにやってきていた真白だったが、夏休みに入ってからはほぼ毎日世話を焼いてくれている。
どうしてこんな自分と真白が交際関係にあるのか?
考えたところで、事実以上の答えは出てこなかった。
「ほら、『いただきます』するよ」
「ああ」
彼女の元気な声は暗がりの部屋を明るくしていた。
窓際に置いた小さな円卓の前に二人は座る。卓上には三対七の割合で盛りつけられたカレーライス。和風ドレッシングで和えられたカットサラダ。インスタントのスープ。よく冷えた麦茶。プラスチックの箸と銀スプーン。いずれも二人分。
スプーンを手に取りカレーを頬張ろうとする御剣の額が二本の指でトンと小突かれる。
「いただきます」
小突いた手に右手を合わせてそういうと、真白はサラダを口に運んで「悪くない」という顔をした。
「……いただきます」
同じようにして、カレーを食べる御剣。味はいつも通り文句なしだった。今日も全てがさりげなく、御剣の好みに合わせて作られている。
「サラダなくなったから買い足しといてね」
「ああ」
「お米も」
「うん」
「おかわりもあるから」
「うん」
「明日の朝の分も」
「ああ」
「どう?」
「え?」
御剣の手が止まる。
「味」
机に頬杖をついて真白は言葉を待っていた。
「ああ、おいしいよ」
小さく笑って、御剣は掬ったカレーを彼女の口へ放り込む。口をもぐもぐさせてごくんと飲み込むと、幸せそうに鼻を鳴らして真白は言った。
「うん。おいしい」
「そうだろ?」
自慢げにスプーンを回すと、先端に残っていたカレーがフローリングに飛んだ。実のない悪態を吐きながら真白は手近にあるティッシュでそれを拭く。御剣はそれを眺める。
御剣にはまだ味覚があった。しかし食欲はなかった。およそ一年ほど前から。
以来、御剣は“まだ生きているため”だけに食事をとっている。
「いつもありがとう」
御剣はおいしい“だけ”の料理を胃に落としながら真白に言う。
真白は驚いたようにティッシュを捨てに立った足を止めた。
「どうしたの? 急に」
「急じゃないさ。ずっと思ってたことだよ。真白は僕にとって、神様がくれた幸福そのものみたいだ」
「またずいぶんと詩的じゃない」
茶化したのは恥ずかしかったから。白い肌が赤くなったのはうれしかったから。
「ポエミーなのはダメか?」
「ううん。むしろいい。いつもより
なにげなく口をついた本音だった。照れ隠しに検閲を省きすぎたのかもしれない。
言ってすぐ、真白は後悔する。
「……ごめん、無神経だった」
「なにが?」
真白はその返事を彼の優しさだと思った。
御剣は彼女がなにを謝っているのかわからなかった。
「なんでもない」
気丈に笑って、向けられた幻の優しさに甘える真白。次はもう少し配慮のできる人間になろうと反省して、彼女は部屋の隅に置かれた可燃ゴミの袋を開ける。その中に妙なものを見つけた。
ポイとティッシュを捨てて終わりだったはずが、そのA6サイズの額縁に入れられたものが気になって、彼女はつい無遠慮にそれを拾い上げてしまうのだった。
「……ッ!」
穏やかな幻は刹那の霧となって散り、あとには現実以上に退廃した世界が残された。
あるいは全て、とっくの昔に壊れているのかもしれないと真白は思った。
「乃音……これが、なんで、ここにあるの……?」
精一杯、明るさを装う。間違いを、願う。
振り向いて、尋ねる。幼い頃からもう正しい笑い方を忘れていた少年に、捨てられていた家族写真を見せる。
「ああ、それはもういらないから」
彼女は笑えていると思っていた。それなりに上手に。写真の彼よりはうまく。
「……いらないって……モノじゃないんだよ……?」
下向きの目尻から零れた雫が流星となって白くて綺麗な世界を伝い、フローリングの地上に落ちた。
言っている意味が御剣にはわからなかった。
たしかにその写真は昨日まで御剣にとって多少なりとも特別な作用を催していた。しかしそれは特別なものだったからだ。それが今や効力を失い、特別でないものに成り果てた。だから捨てた。
とはいえ、真白を泣かせている時点で御剣にとっては自分が悪い理由になる。だから謝る。
「ああ、悪い」
御剣乃音にとって、御剣乃音以上ないがしろにしていい存在はいない。自分のことでだれかが嫌な気持ちになるのなら、それは自分のせいなのだ。エゴでも悲劇への陶酔でもなく。
心から、御剣は自らを最小単位で見ていた。
「…………アホ!」
強く、きつく。人肌の温もりが、芯の部分で冷えた身体を抱きしめる。彼の肩を涙が濡らし、石鹸の匂いが鼻腔をくすぐった。二人の身体がベッドにぶつかる。
ガタンと。エキセントリックボックスが床に落ちた。
「乃音のアホ! バカ! 鉄人! シワなし心臓!」
真白は彼の代わりに泣いていた。
「なにがあっても、乃音のほうから繋がりを切っちゃダメなんだよ……いらないからって捨てられるものじゃないんだよ……」
彼の胸に顔を埋めて心臓の音をきく。御剣がそこにいることを確かめるように。
「……乃音はもっと自分を大事にするべきだ」
真白はときどき思うのだ。御剣乃音は“あの日”を境にだれか別の人間と──あるいは御剣乃音を忠実に再現しようとする機械と入れ替わってしまったのではないかと。
それがありえない話だと、真白にはときどき思えなくなる。
御剣の心臓は規則正しく一秒に一回のペースで血液を送り出していた。今の真白と比べると、まるで彼の鼓動は徒競走をセレモニーの行進と勘違いしているみたいだった。
「やっぱり乃音……最近変だよ」
「ああ、悪い」
御剣は自分が変わってしまっていることを自覚していた。感覚よりも行動統計で。
たしかに昨日までの自分はあの写真を捨てられないでいた。でも今日は捨てられた。ならばそこにはなにかしらの変化があったはずだ。その変化とはなにか。
わかっている。自分の心から悲しみが失われたからだ。
わかっていた。エキセントリックボックスを手に取った瞬間から、自分が変わっていくことは。エキセントリックボックスのことをなにも知らないはずの真白にその変化を指摘され、「ああ、彼女の感覚は鋭い」と御剣は感心してしまった。
しかし求められているのは感心ではない。安心だ。
「写真、捨てないでおくよ。僕が間違っていた」
御剣は真白の頭を優しく撫でてから写真を拾い、元の場所に飾った。
やはりその静止画にはもうなんの感慨もなかったけれど。
「…………ねえ…………」
立ち上がった御剣の背中にトンと軽い重さが寄りかかる。腰から胸へ細い腕が伸びて身体を密着させる。柔らかい感触が御剣に伝わる。
「…………キス、しよっか」
その言葉をどれだけの勇気でもって口にしたのか、一方的な抱擁に晒されている御剣には測りかねた。だから、精一杯背伸びをして、雪のように白い顔を真っ赤にして俯いている真白を御剣は知らない。
真白は確かめたかった。確信したかった。幼馴染の──自分の知っている御剣乃音がそこにいることを。味けない返事ばかりの彼が温かな人間性を隠し持っていることを。それから、自分に対する感情のいくつかも。
「……やめておこう」
御剣は小さな声でそう言った。彼なりに彼女のことを思って。
十五センチの間隔に沈黙が降りた。外はもう宵闇だ。この薄紫は、もうすぐ黒に変わる。
「…………そっか」
真白は御剣を放した。
彼女の表情が色を失くしていくのを、転がった立方体だけが見つめていた。
「……じゃあ、帰るね」
「……ああ」
真白は玄関へと歩いていく。御剣はその場で立ち尽くす。
二人の間に生まれた共通の答えが、彼女を急かし、彼の足を止めていた。
「──乃音」
玄関扉を開けたところで真白が御剣を呼ぶ。そこでようやく御剣は振り向く。
「明日の夜、お鍋取りにくるから。それまでに食べといてね!」
彼女は元気に笑っていた。半開きのドアの向こうから、しわくちゃにした綺麗な顔と、その横に垂れて揺れるポニーテールを覗かせて。
「ああ、助かる」
御剣は穏やかに笑った。少なくとも、それは心からの笑みだった。
「よろしい」
優良判定を最後にバタンとドアが閉められる。
部屋には当たり前に御剣ひとりだけが残された。
一生、一線を越えることはないのだと、あの瞬間に悟った二人の片方は皿に残されたカレーを見つめてため息を零し、片方はドアの向こうで点描の星も見ずさめざめと泣いていた。
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